10歳4月 ごめんね、アオイホシノオトコ君
アオイホシノオトコ君はずいぶんと落ち着いた顔をしながら、おいらたちの前にやって来た。穏やかな目をして、ニコニコと笑っている。そこに、皐月賞馬の姿はない。
「あ、アオイホシノオトコさん!」
「ヨウセイプリンスさんは、こういう馬なんだ。ここにいても願っていたのは、君たちの平穏無事ばかり」
「勝利じゃないんですか」
「僕は甥であり従兄弟である身として、キミの勝利を願っていたよ」
「親としてどうとか思わなかったんですか、その事について何か」
「キミの初戦を見た後食欲不振になっちゃってね、それでこの
大げさだとは全然思わない。あの時の緊張感、恐ろしい面相。一応その場にいたはずなのに、まったく別世界の恐怖だった。テレビ越しでも伝わって来る恐ろしい空気、あんな物を吸い続けていたらおいらは今頃倒れていたかもしれない。去年の春に嗅いだあの悪臭とあの時の空気は、今思うと似ていたかもしれない。
「そういう話を聞くたびに思いますよ、どうしてオレの父さんには闘争心が宿らなかったんだろうって」
「宿ってれば幸せになれたと思う?」
「思います」
「でも多分その場合、もっと長く現役を続けていた可能性があるからキミは生まれないよ」
「知った事ですか」
「何を言ってるの!」
「子が親の幸福を」
「バカ!!」
アオイホシノオトコ君の口から出たバカと言う二文字、それは本来おいらが言うべき物だったかもしれない。ごめんね、アオイホシノオトコ君。そんな事言わせちゃって。
「おいらの幸福は、みんな仲良く過ごす事だよ。勝つ事じゃないんだ」
「さっきさんざん言われたのに、まだわからないわけ!?」
「わかりませんね、レースが嫌なら嫌で方法はあったはずですよ」
「どんなだよ!」
「カブラヤオーさんって方をご存知ですか、オレのデビュー戦の時のように馬込みから抜け出すような競馬の出来ない馬でした。でも名馬と呼ばれるようになったんです」
カブラヤオーってのは昔の皐月賞・ダービーの二冠馬で、快速の逃げを武器にした馬だった。でも現実は他の馬を怖がる性格で、逃げるしか道がなかったらしい。おいらにそれと同じ事をやれって言うんだろうか。
「どうしてもお手手つないで仲良くしたいのならば、圧倒的に前に行ってそこでみんなを待つしかありませんね。オレはさっきも言ったように年度代表馬です。それぐらい強くなれば発言にも影響力は出ます。父さんがどうしても争いたくないと言うのであれば、それぐらいの事はすべきだったと思います。誰も敵わなくなってしまえば、従うしかなくなる訳ですから」
「話を取り違えるんじゃないよ」
アオイホシノオトコ君はおいらに代わってスターヴァンガードに迫っている。まったく、おいらは悪い父親だなあ。スターヴァンガードに対して言うべきことを、甥っ子に言わせてしまっている。でももういいからおいらが言うからとも言えない、だって言いたいことはおおむねさっきまでに言っちゃったから。
「勝利を求めるのも、平和を求めるのもどっちも同じだ。欲望の種類と方向が違うだけで、基本的には何も変わらない。さっきヨウセイプリンスさんは乗馬になった同僚に憧れてると言ったし、その乗馬になった同僚は種牡馬としてキミのような馬を出せる存在に憧れている。結局みんなないものねだりなんだよ」
「ないものねだりですか」
「ただヨウセイプリンスさんの欲望は世間的に極めて珍しい物であり僕らの知らない、と言うより理解できない物なだけだ。ヨウセイプリンスさん、あなたもある意味ものすごくガツガツしてるんですよ」
「そうかい」
アオイホシノオトコ君は昔、おいらの事を無欲だと言った。でもそれは世間的に競走馬や種牡馬が求める欲望が無いというだけで、みんなと仲良く暮らしたいとか平穏無事に過ごしたいとか言う欲望はものすごく大きいのかもしれない。でも、昔のおいらならこう言われた所でどこかだよと言い返して説明を求めていたのかもしれない。今は、何となくだけど理屈がわかる。おいらもスターヴァンガードも、同じぐらいの大きさの欲望の持ち主なんだろう、おそらくはアオイホシノオトコ君も。
「鼻で笑うような奴もいましたよ」
「そんなのは全部実力で黙らせただろう」
「何度やっても大した事はないだのまぐれだの言うのをやめない奴もいました」
