8歳5月 日本ダービー

 共同通信杯、弥生賞勝利。皐月賞2着。胸焼けするような文字ばかりが並ぶ。そのせいだろうけど、種付け数はとうとう大台の100頭を突破してしまった。ああ、疲れた。本当に疲れた。まったく、どうにもならない。何かのワナじゃないんだろうか。


「賢兄愚弟返上か」

「200vs11、皐月賞では11が勝利! ダービーでは?」

「シンエンノサキニの2年連続リーディングサイアーを阻止するのは弟だった!?」

「どうしてこれが20万円だったのか、今年度一挙に3ケタ突破にオーナーいわく「遅すぎたかも」」


 朝日杯フューチュリティステークスにも皐月賞にもシンエンノサキニの子どもが出ていたが、勝った訳ではなかった。つまりスターヴァンガードはシンエンノサキニの子どもをGⅠレースで負かしてしまった訳だ、しかも二度も。その上に、種付け募集期間中に飛び込んで来た重賞連勝の報。これでおいらの人気はますます上がり、とうとうここまで行ってしまった訳だ。って言うか何なんだろう、この鼻が曲がるようなフレーズの羅列は。

「前走ではやや早仕掛けで人気を裏切るような結果になってしまったので今度はもう少し気を付けたいと思います」

 挙句にこれだ。2着で人気を裏切るってどういう事だよと思っていると、なんと皐月賞では1番人気になっていたらしい。単勝は2.5倍、単純計算で支持率は40%に上っていたそうだ。GⅠで一番人気だなんてアリエナイ、全く別世界の話だと思ってたのに。

 愚弟でも、200vs11の11でも別になんて事はなかった。どうせ、栄光なんか欲しくなかったんだから。フレッシュサイアーランキングとか言う物にも、まったく興味はなかった。でも、もしそれが原因だとしたらもっと欲張りに行くべきだったかもしれない。何千何百分の6でも勝てる――――そんな希望をみんなに与えてしまったとするのならば、おいらってのは本当に罪深い存在になっちまったらしい。

 フレッシュサイアーランキング3位、リーディングサイアーランキング112位。実質スターヴァンガード一頭で、ここまでの存在になってしまった。ちなみにフレッシュサイアーランキング4位の馬は、初年度産駒として70頭以上を中央に送り込んでいたらしい。いったい何がどうしてこうなってしまったのか、全く分からない。

「ダービーですよ、ダービー!!」

 アオイホシノオトコ君はやたらに元気だ。まだ子どもが生まれたばかりの上に今年も148頭も種付けしたってのに、まったくダービーってのがそんなに重要なんだろうか。

「叔父さん、叔父さんが競争を嫌うのはわかりますけどね。ダービーはお祭りなんです、そこにいる事が競走馬としてのステータスなんです」

「へー」

「叔父さんは優しい人ですからわかるはずですよね、そこに駒を進められなかった馬たちの気持ちってのが」

「ほー」

「その馬たちの為にも、目一杯応援してあげましょうよスターヴァンガード君を!」

「ふーん」

 あれ以来8ヶ月近く、レースを見ようと言って来なかったアオイホシノオトコ君がめちゃくちゃ熱っぽく訴えかけて来る。熱発じゃないだろうかと思ったけど、どうも正常らしい。参ったなあ。

「自分の好き嫌いを押し付けるのは良くありませんよ、散々押し付けられて来たからわかるでしょう」

「だったらさあ」

「じゃあテンカノエイケツさんの応援でもして下さい、息子さんがダービーの後の目黒記念に出るんです」

 いくら笛を吹いても全く踊らないおいらにイライラしたのか、アオイホシノオトコ君はテンカノエイケツさんの方においらを厄介払いした。それでその言葉通りにテンカノエイケツさんの方へ行くと、テンカノエイケツさんはすごく悲しそうな顔をしていた。

「どうしたんです」

「お前は俺にない物を手に入れた、そしてそれを誇りどころか邪魔に思っている」

「邪魔って!」

「ダービーと言う存在に、まったく何の興味も持っていない。いや、負の興味しか持ってない。その事は、他の全部の馬に対する冒涜とも言える」

「そんな大げさな!」

「全然大げさじゃない。栄光から逃げよう逃げようとするだなんて、考えうる限り最高の浪費であり、贅沢だ。目黒記念が悪いレースとは一言も言わないけど、しょせんはGⅡでありダービーにはかなわない。どうして逃げるんだ?」

「えーっと……」

 冒涜だ、浪費だ、贅沢だ、逃げるのか。テンカノエイケツさんの怒りが本気なのはわかるけど、気持ちが全然伝わって来ない。不思議なほどに、怒りの気持ちがすり抜けて行く。反省する気にも、動揺する気にもなれない。おいらが頭をひねっていると、テンカノエイケツさんはまた顔を赤くして吠えかかった。

