薔薇美の物語

高尾つばき

最高の映画に捧げます

 地獄の門を押し開き、亡者たちの絶叫をほとばしらせたような、そんな不気味な鼾をかいて寝ているのはこの物語の主人公である。

 睡眠時無呼吸症候群の疑いが多分にあるが、本人は気づいていない。

 なぜなら寝ている時の己の状況なんて誰が顧みる、なのだから。

 しかも一DKの小汚いアパートにたった独りで住んでいるのだから、指摘してくれるパートナーもいない。

 

 蜜花園みつはなぞの薔薇美ばらみ

 これが名前だ。

 

 あっ、待って欲しい。

 名前からその姿を想像するのを。


 可憐な乙女ではない。


 還暦まで十年を切っている中年おじさんの本名である。

 それに、可憐な乙女に睡眠時無呼吸症候群は似合わない。

 

 苗字はともかく、親はいったいどんな心境で名付けたのだろうか。

 薔薇のように美しく育って欲しい。

 女性ならありかもしれないが。


 多分父親あたりが酔った勢いで役場に届け出た可能性が高い。

 ウケ狙いで。

 笑いのネタにされるほうはいい迷惑である。

 

 薔薇美、と今後呼ぶにはかなり抵抗があるため、ここからは、「おじさん」と呼ぶことにする。

 だっておじさんだから。

 

 ふいに地獄の門がピタリと閉ざされた。

 鼾が止まったのだ。

 十秒、三十秒そして一分経過。

 

 まずい!

 おじさんの呼吸が止まっているではないか。


「ブファアァッ!」

 

 良かった。

 どうやら蘇生したようだ。

 万年床の布団の上で、おじさんは目を覚ました。

 この敷きっぱなしの布団は、当然カビに汚染されている。


 おじさんは以前にカビを根こそぎ退治しようと、お風呂用のカビキラーを使用したことがあった。

 ひたひたになるほど布団の上からスプレーしたのだ。

 だが殲滅せんめつすることはかなわなかった。

 やはりお風呂用では布団には効かなかったのである。


 剛毛の生えた腕が、布団横のコタツの上に伸びる。

 分厚いレンズの眼鏡を取り上げ、腫れぼったい細い目元に掛けた。


「ああ、ちょっと気持ち悪い。

 飲み過ぎちゃったかな」


 長らく独身生活を送っていると、自然と独り言を口にするようになる。

 おじさんは枕元の目覚まし時計に目をやった。


「なんだ、まだ八時前じゃないか。

 ちっ、早起きして損しちゃったな」


 舌打ちし、ぶつぶつ文句を言いながら、よいしょっと掛け声を出して布団から起き上がる。

 次の行動に移る時は、必ず「よいしょっ」が口癖のおじさんである。

 

 季節は秋。

 何をするにも気持ちの良い季節だ。

 白いランニングシャツに、縞柄のトランクス姿がお決まりの睡眠時スタイル。

 夏も冬も、だ。


 二十歳代から薄くなった頭髪。

 今では頭頂部から毛根が全て消滅しているため、意外に量の多い側頭部の髪を、必殺のテクニックを用いて頭頂部でまとめる。

 だが起きたては無残にも崩れ、左側だけ異様に長く伸びた髪が落ち武者を連想させた。


 三十歳代から出始めたお腹は、他の生物エイリアンを身ごもっているかのような出具合だ。

 いわゆるメタボ。

 会社で受ける健診の際には必ず引っ掛かる。

 血液検査にBMI、どれも担当医が仰天するほどの、最悪の数値を毎年更新しているのだ。

 でもおじさんは全然気にしない。

 再検査も必ず拒否権を発動する。

 

「食いたいものを食ってだな、アルコールで疲れをいやしてさ、それで紫煙をくゆらすのが僕の生き方なのよ」


 おじさんの辞書に、「因果応報」や「身から出た錆」などは載っていないのだ。


 ブルリと身体を震わし、キッチン横にあるお手洗いへ小走りで駆けこんだ。

 いったい何年掃除していないのか。

 和式の便器はもはや別物に進化している。


 おじさんはトランクスの前だけを下げ、自身のやんごとなきものをつまみ出した。

 細い目が下を向くが、お腹が出過ぎていてイチモツが見えない。

 そんなことは意に介しないのがおじさんの強みだ。

 長年取り扱って来ただけのことはある。

 うまい具合に濁った液体をジョボジョボと便器に飛ばした。


「ふうっ」と息を吐きだし、もう一度下腹部に力を入れて全て出し切るのだが、この頃ではなぜかイチモツをしまった後、必ずジワリとトランクスがにじむ。


 今日は日曜日。

 会社はお休みである。

 

