9歳3月 悪臭
去年の倍の200万円だってのに、140頭。
どうしてだろう、どうしてまたおいらにこんな負担重量を背負わせようとするんだろう。
「おかしいじゃないか!」
「何がだよ」
「いやその、テンカノエイケツさんですよ!」
一方で去年息子さんが目黒記念を勝ち、この繁殖シーズン直前にダイヤモンドステークスってレースを勝ったテンカノエイケツさんはたったの36頭。去年の30頭よりはましだけど、実は種付け料は去年の100万円から50万円にまで下がっている。250万円が、たったの5年で50万円にまで下がった。
「しょうがないだろ、これまで200頭近く産んで来て重賞クラスがそれ一頭なんだから。あとは準オープンでも入着級だからな、それから牝馬の質もだいぶ落ちちまったしな」
「牝馬の質?」
「ああ、初年度は結構な馬をもらってたもんだよ。でも今じゃやって来るのは大半が値段目当ての安い牝馬、それにあいつの母親が未勝利馬だったからそういう質は関係ないだろうなと見なされるだろうからますます落ちるだろうな」
「大変ですね」
おいらはこの時、そのテンカノエイケツさんの言葉をあまり気にしていなかった。スターヴァンガードの母親が実は未勝利どころか一戦も走っていない未出走馬であり、今年もおいらと種付けする事が決まったと言う話も既に聞いていたのにだ。
「すごいですね本当、金額の差があるからまだ勝ってるつもりでいたいんですけど」
「アオイホシノオトコ君」
「僕は130頭ですよ」
「去年は確か」
「148頭です、他のシンエンノサキニ産駒が種牡馬入りしたせいかそっちに喰われまして、って言うかヨウセイプリンスさんもかなり喰ったんじゃないですか」
「そんな!」
「でもすごいですよね、お父さんのラインナップって」
シンエンノサキニさんのお嫁さんの名前を見せられたおいらには、そのすごさがすぐさまは分からなかった。
「8年前のオークス馬、5年前の桜花賞馬、それでこっちは重賞を3勝してて」
「……」
「生まれればGⅠ馬の弟妹になる子どももたくさんいます。とうとう3000万円まで行ったのにとんでもないですよね、まあ実績がそれ相応だからこそですけど」
相変わらず熱っぽくそのすごさを説明するアオイホシノオトコ君の言葉に、おいらは胸焼けを覚え始めた。首を横に振ってもういいよと言うと、アオイホシノオトコ君はすごく残念そうに離れて行った。まったく、どうしていいかげん学ばないんだろう。情熱が目を狂わせ、頭を縛っているとしたら不幸せだなと思う。自分の器を知り、それを満たせばいいやと思えばうまく行くはずだ――――と言ったら、お前は逆の意味で器が分かってないけどなとテンカノエイケツさんに言われたけど、それはやはりスターヴァンガードのせいだろうか。何がさすが最優秀3歳牡馬だか、中山記念とか言うレースも簡単に勝ったらしい。そのせいでますます器を壊すほどの水が流れ込んで来るかと思うと、テンションは全く上がらない。
「ヨウセイプリンス、今日は一日3度やってもらうからな」
いよいよ、種付けの初日が来た。もう6年目だが、何度やっても慣れる物じゃない。
「よろしくお願いします」
最初に来た牝馬は、この前引退したばかりだと言う4歳の若い牝馬。おいらが初めての相手らしいけど、実はその手練にはまったく自信がない。
「よろしくね」
とりあえず大きくなって来たおちんちんをこれまでと同じように女の子の場所に入れ、適当に動かした。女の子が興奮して来たようなのでよしとばかりに一気に突っ込むと、女の子はめちゃくちゃ興奮したようだ。それでこれまでと同じように一挙に出すと、女の子の顔はとろけ出した。
「これで、スターヴァンガードさんのような子どもができるのかな……」
「さあ……」
「私、ケガしてたったの4戦しか走れなかったんです。ですからこの仔には頑張ってもらいたいなって」
「まあ、体は大事にしてね」
自分ができなかったから子どもには何とかして欲しい、それってずいぶん勝手じゃないだろうか。アオイホシノオトコ君は自分に勝てなかったダービーを勝って欲しいとかって息巻いてるけど、ああいうのって迷惑なだけだと思う。おいら自身、そういう立場だったから良くわかる。シンエンノサキニの弟だから活躍するだなんて、そんな都合のいい話があるかい。実際、おいらの下の弟や妹たちの中で重賞を勝ったのは1頭もいない。せいぜいギリギリオープンレベルだ、種牡馬入りした話すら聞かないって事はまあそういう事なんだろう、まったく悲しい話だ。