「なあ、俺らが今どこにいるかわかってるのか!」

「この牧場です」

「地球だよ、地球!お前の兄ちゃんははるか遠くの国まで行ってレースをしに行っただろ!ずっと西の国に」

「はぁ」

「でもな、ずっと東に行っても実は同じ所に行けるんだ。地球ってのはな、丸いもんなんだよ。逃げよう逃げようとしてると、結局はその場所にたどりついちまうもんなんだよ。お前は既に、戦いから逃げて逃げて逃げ切っちまったんだよ。もうこれ以上逃げようとするとむしろ近づくぞ、戦いに」

 争うのは嫌だ。そうずっと考えていただけなのに、いつの間にかそんなところまでおいらは追い詰められていたらしい。ああ、なんて事だろう!

「どうしろって言うんですか!!教えてくださいよ!」

「自分で考えろ!お前はもう親なんだよ、息子がやがて種牡馬としてこの牧場にやって来て、父さんはお前がダービーに2番人気になったって聞いておびえてたって言えるのかよ!」

「言えますよ!下手な見栄を張るぐらいならその方がよっぽどましです!」

「お前にプライドって奴はないのか!」

「ありませんよそんな物!」

 どうしても嘘吐きになりたくないおいらがはっきりと言い切ると、テンカノエイケツさんは首を大きく横に振り、そしてまた吠えた。

「アオイホシノオトコ君、キミがダービーを勝てなかった理由が分かったよ!キミは世間が狭すぎた、あらゆる可能性を考えられなかったからだ!」

「えっ僕ですか」

「自分が望む物と他者が望む物が同じだと思ったら大間違いだからな!」

「あっはい……」

 おいらにプライドなんて物はない。今ここにいるのは完全に兄の七光りであり、それにすがっているだけの存在。そんな中で、今度はスターヴァンガードの七光りにすがろうとしている。下手に見栄を張った所で虚しいだけじゃないか。4戦0勝、獲得賞金額130万円。それがおいらの実績だ。その事をわかってくれたのか矛先を変えたテンカノエイケツさんはアオイホシノオトコ君に一言吠えると、急にしゅんとした表情をおいらに向けた。

「厳しい状況の中で、ついお前さんの事を忘れていた。だから、たまには八つ当たりの一つや二つ許してくれてもいいだろう?」

「それで、争いから遠ざかる方法ってないですかね」

「何も考えない事だな」

 青い空、青い草、そして暖かくなってきた風。おいらはアオイホシノオトコ君もテンカノエイケツさんもスターヴァンガードもダービーも忘れて、その方向にのみ思考を集中させる事にした。結果的に116頭にまで至ったこの3ヶ月間の労働は、これからの9ヶ月間のためにある。誰とも争う事のない、平和な時間。これがいっそ永遠に続けばいいのにとか言う、はかない希望を抱きながらおいらは目を閉じた。


 次に目を開けた時に聞こえて来たのは、アオイホシノオトコ君のため息だった。

「……ああヨウセイプリンス叔父さん」

「何?」

「何でもありませんよ」

 話によれば、スターヴァンガードはダービーで先行しながら直線で止まってしまって5着に終わったらしい。まったく、この情けない叔父の子どもを我が子のように扱えるだなんて大した子だ。まあ、従兄弟と考えれば話も合うかもしれないけど。

「叔父さんはレースに関心がないんですか」

「まったくないね」

「僕は未だにそんな馬がいる事を信じられません。叔父さんは今8歳ですけど、その年齢でもまだ現役を続ける馬もいます。って言うか、3ヶ月前のフェブラリーステークスで2着に入った馬も8歳でした」

「ああそう」

「僕にとって競走馬と言うのはそういう物だと思っています。その考えを変える気はありません。けれどやはり叔父さんには叔父さんの信念があります、それをわざわざ犯すような野暮な真似は今後致しませんからどうかご容赦を」

 信念って、おいらにそんな大それた物なんかないはずだ。ただみんなが平穏に暮らせればいいやって言うだけの、ぼんやりとした自分勝手な思い。このやたらに血の気の多い甥っ子には、それすらも信念とかって重たい物に見えるんだろうか。

「そう言えばそろそろ目黒記念ですけど、ご覧になります?」

「遠慮しておくよ」

「僕は見たいです、それだけです」

 おいらはおいら、アオイホシノオトコ君はアオイホシノオトコ君。それでいいじゃないか。わざわざむやみやたらに争う必要もない。おいらが再び目を閉じておとなしくしていると、やがてテンカノエイケツさんの息子さんが1着になったという事が分かる声が聞こえて来た。静かだけど、重々しい喜び方。ああいうのって、ほんのちょっとだけど憧れてもいいよね。

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