 おじさんの予定はもう決まっている。

 映画を鑑賞しにいくのだ。

 あの「ポヘミアンラプソディ」である。

 ロックバンド、グィーンのシンガーであった今は亡きブレティを描いた作品である。


 おじさんはこう見えて中退した大学では軽音部に所属し、ギターをかき鳴らしていたこともある。

 グィーン自体はそれほどのめり込んでいなかったが、「元ロックバンドのギタリストってやつに、火がついちゃってさあ」などと会社の同僚に自慢げに語っていたのだ。

 実際にはギターのFコードがどうしても弾けず、EとAmのコード進行の時だけ実際に音を鳴らし、あとは口三味線くちじゃみせんで誤魔化していたのだが。

 

 それはともかく、おじさんはBGM代わりにコタツの上に設置した液晶テレビをオンにし、キッチン横の洗面台に向かった。

 最近歯を磨くときになぜかエヅいてしまう。

 うっかりと歯ブラシを奥歯に滑らそうものなら、「ウエエッ」となってしまうのだ。

 だから前歯しか掃除しない。

 奥歯がどうなろうと、吐き気をもよおす方がおじさんには辛いらしい。


 白いものが混じってきた髭を剃り、顔を洗う。

 ついでに手鼻をかむ。

 一ヶ月は洗濯されていないタオルで顔を拭くと、鏡に写る己の顔を見てニヤリと笑む。

 

 ちなみに洗濯や掃除をしないのには理由があるらしい。

「あまり清潔にしちゃうとさ、菌に対する抵抗力が弱まるんだよな」とのことである。

 ちょっとコワい。


 最後は外出用に髪型を作るのだが、これはもう芸術作品と言っても過言ではない。

 スプレーとドライヤー、それに櫛を文字通り駆使して側頭部の伸ばした髪を一九にわけ、九の部分を頭頂部で固めるのだ。

 拍手喝采ものである。


 普段はポロシャツにスラックスなのだが、今日は違う。

 元ロックギタリストとしてムービーを堪能するのだから。


 大学時代に愛用していた鋲を打ったレザージャケットにレザーパンツを、押入れの奥から引っ張り出しておいた。

 黒かったレザーはこれまたカビに汚染され、まるで迷彩柄である。

 しかも当時より約倍近くになった体型ゆえに、袖は通らずパンツもふくらはぎから上へいかない。

 

 おじさんは悩んだ。

 ジャケットは袖を通さずに羽織ればよいとして、パンツはどうするか。

 まさかふくらはぎで引っ掛かったままヨチヨチと外を歩くのか。

 間違いなく警官に職質され、場合によっては「くわしい話はそこの交番で」としょっぴかれるであろう。


 世の中の八十パーセントは恐いモノなしの年齢になったおじさんでも、やはりそれは避けたい。

 結局いつもの恰好で、黒の、いや迷彩柄チックのカビ臭漂うジャケットを羽織って行くことにした。

 ただラッキーだったのは、大学時代に流行していたロンドンブーツも出てきたのだ。

 あっ、これは漫才師のことではなくブーツの一種だ。

 

 十五センチの厚底に、イギリスの国旗であるユニオンジャックがプリントされている。

 おじさんは、足だけは太らないんだなあと妙に感心した。

 おじさんの身長は百六十五センチなので、これを履けば百八十センチになる計算だ。

 やたら小顔でスタイルのよい現代の若者にも引けはとらないな、とニヤリと笑むおじさんであった。


 シネマシアターはアパートから地下鉄に乗って、繁華街へ出なければならない。

 片道三十分ほどだ。


 そこでおじさんは朝昼兼用の食事をどうするか、布団の上に正座し腕を組んだ。

 なぜ正座するのかと問えば、「この頃腰がすぐに痛むんだよなあ」と同僚に愚痴ることから判明する。

 たまに大きなくしゃみをすると、ズキンッと腰に激痛が走り、「うっ」と思わず柱に片手を添えて歯を食いしばる時もあるのだ。

 正座すると背筋が伸びて腰が楽になった気がする。

 ただあまり長時間正座していると、立ち上がった瞬間に脚に電気が流れ、以前にはその勢いで転んでしまい、顎をしたたか床にぶつけたこともある。

 

