04

 ネーリネスカを経って三日目の朝、辺りには薄靄が漂っていた。

 視界はうっすらと一面白く塗られているが、目隠しと呼べるほどでもない。魔術的な要素も感じられないし、困ったことじゃあるが、あくまでも自然現象だろう。

 アルマス家が起き出すのを待って朝食の用意をし、手早く栄養補給を済ませる。その後も日が昇りきるまで様子を窺ってみたが、靄は一向に晴れる兆しを見せない。いつまでも足踏みしている訳にもいかず、意を決して人喰いの棲む森に踏み込むことにした。

 靄は濃くこそなっていないが、薄くなってもいない。視界に一抹の不安の残る状況での行軍となれば、嫌でも警戒の度合いは高まる。俺たち傭兵は四人とも通話魔術で意識を繋ぎ、意思疎通を間断なく行っているが、傍目にはただ黙っているのと変わりない。傭兵があからさまに神経を尖らせているからか、御者をしているレミヒオの旦那を含め、アルマス家の面々も息をひそめるように黙りこくっていた。

 護衛の人員配置は、馬車を挟んで左右に二人ずつ。騎乗している傀儡馬の脚は馬車の進行速度に合わせつつ、左右で前後に離れて四人で馬車を囲むような格好だ。俺とウォードは右側で、ウォードが前に出た。ザシャによれば、人喰いが森の奥から出てくるなら、ウォードを先頭にした方がいいらしい。よく分からんが、噂の祝福の関係か?

『……じきに昼か。各自、周辺状況の報告を』

 ザシャが術式越しにそう言ったのは、すっかり太陽が天高く昇った頃のことだ。靄は心なしか薄くなってきたような気がしないでもないが、まだ綺麗さっぱりと消えるには至らない。

『こちらハンズリーク、異常なし』

『スカイラー、同じく』

『アーリック、前に同じ』

『ここまでは上出来か。食事休憩は一時間クォノア、その後に再出発とする』

 傭兵三人分の声が『了解』と答えると、馬車の左前方を持ち場としていたザシャは傀儡馬の歩みを緩め、馬車の御者台に座るレミヒオの旦那に近付く。そこで昼食休憩の打診をしたのだろう、ほどなくして馬車は道の路肩に停まり、食事をすることになった。

 それでも食事を用意している時も、食べている最中も、ほとんど会話らしい会話はなかった。大人たちの緊張に呑まれているのか、お喋り好きなアメーリアでさえ口を噤んでいる。俺の隣に座るのは変わりないが、言葉少なに食べる手を動かすのに終始していた。

 休憩は半時の予定だったが、何だかんだで食べ終わってすぐ発つことになり、正味三十スィユも休んじゃいなかったと思う。まあ、アルマス家にすりゃあ、少しでも距離を稼いで人喰いに遭う前に森を抜けたいってのが本音か。

『それにしても、静かなもんだな。鳥の囀りもなきゃ、獣の気配もない。まるで森ごと死に絶えてるみてーだ』

『ボス、人間以外の被害ってのはどうなんです? やっぱ、なくはねえんでしょ?』

『分からん、というのが正直なところだな。誰も調べていないし、調べられん』

『無理もないですね。仮に調査ができたとしたって、その結果を持って帰れなければしてないのと同じことだ』

『そんじゃあ、人喰いがいつ頃動く確率が高いとかって情報もナシ?』

『口惜しいが、その通りだ』

 通話術式越しですら伝わる、嘆息の気配。ザシャ自身も、少なからず忌々しく思っているようだ。無理もない。現場で状況に対する情報のあるなしは、結構大きな差だもんな。

『やけに動きが遅い軍は、逆に何か掴んでいるのでは?』

『それについても、何とも言えん。軍の動きが鈍いのは、どこぞからの圧力を受けてのことらしい、とは小耳に挟んだがな』

『圧力……』

 問い掛けた張本人――ウォードの呟きは、困惑とも落胆ともつかない響きを帯びていた。確証はないが、と予防線を張る風じゃあるが、応じるザシャもあからさまに苦々しげだ。その反応からするに、少なくともザシャはその情報に一定の信憑性を見ているらしい。

