11

 まっすぐに俺を見つめる目は、在りし日の灰色そのままだった。

 最後の最後で戻ったのか、それとも今までがある種の装いだったのか、それは分からない。だが、今ここにいるデゼノヴェが、かつて俺が知っていた妹分だということだけは確かだった。

 確かなのだと、理解した。……或いは、信じた。

「殺せと敵の街に放たれるのも、殺せと敵に剣を向けられるのも。身体を弄くり回されて、実験に使われるのも」

「だから、逃げたのか」

「うん。でも、駄目だった。本当、駄目、ね。逃げても、逃げた先でも、自由なんてなかった。私は化け物だった。偽っても、隠れても、結局は見つかって追われるの。石を投げられて、剣を突き立てられて、その繰り返し。だから、苦しくて、辛くて、憎くて――」

「食った」

「……そう。だって、襲ってくる人たちから逃げる度、やり返す度、魔力を使うおなかがすくんだもの」

 デゼノヴェの浮かべた微笑が歪む。

 それは、どれほどの苦しみだっただろう。束の間の安息はことごとく崩壊し、その度に追われる。次こそは、次こそはと希って、その全てが裏切られた。気持ちは推測できる。辛かっただろう。苦しかっただろう。腹立たしく、憎くもあっただろう。

 ――だが、それでも。

 俺は、言わなければならない。

「だからって、人を食っちゃいけなかったんだ、デゼノヴェ。それが俺たちを人と化け物と分かつ、きっと最後の境界なんだよ」

「分かっている。分かっていた。そうよ。でも、どうして? どうして、こんなことになってしまったの。ニーユ、教えて。皆が言うの。化け物だって、殺せって。生かしておくなって。ねえ、私達は、生きていてはいけないの?」

 血を吐くに似た叫びに、俺は咄嗟には答えることができなかった。偉そうに説教するのなら、今こそ言葉に詰まっちゃいけなかっただろうに。

 だが、詰まっちまったもんは仕方がない。深呼吸を一度。

 伏せたいのは山々だが、説教紛いのことを言えばこそ、目を逸らすにはいかなかった。灰色の目を、真正面から見下ろす。

「悪いな、俺はそれに答えられない。答えようがない。俺にも分からないんだ」

 そう、とデゼノヴェは息を吐く。俺を見上げる目には色濃い落胆と、あるかなきかの憐憫が揺れていた。あなたでも、と囁き。

「ニーユでも、そうなのね。ねえ、ニーユ、あなたは、生まれてきてよかったと思う? これからも、生きていたいと思う?」

「……さあ、どうだろうな。ただ、まだもうしばら生きる気でいるよ。逃げ出した連中と一通り接触して、カタをつけなけりゃならない」

「逃げ出した仲間を見つけて、殺すの」

「まあ、そうなることもあるわな」

「辛くないの」

「辛いよ。でも、俺たちにとって、生きてることそれ自体が辛いもんだったろ。そのときと比べたって、大して変わりゃしないさ」

「そうね。……そうかもしれない。それなのに、続けるの」

「ああ。他の奴に任せるよりマシだからな。少なくとも、俺なら余計な苦痛のない最期をくれてやれる」

 それだけは、自信を持って言える気がした。

 少なくとも俺なら、確実に葬ってやれる。どこぞの国だの組織だのに囚われて、研究材料にさせたりしない。

 強い声を作って断言してみせると、デゼノヴェはこほりと咳き込み、ふわりと笑った。あまりにも淡く、儚い微笑み。

「なら、私もお願い、ニーユ。もう、終わりにして。ロレデジネに飼われたって、どうせ、何も変わらないわ。せめて最期は、第二世代(わたしたち)が憧れた、あなたの手で。――どうか、九番目の悪魔(イブリース)」