とにかくおいらが一頭目の種付けを終えてため息を吐いていると、厩務員の人が継ぎの牝馬を連れて来た。
「気合を入れて頼むぞ、今年の中で一番の上玉だからな」
上玉と言われたその牝馬は、厩務員さんの話に寄ればどうやらさっきの牝馬と同じく、おいらが初めての相手らしい。
「スターヴァンガードの活躍を見てな、オーナーさんがこのGⅠ馬の初仔の相手としてお前を指名したそうだ」
「よろしくね」
2歳でデビューしていきなり2歳重賞を勝ったけど、その後は鳴かず飛ばずの10連敗。それで4歳になってダート路線に転向した所これが大当たりし、7歳の今まで合計44戦を走りぬいて来たそうだ。重賞は中央競馬で3勝、地方競馬で5勝。そしてJBCって言う地方競馬の祭典だって言うGⅠレースを勝ち、今年のフェブラリーステークスで5着に入って引退したらしい。
「戦いばかりの日々を送って来たからね、もうそろそろ落ち着きたいの。私の事を受け止めてくれる?」
そう言いながら寄って来たその牝馬を見たおいらは、急に気が遠くなった。頭がフラフラし始め、呼吸が定まらない。色気に当てられて興奮したとか言うのとは違う、まったく嫌な気分だった。
「お願いね」
そう言われても、おちんちんは全然元気にならない。むしろ萎えてしまった。体格の問題?馬体重は460キロ、中肉中背レベルだ。毛色?ありふれた鹿毛だ。それなのに、全然気分が高揚して来ない。
「どうしたんだ」
「おかしいなあ、私に魅力がないの?」
その牝馬おいらを誘惑するようにお尻を揺らす、でもそうされてもまるで通らない。いやほんの一瞬だけ気持ちが盛り上がるんだけど、そうやって近づこうとするとまた気持ちが萎える。
「もう、仮にも種牡馬6年もやってるんでしょ」
「そうだけど……」
「だったら同じようにすればいいだけじゃないの」
どんなにせかされても、盛り上がって来ない。これまでこういう時がなかった訳でもない。その時は私が欲しいと言う気持ちを表していると言うはずの、女の子の部分を嗅げばいい。そうすれば気分が盛り上がって来る、その気になれるはずだ。そう思っておいらが鼻をその部分に近づけた途端おいらの口から何かが飛び出し、そして
「おいどうした!」
厩務員さんのわめき声が鳴り響いた。そしてあわてておいらがその牝馬から離れて下を見ると、オレンジ色の何かが草の上に落ちている。
そしてものすごい悪臭が、おいらの鼻を突き刺していた。キゼツシソウだった。あわてたおいらは更にその牝馬から後ずさり、新鮮な空気を吸おうとした。どうやらおいらは、嘔吐してしまったらしい。
「ちょっとこれどういう意味!」
「ごめんなさい、うう、ああ……」
馬は生き物だ。だからおならもするし、おしっこもするし、ボロもする。くさい。競馬場のパドックでも、ボロが転がっている。って言うか、いやでたまらなくてしちゃった事もある。でも今さっき感じた臭いは、それらとはまったくケタの違う悪臭だった。ものすごく気分が悪い、性欲も食欲もなくなってしまいそうなほどの悪臭。
「気分を害したわよ!」
「すみません、すみません……うう……オエーッ……」
「もう無理ですねこれ、契約はなかった事にしてくれませんか」
「また他日という事で」
また他日だって、冗談じゃない!こんなひどい臭いを嗅いだら本気で死んじゃうよ!まったくどこから沸き上がって来たんだろう、この臭いは!それに相手の牝馬さんもすっかり気分を害したみたいでその気がお互いに失せちゃったらしい。その事を人間に伝えるかのように、またおいらは嘔吐しそうになった。
「失礼します、やっぱりこれは無理ですね」
「相性の悪さもここまで来るとね、修復は不可能ですね」
修復不可能と言う言葉に、二人の人間はため息を吐きおいらたちは安心した。お互い、もう二度とこんなむかつく存在と種付けなんてごめんだと言う所では一致しているからだ。
「私のにおいの何が悪いって言うのよ!」
「すみません、何もかも……ううっ……」
「もういいわよ!」
おいらはこの日、初めて心底から嫌だなと思う存在に出会った。あの悪臭は、一体どこから発してるんだろう。そしてなんでみんな平気なんだろう。テンカノエイケツさんも、結局彼女と種付けをする事になったアオイホシノオトコ君も。まったく平気らしい。もちろん人間たちも。おいらはその臭いを思い出すだけで、簡単に落ち込めた。
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