 なぜ両腕でカバーしなかったのか。

 自己防衛本能が脳に両腕を動かせ指令をくだすころには、すでに顎が床に激突していたのであった。

 

「ようし、決まった。

 今日は久しぶりに“らーめん処プリティキャシー”で食べよう。

 うん、そうしよう。

 もちろん餃子もね」

 

 おじさんはウインクするが、いったい誰に向かって?

 

 ベージュのポロシャツに紺のスラックス、肩から鋲を打ったレザージャケット、足もとは目にも鮮やかなユニオンジャックのロンドンブーツという奇妙な出で立ちでおじさんはアパートを後にした。

 財布やキーケース、スマホは近所のスーパーで粗品にもらったポーチに入れて手に持って歩く。

 もちろんスーパーの店名とマークが大きくプリントされているが、おじさんは意に介さない。

 

 目的の“らーめん処プリティキャシー”は地下鉄駅前の商店街の一角にある。

 十一時開店なので、ゆっくり歩いていけばちょうどいい時間になりそうだ。

 

 日曜日ではあるが人通りはさほど多くはないようだ。

 陽射しを浴びて鼻唄まじりで歩くおじさん。

 ふと前方に目をやると、若者が歩きスマホをしながらこちらに歩いてくるではないか。

 おじさんはマナーには、ちとうるさい。

 かといって「きみ、歩きながらスマホをいじるなんて危ないだろう」などと面と向かって注意する気はさらさらない。


 こういう場合は、わざと歩く方向を若者に向けるのだ。

 大抵は相手が途中で気づき、「あっ」とか言いながら素早く離れていく。

 そうするとおじさんの溜飲は下がるのだ。


 だが今日の若者は片手で器用に画面をタップしながら、まっすぐにおじさんに向かってくるではないか。

 おじさんは「むうっ」と口をへの字に歪めて、むしろ歩く速度を上げた。

 ただ絶対にぶつからないように気配りをする。

 当然だ。

 おじさんは気が弱くて腕にまったく自信がない、からではない。

 なにしろオトナなのだから、寛大な気持ちで許してやろうと思うのである。


 どんどん距離が縮まって行く。

 その時だ。

 おじさんは普段使っているズックの感覚で大股で歩いていたのだが、それがいけなかった。

 道端に落ちていたペットボトルの蓋に靴底がすべり、くるぶし辺りがクキッと曲がってしまったのだ。

 

 おじさんは「アアッ」と裏返った声を発し、若者とぶつかる直前に舗道に転がってしまったのである。

 しかも今回も防衛本能が働く前に肩から側頭部をアスファルトにぶつけた。

 かなり痛い。


「だ、大丈夫っすか」

 

 本来注意をうながせばならぬ相手から声を掛けられてしまったのである。

 おじさんは痛みにちょっぴり涙を浮かべながら、「いや、大丈夫ですよ。ありがとう」などと威厳を込めた声で返す。

 珍妙な格好の中年オヤジを憐れむ表情を浮かべながら、若者は再びスマホを操りながら歩き去って行く。

 

