07

「よ、終わったのか?」

「ああ、一通りは。……傷の具合は、大丈夫か?」

 木の下に戻ってきたウォードは、躊躇い迷うようにあちこちへ視線を彷徨わせた後、おずおずと俺の前で胡坐をかいた。微妙に距離がある。目一杯に手を伸ばしても、どうにかギリギリ届かないだけの空白。

 あらら、と苦笑の一つでもしたい気分だった。俺とウォードは、ほんの三日前に知り合ったばかりだ。奇跡的に馬が合って、即親しくなったなんてこともなく、今までの旅路だって特別に仲良しこよししてた訳じゃない。ただ、ここまで明確な距離を取ってもいなかった。

 この前の夕食で自白剤の入ったスープを払い落とそうとしたように、それ以前にも時たまアメーリアに分からないように嫌いな野菜をこっそり移していた――好き嫌いしないで食べなきゃ駄目だろ、と嗜める言葉は聞こえなかったことにしておいた――ように。それができるくらいには、俺たちは日々近い距離で飲み食いしていたし、夜も馬車の中で並んで眠るのが常だった。そんな風に過ごすことが苦にならない相手だと感じていた。

 それももうお終いかと思うと、少しだけ残念に思わなくもない。まあ、騙していた自業自得と言われれば、それも否定できないんだが。

「問題ないよ。少し派手に血が出たが、そこまで深い傷じゃない」

 わずかに胸中に差した感傷を、努めて遠ざけながら答えると、ウォードはあからさまにホッとした表情を浮かべた。かと思いきや、さっと顔つきを引き締め、生真面目な口振りで言う。

「それは良かったけど、やっぱり圧迫とかしておいた方が良かったんじゃないか? その方が血だって早く止まるだろ」

 その文言を聞くのは、二度目だ。よくよく心配してくれる、とここまでくると感心に近いものを覚える。

 血塗れの着衣は川のほとりに、あわよくば囮になってもらう為にそのまま残してきた。これまでいた川向こうでは獣の気配も絶えていたが、こっち側はその確証もない。大仰に血の臭いを垂れ流して、余計な獲物まで釣りたくはなかったから。

 俺がそうすると告げた時に言われたのが、一回目。全てを捨てていかないで、傷の手当に使うべきじゃないか、と。けれど、俺はそれを断った。それに出血を抑えようとしたところで、大して意味がないことも分かっていた。だから、同じように繰り返す。

「言ったろ、必要ないって。もう血はほとんど止まってるし、傷自体塞がりだしてるぜ」

 ほら、と上着の裾を持ち上げて腹を露出させてやれば、「レイン!」と慌てふためいた、それでも抑えられた声が咎める。だが、その声もすぐに萎んで消えた。

 次第に夜明けが近付き、空も白み始めている。少しずつ明るくなっていく森の中で、ウォードにも見えたのだろう。川縁にいた頃にはぱっくりと口を開けていた――しかし、今は早くも塞がり始めた三本の爪傷が。

「嘘だろ、もうこんなに……。そういえば、自白剤も効かないんだったよな。もしかして、何か祝福が?」

 世に広く普及している魔術には、もちろん傷の治療にまつわるものも存在する。だが、それは時間の巻き戻しのような大魔術でないかぎり、即座の回復はなしえない。祝福だって、そうだ。損傷の即時修復なんて、どの国だって目の色を変えて確保にかかるだろう。

 驚きに目を見開かせ、ウォードが俺を見る。その目の奥にかすかな昂揚めいたものが過ぎった気がしたのは、自分の同類を見つけたのではないかという期待ゆえのことか。……でも、悪いな。そうじゃあないんだ。

「いや、俺にそんな大層なもんはないよ。昔取った――取らされた杵柄って奴さ。持って生まれた祝福とは程遠い、地獄の釜の底で煮込まれた呪いが精々だ」

 この件については、語る口調がついつい皮肉っぽくなってしまう。まだ終戦から、たったの三年しか経っちゃいないんだ。割り切ることなんて、とてもじゃないができやしない。

「じご、く?」

「そう、この世の地獄。泥沼の、どうしようもない戦争だった」

 ぽつりと落とされた呟きに、頷いて答える。なるべく感情を乗せないように、反芻する過去に引きずられないように……殊更に淡々と。

 そう、と吐息のような相槌を打ったウォードは、おもむろに俺を見た。正面から、まっすぐに。

「子供でさえ、兵器にして戦わせるような?」

「……何だって?」

 問いの形をしておきながら、その物言いはほとんど断定に近かった。

 腹の奥でむくりと鎌首をもたげるのは、警戒と疑問。何を知っている? あの戦争で俺たちがそういうものとして使われたことは周知の事実だが、表向きと言えど、終戦に伴い組織が解体されたことも公表されていたはずだ。あいつや俺を「あれ」と関連付けられる奴が、部外者でどれだけいるか。