 言われた瞬間、今度こそ俺は目を伏せた。

 初めから、そのつもりだった。そうするしかないと思っていた。……それでも、正気に戻って見える本人の口で乞われると、少し、堪える。

「……ああ、分かった」

 だとしても、否やとは言えない。それが俺の役目であり、何より妹分の最期の頼みだ。叶えてやらない訳にはいかなかった。

〈ジェメリ〉の鎧を解き、新たに魔力を込めるは左胸。――正しくは、そこに埋め込まれた魔装具〈ニーユ〉。

 久方ぶりに魔力を回したにも関わらず、〈ニーユ〉は滑らかに術式を展開させていく。全身を固めるのは、黒く鈍く光る鎧。兜から生えた、ねじれた一対二本の角が天を突く。背の向こうには、翼を模すように並んだ、炎を灯した鋼の矢。

 ふと、足元から伸びた影に気がつく。歪んだ角、いびつな翼。なるほど、悪魔そのものの影絵が、そこに写し落とされていた。

「言い残すことはあるか」

 問い掛けながら、右手に剣を生成する。大振りの長剣。黒塗りの抜き身に、鬼火のような炎が踊る。デゼノヴェには、これの方が見慣れた得物だろう。少しだけ、灰の目に懐古が過ぎるのが見えた気がした。

「いいえ、何も。何も、ないわ」

 頭を振ったデゼノヴェが、まともに力も入らないだろう身体を持ち上げ、大きく身体を逸らす。その喉元が、心臓が、おそろしいほど無防備に俺の目の前に晒されようとしていた。

 力の入りすぎた指を解すように、剣を握り直す。

「そうか。――なら、お前の全てはここで終わりだ。今まで、ご苦労だった」

「うん、そう、ね。ありがとう、ニーユ……」

「ああ、またな」

 デゼノヴェの唇が「また」と動くのを見ながら、俺はついに剣を突き出した。

 魔装具を破壊する硬質な手応えを感じたのも一瞬、ぞぶりと剣は心臓を食い破って背までを貫く。乾いて変色した血に汚れた唇から、つうっと一筋の鮮烈な赤が滴った。

 刃を引き抜けば、傷口から血が吹き出す。その時には、もうデゼノヴェは絶命していたようだった。左胸を基点として光の粒子がこぼれだす。それは瞬く間に精緻な模様を浮かび上がらせ、空間を歪めるに足るだけの魔力を放ち始めた。

 ――そして、閃光。

 目を焼く光が辺り一面に弾けた後には、もうデゼノヴェの姿はどこにもなかった。

「……終わった、のか?」

 控えめに問いかける声に、「ああ」と応じる。

 肩越しに振り返れば、武装を解除し始めたウォードの姿が目に入った。少し前――俺が武装を切り替える前辺りに降り立っていたことには、気付いていた。たぶん、気でも使って黙って静観するに留めていたんだろう。

「終わったよ。デゼノヴェに関する全ては、これで」

「そう、か。……デゼノヴェさんは?」

「今頃、研究所に収容されてるさ。俺たちには、生命活動を停止した時点で発動する転送術式が仕込まれてる。いつどこで死のうと、問答無用で死体は回収されるって寸法だ。骨を埋める場所も選べやしない」

 答えながら、かすかに血痕の飛び散った川原を歩む。点々と落ちた爪を拾い集めてから、今度は身体ごと後ろへ向き直った。

「そら、これが奴の爪だ。これがあれば、討伐の証明になるだろ」

 そう言って、手の中で揃えた爪をしゃがみこんで川原の地面の上に置く。立ち上がって、そのまま一歩、二歩と下がると、ウォードがきょとんとした顔で俺を見た。そのまるで何も分かっていないような顔が、おかしいやら困るやら。

「俺のこの姿を見て、悪魔(イブリース)と呼ばれるのを聞いただろ。ザシャの旦那とカレルの野郎が言ってた、あのろくでもねえ化け物が俺なんだ。あんたに手出しをするつもりなんてない、と言ったって不安だろ? 役目は果たした、俺は行くよ。俺がいなくなったら、持っていくといい」