 その一方で、こんな話題でこそ騒ぎそうなカレルは、意外にも無反応を貫いていた。応えあぐねているのか、それとも敢えて沈黙しているのか。その思惑は分からんが、俺も倣って黙っておくに留めた。

 何たって俺に今回の指示を出してきた大本こそが、ユーリエン軍に圧力を掛けている張本人に違いねーのである。要らんことを言って、薮蛇になりたかないもんだ。


 陰鬱と紙一重の緊張の中、馬車と四騎の傀儡馬は森の中をひたすらに進む。驚くべきことに……もしくは運のいいことに、夕までは何事も起こらなかった。

 この森を抜けるには、馬を急がせても二日はかかる。馬車なら三日だ。となれば、多数の馬車が行き来する道であればこそ、それだけ野営が行われる機会も増える。これまで進んできた道の路肩には、点々と先人たちの痕跡――踏み固められ野営の痕跡の残る空間が残されていた。

 ザシャの判断により、日が暮れ始めた時点で、俺たちは進むのを止めた。人喰いが俺たちを既に捕捉しているかどうかも分からない以上、守りは固めておくに越したことはない。昼と同じように手頃な路肩の空間に馬車を停め、傀儡馬を繋いで、夕食の準備を急ぐ。

 こんな状況じゃあ、呑気にレディのお世話もしちゃいられない。カレルがアルマス夫人とバジャルドを手伝って夕食の支度をする間、レミヒオの旦那はアメーリアの面倒を見つつ、ザシャと馬車の近くで待機。俺とウォードは二人一組で周辺の警戒にあたることにした。その後は俺たち以外の全員が飯を食い終わった頃合で、見張り役をカレルとザシャに交代。飯を食い終わり次第、アルマス一家の護衛を兼ねつつ先に休む……ってはずだったんだが。

 カレルに呼ばれて見張り番を交代し、馬車の近くに戻ってきて夕食のスープと堅焼きパンを受け取って、まずスープを一口飲んだ後。

 ――マジかよ、と。久々に本気で頭を抱えたくなった。

 やばいかやばくないかで言えば、結構やばい。俺にはなんてことないが、きっとウォードにはそうじゃない。先に食事を終えているアルマス一家は、まだ焚き火の周りをウロウロしている。ザシャとカレルも音沙汰がないってことは、問題なく周辺の警戒を続けているんだろう。てことは、これ・・は俺かウォード――或いは、その両方を狙ったもの。

 もしもどちらかだけが狙いだったとしても、俺とウォードがどちらの皿を手に取るかまでは予測できないはずだ。となれば、両方の皿にも仕込まれていると考えるのが妥当。幸い、ウォードはすぐ隣に座っていて、まだスープにも手をつけていない。乱暴で悪いが、手から払い落とさせてもらおう。

「レイン、どうかしたのか?」

 しかし、そう思った瞬間、ウォードが狙い澄ましたかのように問い掛けてきた。俺が払い落とすまでもなく、さりげなくその手が地面にスープの皿を置く。

 もしかして、と隣を見やれば、交差する視線。そして、どういう訳だかは知らないが、こいつも分かって・・・・いるんだと察した。

「あー、飯食い始めてからで悪いんだけどさ。俗に言う生理的欲求っつーの? コトの最中に襲われたら情けねえにも程があるから、ちょいついてきてくんね?」

 建前を口に出せば、ウォードは一瞬目を見開いたものの、「ああ、いいよ」と頷いた。通話術式でザシャとカレルに少し離れることを伝え、アルマス一家にも口頭で断ってから、近くの繁みを掻き分けて距離を取る。馬車と焚き火の様子は窺えるが、話し声が聞こえない程度に。