 おじさんは、「くそっ、くそっ」とやり場のない怒りを地面にぶつけるように、ただ今度は滑らないように慎重に大股で歩き出した。


 近所でも評判のラーメン屋は、やはり開店と同時に席が埋まって行く。

 おじさんはかろうじてカウンターに席を確保できた。

 この頃ではあらかじめ券売機で食券を買わせる店が多い。

 これにはおじさんは不満を持っていた。

 客商売であるなら、ちゃんとお客さんから店員が注文を取るべきだとの思いがある。

 だがこの“らーめん処プリティキャシー”では、店員さんがおヒヤを持ってきてくれてオーダーを取ってくれるのだ。


 おじさんは普通のラーメン大盛りと餃子二皿、そしてランチタイムには無料になるライスの大盛りを注文した。

 カウンターに両肘をつきながら辺りをうかがう。老若男女が一心不乱にラーメンをすすっている。

 店内には飲食店特有の活気がみなぎっていた。


 しばらくしておじさんの注文した品を「おっ待たせっ」と野球帽をかむった店員が運んできた。

 すると厨房や接客している店員たちも声を揃えて「おっ待たせっ」と怒鳴る。

 おじさんは何かちょっぴり恥ずかしげに「どうも」などと小声で返す。


 なぜラーメン屋で働く人は野球帽やタオル巻が好きなのだろうかなどと思いながら、おじさん箸入れから使い回し用の黒い箸を二本取り出すと、それをどんぶり飯の上に刺した。


 この店ではネギは大きなザルに盛られており、お客は好きなだけ投入できる。

 おじさんは無論ネギ好きだ。

 トングを掴むとネギを挟んだ。

 かなり多い。

 一回では終わらないのがおじさんだ。

 二回、三回とさらにネギをラーメン鉢に盛って行く。

 隣の若者がちらりと視線を寄越す。


 これでもかとテンコ盛りにネギを載せた後、次はすりおろしたニンニクの入れられた筒を持ち上げた。

 もちろんニンニクはおじさんの大好物ベストテンに入っている。

 筒に入れてあるスプーンでニンニクをすくうと、山盛りになったネギの上からかけていく。

 一回、二回、いや筒の中の半分以上をぶち込んだ。

 隣の若者はむしろ引き気味におじさんをあからさまに凝視してくるが、おじさんは気にしない。

 無料で置いてあるのだから、いただくのは当然の権利だ。


 ニンニク臭がラーメンの熱でブワッと漂う。

 ラーメンはこれでなくてはならない。

 おじさんは満足げにニヤリと笑んだ。

 

 地下鉄はさすがに混んでいた。

 おじさんは少しでも座って行きたいと思うため、なるべく人の並びが少なそうな列を探して小走りでホームを行く。

 この頃では歩くだけでも息が切れる。


 おじさんはやっと発見した列へ素早く並ぶ。

「はあっ、はあっ」と呼吸音が聴こえる。

 おじさんの前に並んでいた若い女性連れが、おじさんの放つ異臭に顔をしかめて振り返った。

 大量の生ネギと生ニンニクを食したおじさんの吐く息は、ドブ臭どころの騒ぎではない。


 女性たちは鼻を手で隠し、あからさまに非難の視線をおじさんに向ける。

 だがおじさんの妙なスタイルを見ると、うなずきあってその列をそそくさと離脱していった。

 おじさんは「ラッキィ」などと小声でつぶやき、一歩前進するのであった。

 

 そのシネマシアターはいわゆるシネマコンプレックスである。

 おじさんの知らない映画が何本も上映されていた。

 時計を見ながら『ポヘミアンラプソディ』の上映時間を確認する。

 うまい具合に二十分後が上映スタート時間であった。


 券売機には大勢の人たちが並んでいる。

 おじさんは急ぎ足で最も早そうな列に並んだ。

 ところが機械トラブルがあったようで、違う券売機ではどんどん人が進んでいくのに、おじさんの並んだ列は一向に進まない。

 終いには係員が現れて「すみませーん、この券売機は現在調整中のため、他の列へお願いしまーす」などとふざけたことをぬかすではないか。

 おじさんはムカッときた。

 とはいえこのまま帰るわけにはいかない。

 再び他の列へ並び直すはめになった。

 

「なんだよ、チクショウ。

 機械ぐらいちゃんとチェックしておけよな、本当によう」


 おじさんは憤懣ふんまんやるかたない表情でブツブツと文句を垂れる。

 ようやく順番が回ってきた時には、すでに上映開始一分前である。

 おじさんは急いで財布を取り出すが、慌てているため、小銭が音を立てて床に転がってしまった。

 焦っているのとカッコ悪いのと、合わせて急に屈んだために腰がビキッと音を立てた。

 最悪である。


 それでもおじさんは周囲に頭を下げながら、ばら撒かれた小銭をかき集める。

 ロンドンブーツの厚底と突き出たお腹が邪魔してなかなか回収できない。

 ようやく拾い終え再度券売機に向かう。

 席を決めねばならないのだが、おじさんはめっきり老眼が進んできたため液晶画面がぼやけて見える。

 眼鏡のブリッジを持ち上げなんとか確認する。

 ところが空いている席は、最前列の右端にひとつだけであった。


 仕方ない。

 おじさんは急いで画面をタッチするのであった。

 