 言った途端、ウォードがカッと目を見開いた。え、と戸惑う間もなく、突進するような勢いの大股で歩み寄ってくる。

「ちょ、おい、何だ、どうしたんだよ」

 咄嗟に剣を持っていない方、左手を出して制止しようとしたが、その手さえも掴まれて距離を詰められた。武装を変えたところで、身長の差までは変わらない。ぐいっと手を引かれて、文字通りの目と鼻の先にまで顔が迫る。

 普段ならば穏やかで精悍そのものの面差しが、今は明白な一つの感情に塗り替えられていた。驚きでも、戸惑いでもない。おかしなことに――それは、怒りであるように思えた。

「俺は、イブリースなんて知らない」

「あ? さっき、ザシャが説明して」

「そんなものの為に、俺は命の恩人を蔑ろにしたりなんかしない。俺が知ってるのは、レイン、子供に優しくて仲間を大事にする、少し無頓着すぎたり、嫌いなものを食べない子供っぽいところもあったりするけど、頼りになる傭兵だよ。それが、俺の知ってる君だ。レイン・アーリックだ。俺は、それしか知らない」

「……子供っぽいは余計だって」

「じゃあ、ちゃんと好き嫌いしないで食べないと」

「それは嫌だけど」

「ほら」

 勝ち誇ったように言われて、兜の下でつい唇が尖る。

「それに、街に帰ったら、きっと打ち上げだ。主役がいなくちゃ、始まるものも始まらない」

「あんたが代わりに主役になっといてくれりゃいいよ」

「俺は他人の手柄を盗む気はないよ」

「盗むんじゃなくて、譲られてんだけど」

「言い方を変えても駄目」

「ケチだな」

「何とでもどうぞ」

 あっさりとウォードは切り返してくる。おっかしいな、こいつ、こんなに押しが強い……奴だったか。だったかもしれない。

「ったく、何でそんなに食い下がるんだよ。傭兵なんて、仕事が終わればハイ解散、一度こっきりの付き合いもザラだろ」

「そうだけど、でも――」

 ウォードが急に言いよどむ。何だよ?

「……でも、俺は、君と仕事の終わりと祝いたいんだ」

「は」

 その瞬間、俺は思わず絶句した。ぽかん、と思考が止まる。視界の端で、炎がらしくもなくくすぶるように揺れているのが見えた。イヤまさか、そこにまで動揺が伝播してるとかじゃねーだろーな。

 沈黙が一秒、二秒、と流れて、それからゆるゆると頭の中が再稼動を始めた。

 はああ、と深く深く息を吐き出す。全く、ずるいっつーか、上手いっつーか。ここぞとばかりに理屈じゃなくて感情で押してこられたら、返す言葉もねーじゃねーか。

「……何つーか、物好きだな、あんた」

「そうかな」

「仕方ねえから、ご相伴に与ってやるさ。あんたの顔を立てるってことで」

「ああ、そうしてくれると嬉しい。何より、ご飯は皆で食べた方が美味しい。だろ?」

「かもな」

「かもじゃなくて、そうなんだよ」

「へいへい」

 肩をすくめて見せ、最低限の装備を残して武装を解く。兜が消えても、籠手が消えても、ウォードは俺の左手を掴んだままだった。

「……そんな掴んでなくても、今更逃げたりはしねーって」

「そう?」

「そうだよ。そんな嘘吐いてどうすんだ」

 殊更にしかめっ面を作ってみせたものの、ウォードは「そうか」と笑うだけだった。その笑顔に、妙に毒気が抜かれる。そうだよ、ともう一度同じ言葉を答えて、半ばウォードを引っ張るように、俺は崖の上に戻るべく魔装具を駆った。

 もちろん、捨て置かれた爪を回収するのも忘れずに。

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