 俺がウォードを見返す眼差しは、少なからず険しいものになっていただろう。それをどう解釈したのやら、ウォードは少し慌てた風で続けた。

「いや、ごめん、何を言ってるんだろうな、俺は。口が勝手に――さっき、気絶してる間に見た夢に、まだ引っ張られてるのかもしれない」

 夢? 何だそりゃ。

 怪訝に思うまま「どんな」と訊ねてみれば、ウォードは眉間に皺を寄せ、言いにくそうに口を開く。

「それこそ、戦争の……だと、思う。街が燃えていたんだ。赤く、夜さえも焦がして。俺――というか、俺の視点は、その景色を見下ろす子供に入ってた。周りにも小さな子供がたくさんいて、俺の視点になっていた子が指示を出すと、次々に姿を変化させて戦場に向かっていった。あれも、そういう魔装具だったのかな。鎧じゃなく、竜や獅子の形をした外装を着けるような」

 始め訥々としていたウォードの語りは、次第に滑るように流暢さを取り戻していった。口に出して語ることで、連鎖的に夢の内容を思い出しているのだろう。

 その心当たりのありすぎる「夢」の話を聞きながら、俺は一転して頭を抱えたい気持ちで一杯だった。申し訳ないどころか、自分への怒りではらわたが煮えくり返りそうだ。ついさっきの俺は、何様で怪しんで警戒していたのか。何を知っているのか、じゃねえよ。何もかも俺のせいだよ馬鹿野郎。

 ウォードの語りが終わると同時、深々とした嘆息が口を突いて出た。

「悪い、ウォード。本当に申し訳ない」

 腹の傷が痛むのも無視して、両手を地面について頭を下げる。ウォードが困惑も露な声で俺の名前を呼ぶけれど、情けないやら申し訳ないやらで、構うどころじゃなかった。

 あの時は、ああするしかなかったと思う。今、そうなると分かっていても、同じ状況に陥ったら同じことをするだろう。だが、だからってあんなもんを見せちまうことまでもを、仕方がないとは言えない。言いたくもない。……くそ、とんでもない不覚を取った。

「いきなりどうしたんだ。そんな風に動いたら、傷にだって障るだろ。ほら、顔を上げて」

 腰を上げて、膝で歩くように距離を詰めてきたウォードが穏やかな声で言って、ぽんと肩を叩く。そこまでされても、俺は顔を上げることができなかった。

「レイン、何か俺に対して思うところがあるのは分かったよ。でも、まずは顔を上げてくれないか。傷だって痛むだろ? 俺に何か謝らなくちゃいけないことがあるのだとしても、俺はそれが何のことなのか分からない。だから、事情を説明して欲しいんだ。な?」

 まるで小さな子供に言い聞かせるような響きだった。噛んで含めるような物言いが染み込むにつれて、少しずつ頭の中に冷静さが戻ってくる。

 事情も教えずに一方的に謝るのは、ただの自己満足でしかない。誠意を見せようと思うなら、それこそ謝罪に浸っている場合じゃなかった。

「……それも、そうか。そうだよな、ごめん」

 細く息を吐いて、身体を起こす。胡坐をかいた膝も触れ合いそうな近いところに、ウォードはいた。深緑目が、気遣わしげに俺を見つめている。話してくれるか、と問われたので、もちろん頷き返した。

「あんたが見た夢は、きっと俺の記憶だと思う」

「記憶? ただの悪夢じゃなくて?」

「そう。あんたは人喰いの吼え声に乗った魔力で精神をやられてたから、俺の魔力を注いで人喰いのを押し流して、引き戻したんだ。人喰いのにやられて精神的に無防備になってたところに、俺も俺で消耗してて加減が利かなかったのがまずかったんだろうな。少し混じっちまった」

「じゃあ、あれは、本当にあったことなのか」

 愕然として呟くウォードには、ただ肯定を返すしかない。

 ウォードの語った夢は、かつて俺が見た景色そのものだった。現実に起こった、純然たる事実。忘れようはずもない過去。否定のしようがなかった。

「俺や人喰いは、昔同じ組織に所属してた。戦争の道具だったのさ。さんざ改造された。だから薬にも慣らされてるし、傷の治りも早い。――で、長い戦争が終わって、俺たちは負けて、組織は解体されて、かつての敵国に接収された。ただ、その時に何人か逃げ出した奴がいて、今もほとんどが行方が知れない。俺は表向き傭兵としてあちこちを放浪しながら、そいつらの後始末をしてるって訳だ」

「逃げた仲間を、連れ戻す為に?」

「ま、一応はそんな感じかな。戻れと説得して戻るならそれで良し、戻りたくないなら自分で事情を説明するなり取引するなり、俺じゃなく俺を使ってる上の連中とやってもらう。……ただ、あの人喰いはどこかで道を踏み外したか何かして、壊れちまったみたいだな。正気を取り戻せるようなら連れ帰るが、駄目なら始末するしかない。それが『今』の上からの命令だ」