 念の為、防音作用を持つ障壁魔術を周囲に張り巡らせておく。障壁の内部の音は漏らさないが、周囲の音は聞き取れる類。だ話し声を聞かれる訳にはいかないが、辺りの物音には敏感なままでなけりゃまずいからな。

「悪いな、飯の最中に連れ出して」

 繁みの陰からアルマス家の様子を窺いつつ、すぐ後ろをついてきたウォードに声を掛ける。

「いや、構わないよ。本当に用を足しにきた訳じゃないんだろ」

「まあね。――ザレミツ草、って分かるか」

 意識は馬車と焚火の方に向けたまま、そう問い掛けるとウォードは大きく目を見開いた。

 ザレミツ草は広い大陸の中でもいくつかの奥地だけに群生する希少な薬草で、強力な自白剤の主成分として活用される。この薬草から精製された自白剤は効果が強すぎるゆえに、ほとんどの国で一般での所持が厳しく制限されていた。所持し、使用することが許されているのは、ほぼ軍を始めとした国家組織だけだ。後は法を破ることに躊躇いのない連中とか。

「自白剤の原料になる、薬草。……まさか、入ってたのか?」

 色を失うウォードに、軽く頷いてみせる。今夜は月が明るい。ウォードの面差しは、月光を受けてより一層に白く見えた。

「後は睡眠薬……催眠薬? かな。あんた、薬に耐性あるか? なけりゃ、戻ってもスープ食うのは止しておいた方がいい。食ったら一時間もしないうちにお寝んねしちまって、その間に尋問でもされようもんなら情報駄々漏れになるぜ」

「お前は、平気なのか? 先に食べてただろ」

「あれくらいならな。――にしても、どいつが仕込んだんだかな。商人夫婦が何ぞ企んでるのか、ザシャかカレルか」

「ザシャは、ないと思う。ずっとネーリネスカにいて、ギルド長の信頼も厚い。カレルとアルマス家については、何とも言えないけど」

「なるほどね。個人的な感傷で言わせてもらえば、アルマス家には白でいてもらいたいけどな。お子らまで密偵だとは思いたくねーし、ただの子供なら、尚のこと巻き込まれてて欲しくない」

「密偵?」

「さすがにどこの国と断言まではできんけど、まあ、大方この国のだろ。圧力を掛けられてて表向き動けないから、水面下で動いてんじゃねーの」

 肩をすくめて見せれば、ウォードはまだ蒼白になったままの顔で「何故」と呟く。

「そんなもん、決まってる。――奴を捕まえたいのさ」

「奴?」

「俺たちの標的、『人喰い』だよ」

 答えると、ウォードの喉が動くのが目の端に見えた。ごくりと息を呑む。

「レイン」

「おう」

「お前、何者なんだ。一体何を知ってる?」

「それに答えるには、そっちから素性を明かしてもらいたいとこだな。少なくともあんたが俺の目的と競合する立場でないと判断できなきゃ、喋りたくても喋れない」

 じっと、深緑の眼を見つめる。ウォードは軽く息を吐くと、背筋を伸ばして姿勢を正した。

「俺はエヴァン・スカイラーの息子、ウォード・スカイラー。父の名と我が剣に誓って、傭兵以外の何者でもないことを確約する。どの国とも、どの組織とも、いかなる契約も結んでいない。ネーリネスカの傭兵ギルドに雇われて、この森に棲み付いた『人喰い』を討つ為に来た」

 ウォードが述べるまで、ほとんど間はなかった。迷いなく発された言葉に、内心で少なからぬ驚きを覚える。まさか少しの躊躇いもなく、ここまで自分のことを克明に明かしてくれるとは。

 父の名を挙げ、己の剣に誓った言葉なら信用に足る。否、信用するのが傭兵の不文律だ。そして、そう名乗りを上げたということは、ウォードがどれだけ本気かという証明でもある。

