壊れた心
「どうして私の名前……」
「え? ああ、君か来る数分前くらいかな……『メリーちゃんっていう子が同室になるからね』って教えて貰ってね。まぁ、明日になったら忘れてるんだけどさ」
そう言って頭を掻きながら苦笑する少年。彼の名を訪ねようとしたメリーの言葉は、突如開いた扉の音で遮られた。
扉の開く音にメリーの肩が跳ねる。カツカツと靴音を鳴らしながら部屋へと入ってきた女が、少年を見て眉を顰めた。
「あらフレンくん、あなた課題がまだのようだけど? ダメじゃないちゃんとやらなきゃ」
女の声を聞いた少年――フレンが小さく舌打ちをする。渋々立ち上がると、メリーのベッドとは反対側にある机へとついた。黒色のクレヨンへと手が伸びる。
ふん、と鼻を鳴らした女はメリーへと視線を向けるとにこりと笑みを浮かべた。それを見たメリーが身震いをする。何だか、嫌な感じがした。
「さぁ、メリーちゃん。治療のお時間よ」
「あ、え……わっ……」
ベッドから車椅子へと移され、そのまま部屋を連れ出される。部屋の扉が閉まる直前に見えたフレンが何かを言いかけるが、言葉が発せられる前に扉は閉まってしまった。
「……あ、あの……」
「なぁに?」
メリーが遠慮がちに声を掛けると、車椅子を押す女が優しげな声で答えた。廊下が静かなのでやけに大きく聞こえる。
視線を手元に落としたままのメリーが口を開く。
「ち……治療、って……なに、するんですか……?」
「受ければわかるわよ。大丈夫、なんにも怖いことなんてないからね」
そうですか、と消え入りそうな声で呟いた言葉を最後に再び沈黙が流れる。車椅子の車輪が回る音だけが廊下に響いた。
しばらくすると、ドアの前で車椅子が止まる。女が鍵を開け、扉を開くとメリーの口から小さな悲鳴が漏れた。
「入ったらすぐに電気をつけるからね」
暗闇が広がる部屋の中に車椅子を停め、車輪にブレーキがかけられる。扉が閉まる音を最後に、部屋の中から光が失われた。
「じゃあ、つけるわね」
パチン、という音と共に部屋に灯りが灯る。見開かれたメリーの瞳が、怯えるように揺れた。
メリーの目の前に広がっていたのは、一面の真っ赤な世界。壁も、床も全てが赤色。
「そのまま動かないでね」
女は手元に下がっていた紐を握るとそれを思い切り引っ張った。瞬間、メリーの頭上から冷水が降り注ぐ。
「……っあ゛……ぁ……」
突然冷水を浴びせられたメリーは、その場で体を縮こまらせる。寒さと恐怖からか、震えて歯がカチカチと音を鳴らす。
女はホースを手にメリーの側までやってくると、頭上の入れ物に再び水を汲み始めた。
「頑張ってね。これもメリーちゃんの病気を治すためだからね」
「いや……や……ごめんなさい……ごめんなさ、い……も、許して……!」
にこりと笑いながら、女は再び紐を握る。
やめて、とメリーの口が動く。声にはならなかった。
そうして女はもう一度紐を引く。メリーは再び頭から冷水を被った。
「ひっ……ぁあ゛っ……!」
「うふふ。さぁ、もう一度いくわよ」
休む暇もなく冷水を浴びせられる。何度も何度も繰り返されているうちに、メリーは妙な感覚に襲われた。
まるで、今酷いことをされている自分を外から眺めているような、そんな感覚。
「(……そう、か…………)」
これは自分じゃないんだ。酷いことをされているのは自分じゃない。
あんなに冷たい水を何度もかけられて、なんて可哀想。でも大丈夫。だってあれは『私』じゃないのだから――。
縮こまり、頭を抱えていたメリーの腕がするりと落ちる。もう水を浴びせられても、声は出ない。
焦点の合わなくなった空色の瞳だけが、水が流れていく赤い床をじっと見つめていた。
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