 気は重いが、それこそ仕方がない話だ。これ以上被害を出す訳にはいかないし、あいつに罪を重ねさせる訳にもいかないのだから。

 ため息を吐いて笑うと、つきりと脇腹が痛んだ。傷もだが、それ以上に胸の奥に凝った何かが辛い。ああ、全く呆れちまう。まだ二人目でこのザマだ、先が思いやられるぜ。

「まあ、なんてーか……巻き込んで悪いね」

 すぐ後ろに佇立している木の幹に背を預けて言えば、ウォードが目を見開く。それから、悲しげな表情を浮かべて頭を振った。

「それはお前が……ああいや、君が、謝ることじゃないだろ。君が直接、俺に何かした訳じゃない。それに、昔の仲間と戦うなんて」

 辛いじゃないか。心底痛ましげに紡がれる声音を聞きながら、頬がかすかに緩んでいくのを感じる。

 感慨としては、驚き半分だ。そんな風に言われるとは重いもしなかった。それにしても、前からそうだなとは思ってたが、こいつは――

「あんた、本当にいい奴だな」

「……普通じゃないか? それより、明るくなってきたけど、どうしようか。まだ少し休んだ方がいいなら、日が昇った頃に馬車と合流を目指そうと思うけど」

「んにゃ、すぐに動こう。罠まで張ってもらったとこ悪いけど、人喰いとカレルとの三つ巴は厄介だ。ただ、接触さえできれば、カレルの奴はそこそこの勝率で無効化できると思う。奴を押さえ込めないまま、もう一度昨日と同じ状況を作り出されるのだけは防いでおきたい」

 答えると、ウォードはかすかに眉を寄せた。窺うような目顔。

「何か当てがあるのか?」

「ちょっとね」

「……分かった、すぐに動こう。君のことは俺が運んでくけど、いいよな?」

「え? 自分で動けるけど」

「駄目だ。その傷、塞がり始めてても塞がりきった訳じゃないだろ。頼れるものがあるなら、素直に頼れ」

「何だよそれ、『いいよな』って訊いた意味ねえじゃん」

「訊かないよりいいだろ?」

「開き直りやがった!?」

 非難の声も何のその、ウォードはにっこりと笑ってみせる。こ、こいつ意外に食えねえな……。

 ただ、奴もさすがに俺の変化について割り切るまでには至らなかったらしく、

「ところで、一つ訊きたいんだけど」

「うん? 何だよ、いきなり改まって」

「今まで姿を変えてた『仕掛け』だったか? あれって」

「あ、ごめん。壊れたっぽいんだわ」

 無情な事実を伝えると、あからさまに肩を落としていたりした。

「そんな反応すんなら、あんたも無理しなけりゃいいのに」

「無理はしてないよ。そうするべきだと思ったから、やるだけだ」

「ふーん。ところで、顔赤くない?」

「ないです」

 いきなり敬語って、それも大分動揺してる証じゃね? などと思わなくもなかったが、そこを突っ込んでも誰も幸せになれないような気がしたので、止めておいた。

 因みに、担ぎ方はどうするか迷ったものの、軍人とかが負傷者を運ぶ時によくやる奴になった。対象を横向きにして、肩に乗せるような。ウォードは俺が肩を跨いで前に垂らした腕と足を掴んで落ちないように固定しているが、これなら万が一の時に片手を使うこともできる。多少傷は痛むし、頭に血が上りそうにならなくもないが、これなら比較的移動速度を落とさずに済むし、贅沢は言えない。

 まあ、それでも問題があるとすれば、やっぱり――

「そんな緊張すんなって」

「してないよ」

 要するに、今の俺はウォードの背中に腹ばいになって密着している状態だ。長らく筋肉を鍛える方に偏っていただけに、その点について、俺はお世辞にも豊かな方だとは言えない。それでも、密着すれば潰れるくらいの脂肪の備えはあった。

 担ぎ上げた時点まではよかったものの、そいつが背中の辺りにむぎゅっとした辺りから、ウォードの奴は隠そうとしても隠しきれない程度には、動きが硬くなっちまったのである。

「あんた、意外に嘘下手だな?」

「いいから、黙って担がれててくれ。……気にしてる場合じゃないと思って気にしないようにしてるんだから、意識させないでもらっていいか」

「意識はすんの?」

「レイン」

「ごめんて」

 おっとっと、名前を呼ぶ声の低いこと低いこと。そろそろ黙っとこ。暇だからって邪魔しても悪いし、退き際はわきまえないと、だ。

 それにしても、こいつが穏やかで真面目な奴だとは承知してたつもりだけど、意外だな。飄々としたところもあるから、こういう事態もある程度受け流すんじゃないかと思ってたんだが。

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