「――これでいいか?」

「もちろん。あんたの誠意は受け取ったよ、ウォード。ヘイデン・アーリックの子、レイン・アーリックは、ここに嘘偽りなく話すことを約束する」

 頷いて答えると、ウォードは少しホッとしたような顔を見せた。気持ちは分かる。自分があれだけの名乗りを上げた後だもんな、無下にされちゃ堪ったもんじゃない。

「手っ取り早く話すと、あの『人喰い』は、ある種の技術の結晶なんだ。胸糞悪い話だが、捕獲して解析、利用したいと目論む奴らは掃いて捨てるほどいる。だから、俺はあれに関する情報が流出するのを防ぐ為に、とある筋によってここに送り込まれた」

「もしかして、ユーリエンの軍に圧力をかけてるのも」

「たぶん、俺をここに寄越した奴らだと思うよ。だから、ユーリエンは水面下で暗躍するに留めてんじゃないか。……まあ、自白剤混ぜるなんて荒技に出るとまでは思っちゃなかったが」

「なるほど。でも、何であれがユーリエンだと断定するんだ? お前の後ろにいるものが、別に――お前の知らない人員を寄越したという可能性は」

「それはないね。俺がここにいる以上、俺に指図してる連中が別に兵を動かすことはない」

「どうして言い切れるんだ」

 言い募る物言いだが、内容に反して口調にも表情にも、詰問するような色はない。冷静に可能性を比較し、選択肢を潰して状況を把握しようとする、油断のない傭兵の顔があるだけだった。……いいね、落ち着いてて頭のいい奴は嫌いじゃない。

「そうだな、例えば村を荒らす竜がいるとする。あんたはその村を監督してる領主だとしよう。あんたの手元には竜を殺す為の剣を持った、竜を殺し慣れた兵がいる。もちろん、その竜殺しを村に派遣するよな?」

 突然の例え話に目をぱちくりとさせたものの、ウォードは浅く頷く。

「その時、多少腕が立つとしても、竜との戦い方も生態も知らない奴をお供につけるか?」

「いや、竜殺しの腕を信頼しているなら、つけないと思う。かえって足手まといになりそうだ」

「だろ。つまり、そういうことなんだよ」

 ウォードが息を呑む。何度か口を開こうとして唇を閉じ、を繰り返してから、少し掠れた声が押し出された。

「じゃあ、お前は、人喰いの対処に慣れている、のか」

「厳密に言えば、『人喰い』自体に慣れてる訳じゃあない。でも、今回のような事件の場合には、俺が出向くのが最適なんだ。俺に指図する連中はそう知ってるし、俺もそうだと思ってる。だから、一人でネーリネスカに来た」

「……今一つ理解しきれないんだが、要するに、お前は敵じゃないんだよな」

 困惑の滲む面差しが向けられる。そうだな、そこはハッキリさせておいた方がいいか。

「剣に誓って、あんたが俺の敵にならない限り、俺もあんたの敵にはならないよ。あのアルマス家が真実森を越えたいだけの善良な商人なら、俺のプライドにかけて守るべく尽くすし、そんな気遣いは余計なお世話ってもんかもしれないが、あんたもちゃんと街に帰す」

「……分かった。信じるよ、レイン」

 緊張を解いたのか、ウォードは細く長く息を吐く。

「何だ、意外にあっさりだな」

「前にも言っただろ、お前は悪い奴には見えない。お嬢さんの面倒もしっかり見てたし、周囲の警戒だって少しも怠らなかった。それに、俺が自白剤のスープを食べないように連れ出してくれたんだろ」

「まあ、それはそうなんだが――……」

 そう言えば、こいつ俺が声掛ける前にスープがおかしいこと気付いてなかったっけか? それも祝福の効果なのか? 折角だ、訊いてみるか。

「なあ、ウォード」

 呼びかければ、何だと問うかのように首が傾げられる。

 ――その瞬間、怒号と悲鳴が夜を裂いた。

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