「そんな奴程度が知れてると思うけどね、さもなくばそれはある意味での戦術だ」
「戦術?」
「相手を怒らせて平静さを失わせるか、さもなくば相手を下に見て自分に自信を付けさせるかって戦術だ」
「そいつは去年の最優秀短距離馬です、安田記念もマイルチャンピオンシップもそいつにやられました」
「そいつはねえ、まあ威張るだけの価値があるだろうね。勝って兜の緒を締めよとか言うけど、あまり謙虚なのもかえって嫌味に映る。ヨウセイプリンスさんにキミがカッカしたのも、同じ理由かもしれない」
おいらがそんなに嫌味を言ってたって言うの?何も栄光を求めないで、ただ仲良くする事だけをむさぼろうとしてるって事が?おいらの事を、調教師さんや騎手さんは嫌っていたかもしれない。どうしてまともに走ろうとしないんだ、やる気がないんだって。他の馬も嘲笑っていたかもしれない、オカシナヤツだって。でもあのシンエンノサキニのような馬だってアンチがいたんだ、みんなに好かれるような馬がいる訳がない。
「でもさ、おいらの獲得賞金額はたったの130万円。アオイホシノオトコ君は5億円で、スターヴァンガードは10億円だよ。それ相応に振る舞う事の何が悪いの?」
「いや、僕とスターヴァンガード君は0円であなたは10億円でしょ」
「そうです、父さんはもう10億円馬の父親なんです。もうあなたは立派な種牡馬、いや大種牡馬なんです。それらしくしてもらいたい、ってのがあなたの息子のせめてものお願いです」
「どうしろって言うの」
「いつも悠然と構え、そしてあなたの胤を求めてやって来る牝馬に己が精を注ぎ込む事。それが今のあなたの役目です。もちろん、来るもの拒まず」
「ごめん、できそうにないよ。今のおいらは多分去年と同じ事をやりそうで」
確かに、それはそうかもしれない。10億円馬を出したおいらは種牡馬としてみんながアッパレアッパレって褒めてくれる存在だろう。でもあくまでもおいらは獲得賞金額130万円の、戦う事と戦う事に染まった相手が嫌いな存在に過ぎない。
去年のスターヴァンガードが天皇賞を勝った頃、あの山崎嘉智さんが所属する球団が日本シリーズで2連覇を成し遂げたというニュースが入った。おいらはその名前を聞いた時、嫌な気分になった。隠し切れない戦いの臭いを出し続けるあの人——野球選手と言うお仕事なら仕方ないのかもしれないけど――が、未だにあの時のスターヴァンガードと同じぐらい恐ろしい存在として頭に残っている。おいらは多分、それと同じ臭いを持った存在を受け入れることはできないだろう。当分か、一生か、少なくとも今年いっぱいは。実際、今だって吐き気を催していて気分は悪い。
「そうですね、無理強いをしてごめんなさい」
「いいよ別に、お互い様なんだし」
「たったの150万円で、たったの123頭ってどういう事なのか聞きたかったんですけどね」
「案の定だよ、200万円から減額されての150万円。スターヴァンガードを求めるにしてもああいう反応を起こす危険性のある馬は付けにくいって事なんだろうね、ってちょっと待って。たったのはないだろたったのは。その数がちゃんとできれば過去最高だぞ」
「すいませんね、オレはアオイホシノオトコさんの前で悪いですけど157頭もらってるんで」
「いいなあ、僕は今年案の定かなり減らされちゃって。初年度産駒が走らないと本当にヤバいよ。で、キミいくら?」
しかし思えば昔は、こういう金額の話をするのさえ争いの種に思えて嫌だった。やはりおいらも、種牡馬になったと言うことなんだろうか。スターヴァンガードと言う初年度の種付け料が700万円にもなる桁違いの息子を得て、ようやく種牡馬になったってことなんだろうか。
「それって不受胎で返還だよね」
「不受胎返還なら600万円、出産して1年間子どもが生きていれば700万円って契約になってます。父さんはどうなんです」
「出産時に支払いだよ、ずっと」
アオイホシノオトコ君も、いつかはこんな話をするんだろうか。ああそれと、テンカノエイケツさんも。息子さんがまた去年の年末重賞を勝った、種牡馬になってここに来てくれたら、ちょっと嬉しいかもしれない。
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