 映画はすでに予告も終わり、本編が始まっていた。

 おじさんは痛む腰を曲げながら満員の場内を小走りで進む。

 ようやく席に座ると画面を見上げた。

 首を少し上向かせないといけないのだが、そうすると腰の痛みが増していく。

 おじさんは苦痛に顔を歪めながら、銀幕を見上げては首を下げるという変な体操をするはめにおちいっていた。


 英語はからっきし理解できない。

 したがって字幕を追わねばならない。

 映画が進むにつれ、おじさんはそのストーリーにのめり込んでいく。

 知っているメロディが流れると、知らぬ間に「フン、フフーン」と口ずさんでいる。

 英語の歌詞などはまったくわからいのだから仕方ない。


 ただ可哀想なのはおじさんの隣席に座った若い女性だ。

 おじさんが口を開くたびに物凄い異臭が鼻孔を攻撃してくるのだから。

 口臭はもちろんのこと、羽織ったレザージャケットからは強烈なカビ臭と併せて、おじさんの加齢臭が混ざった吐き気さえ催す異臭。

 奇っ怪なおじさんの犠牲となった憐れな女性は、なるべくおじさんから遠ざかるように隣りに座る彼氏に近づき、ハンカチで口元を隠したのであった。


 映画は最高に盛り上がるラストのライブシーンになっていた。

 おじさんは感無量で涙を流しながら、遠慮なんて言葉は忘却したかのように歌い始めた。

 おじさんの声よりももちろん映画の音量のほうが大きい。

 だがおじさんの口臭はパワーアップしていた。

 すでに後ろのシートに座っている人の鼻孔のも無差別攻撃を仕掛けている。

 映画どころの騒ぎではない。


 応援上映ではないのだが、おじさんはすっかりライブに参加しているオーディエンスのノリで、こぶしを振り上げて「オウッ、ハンハハーン、イェーイッ」とヘッドバンキングまでやりだした。

 この気持ちはわからないではない。

 それほど素晴らしい出来の映画であるのだ。


 おじさんに異変が起こった。

 ヘッドバンキングを思いっきりやっているため、朝にきっちりとセットした芸術作品である一九分けが耐えられなくなってきていたのだ。

 徐々に崩れ始める。

 おじさんはもう完璧にライブ会場のオーディエンスであるため、まったく気が付いていない。


 犠牲となったのは、やはり隣に座る女性であった。

 臭いに鼻が慣れてきた頃、右の頬に変な感触があった。

 最初は自身の髪が頬にかかったのかと指で髪をかき上げようとしたのだ。

 ところがその上げた右手に、ファサッ、ファサッと何かが当たるのだ。


「えっ」と思い、ちらりと視線を悪臭の根源に向けた。

 その途端、「ヒイッ」と悲鳴が知らず漏れた。


 なんと隣に座る中年男性の髪が頭を揺らすたびにこちらに接触してくるのである。

 中年男性は異様に伸ばされた側頭部の髪を振っているのだ。

 頭頂部には映画の光が反射している。

 もう悪夢、であった。


 おじさんは「ブレティッ、ブレティ!」と叫びながら髪を振り回す。

 おじさんの後方で銀幕を観ていた人たちは、画面の右下でゆれ動く謎の物体に首を傾げ出したのであった。


「いやあ、いい!

 うん、この映画はサイコーだった。 

 いやあ、やっぱりロックはいいよなあ」


 おじさんは上映が終わった後、ひとり大満足の表情を浮かべてシアターを後にする。

 もちろん無残にも崩れ落ちた髪には気づくこともなく。

 すれ違う人たちはおじさんとすれ違う度にギョッとして振り返る。

 腰を妙な具合に傾けた、現代に甦った落ち武者然としたおじさんの姿に。

 そして異臭に。

 

 おじさんは先ほど聴いたばかりのグィーンのメロディを口ずさみながら帰途につくのであった。

 今夜はアパート近くにある商店街の行きつけの焼き鳥屋で、大将を相手に熱く映画を語ろうと、ニヤリと笑むのであった。

                                                                     了

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薔薇美の物語 高尾つばき @tulip416

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