4歳 テンカノエイケツさん
「はいOK!次も頼むぞ」
その牡馬さんは、こくりと力強くうなづいていた。まるで、これから戦いに行く感じだ。でもその姿は、カッコいいって言うより怖かった。戦いとか、争いとかを連想させて嫌な感じだった。
けれど、おいらはその戦いの光景をじっと眺めた。決してその匂いに魅かれたからじゃない。一日に何回もあんなことができるのはなぜなのか、理由を聞きたかったからだ。だから終わるのをじっと待った。そしてやがて終わり、その馬が太いおちんちんを出しながら息が上がるのを見届けた。
「お疲れ様です」
「おうお前、ヨウセイプリンスか」
やがて夕暮れになった頃、もういいだろうと思っておいらはその馬に声をかけた。黒鹿毛って毛色をした、ちょっと怖そうな馬。でも、さっきのような戦う馬の気配はない。この違いは一体何なんだろう。
「俺の事は知ってるよな」
「えーと……」
「おいお前、俺はこの牧場の先輩だぞ!」
「申し訳ありません!」
「それでも競走馬であれば名前ぐらいは聞いた事があるだろう、テンカノエイケツって名前を」
「わかりません、だっておいらは早くやめたいなって事しか考えてなくて他の馬の名前を覚える気がありませんでしたから」
なんでこんな所にいるんだろう、そればっかり考えてた。名前を覚えなかったのは覚えると情が移ってはまり込むのがやだだったから。まあそれ以上に、関心がなかったってのも大きいんだけど。
「お前なあ!」
「でもその通りでしたから。それにここに来てからもずっとケガを治す事ばかり考えてて」
「あのさ、世の中には未勝利戦がなくなっても現役を続け、そこからGⅠを勝った奴だっているんだぞ!」
「へぇー」
「噂には聞いていたけどな、あいつの弟はまったく走る気がないって。ったく、シンエンノサキニも困った弟を持ったもんだよな」
「どういう事です」
シンエンノサキニと言う名前を、おいらは好いても嫌ってもいなかった。ただ遠すぎて、実感ができなかっただけ。その馬がおいらのことをどうして知っているのか、どうしてこの馬がおいらにその馬の話をしてくれるんだろうか。
「俺はあいつの同期だ」
そう聞いたおいらに、テンカノエイケツさんは昔の話をしてくれた。
「三歳の時、俺はきさらぎ賞って言う重賞を勝ってこれでクラシック候補になれると思った、って言うかなった。本番の皐月賞では4番人気、いけると思ったんだよ」
「それで」
「でもあいつ、シンエンノサキニはすさまじかった。ちょいと仕掛けただけで気が付けば6馬身差。2着だったけどまったく格が違った」
「はぁ……」
「それでダービーでも俺は3番人気になったけど、戦意はかなり萎えていた。あんな奴に勝てる訳ないだろと。そのせいで人気を大きく裏切り11着……ったく恥ずかしいレースをやらかしたもんだ!」
恥ずかしいレースって何だろう?シンガリになる事?それとも途中でやめちゃう事?いや、おいらにとって一番恥ずかしいのはあの3戦目の事だ。あんなに怖くてみっともない事をしたってのに3着になり、10頭の馬を泣かせてしまった事。あの時の事は今でもまだ、嫌な夢として出て来る。
「これじゃダメだと気合を入れ直して菊花賞に挑んだけど、やっぱりダメ。そして俺はその時、こいつには二度と勝てないと思った」
「……」
「その後も三回挑戦したけど、全部負けた。2着すら一度もなく、もはや遠い遠い存在だと思っていた。お前がそう感じたように」
「えっ」
「でもあいつは負けた。海外遠征した時に、負けた。その時俺は思ったんだ、あいつでも負けるもんだなと」
海外遠征。なぜだろう、なぜ戦うためだけにそんな遠くまで行くんだろう。遠くまで行って、わざわざ戦って争う。何がしたいのか、未だにわけがわからない。
「それを見ていた俺は吹っ切れたんだ。あいつも結局はただの馬だと。だから俺は、有馬記念で気合を入れて挑んだ。これまで同様イマイチ続きだったけど、ここは負けちゃいけねえと。それで俺は勝ったんだよ、単勝120円のあいつに。まあその後は苦労もしたよ。シンエンノサキニに勝った奴がこの有様かってよ」
それで引退の花道に何をするんだよとか言う罵声を浴びせられたらしい。やっぱり、戦いなんて悲しい物なんだなと思った。
「思うにその時の俺は、目標をなくしてやる気を失っちまったのか知れねえ。ただなんとなく、過去を背負いながら走ってただけ。そしてそのまんま年末、また有馬記念の時期が来た。フロックと言われて、人気も上がらなかった。その時に俺はシンエンノサキニの事を思い出した。元々ハイスペックでありながら、その上にあの闘志あふれる決して手を抜かない王者の戦いぶりを。俺は再び戦おうと決めた、そして勝った。あいつによって、俺は有馬記念を連覇できたようなもんだ」
「大変でしたね」
「まあな。でもこうしてそのおかげで種牡馬入りして、2年連続で90頭以上の牝馬を集められてるんだから文句はねえよ。90頭以上っつってもシンエンノサキニの半分以下だし、種付け料もあいつの4分の1だけどな」
「申し訳ありません、不始末をしてしまいまして」
「は?今なんて言った?」
「面識はありませんが兄が不始末をしてしまいまして申し訳ありませんと」
「バカヤロー!!」
心底から申し訳ないと思った。こんなに立派な人を、むやみやたらに追い詰めて。勝ったのにそんなにめちゃくちゃ言われる理由なんてどこにもないはずだ。そんなに強いんならもう少しみんなに配慮してくれてもいいのに、どうしてこんなに残酷になれるんだろう。そう思って心底から頭を下げようとしたら、鷹揚だったテンカノエイケツさんの言葉が急に荒くなった。謝り方が悪かったのかと思って更に繰り返すと、テンカノエイケツさんはますます声を荒げた。
「勝負事に申し訳ないも不始末もあるか!それとも何か、お前はあいつが不正行為を働いたとでも言うのか!あいつはクリーンな男なんだよ!」
「そんな事は」
「いつごろから申し訳ないと思ってたんだ!」
「ダービーの話の辺りから、いや皐月賞の辺りから……」
自信満々であった馬の自信を木っ端微塵にするだなんて、あまりにも残酷だ。そんなひどい事をする馬を兄に持ってしまった自分が嫌だった。無駄に争って、無駄に強くて、無駄に他の馬から奪うような残酷な存在。いや、負けてもなお勝った存在を貶めるだなんて最低じゃないか!
「………………兄を恨むと言うのは、最大限に不幸な考えだ。その事だけは覚えておきたまえ」
「はい……」
「言っておくけど、今日の時点でお前は競馬の一部なんだぞ。生まれた子どもが一体何頭の勝利を奪い、賞金を奪い、あるいは繁殖馬としての地位を奪うかなどわからない。それは生まれた子ども以外誰の責任でもない。お前が気に病む必要など一切ない。今のお前はただ、子どもを産む事だけが大事だ。せいぜい、体をいたわる事だな」
「はい」
途中まであんなに熱くなっていたテンカノエイケツさんは、おいらの素直な答えに対して急に冷めた調子になりそのまま深くため息を吐いた。そしてそれに続くかのように、おいらもため息を吐いた。
そしてその夜、また夢を見た。おいらが3着になってしまった時の夢。10頭の仲間たちが、おいらの耳元ですすり泣く夢。いや、1着と2着になったふたりの耳元でもすすり泣いてるんだけど、それでもふたりは平然としている。
「なんでそんな顔ができるんだよ!」
「なんでそんなに混乱してるんだよ?」
「勝負だからしょうがないだろ、次こそはこっちも勝たねえとまずいし」
「キミらはそれでも生き物!?負けて悲しんだ馬たちの気持ちもわからないの!?」
「だからさ、そいつらのためにも俺らは次勝つんだよ」
「そうだよ、この弱虫!」
その後、気が付くとおいらは暴れ馬になっていた。許せないと叫びながら、どこまでも走って行く。逃げたかった、こんなに悲しむ馬たちで溢れかえる中から一刻も早く逃げたかった。ただただそれだけのために走った。自分が悲しませる側になってしまった罪悪感から死にたいとまで思ったあの時のように。死ぬのは嫌だったはずなのに、馬肉になってしまっても構わないとまで思うほどに。
「うわああああ!」
「何だよまだ夜も明けてないぞ!」
半年ぶりに見た夢。あの時と同じようにすさまじい叫び声を上げながら目を覚ましたおいらに、今回はテンカノエイケツさんの声がかぶさって来た。
「いや実はその……悪い夢を……」
「どんなんだよ」
おいらが見たままを素直に話すと、テンカノエイケツさんは深くため息を吐いた。
「初めてかよ」
「4回目です」
「昨日お前さんに喰ってかかった俺が悪かったよ。あの調教師さんには悪いけど、あれはあの人のミスだな。でも責めてくれるな、あれはお前を立派な競走馬にすると言う、本来の役目を果たそうとした結果だ。頼むから許してやれよ」
「でも……」
「過去を許す事の出来ない奴を弱虫と言う、ずっとシンエンノサキニの名前にしがみついていた俺のように。そうでなければもうちょいましな成績も上げられていた。お前に負けた奴だって許してくれてるだろうし、許さないような奴なんか放っておいてもまったく問題はない」
「はい……」
許す……か。もしおいらに子どもができてその子が競走馬になっても、その子をみんなは許してくれるんだろうか。結局は他の子たち任せって言う現実。おいらはこの種付けと言う作業をと共に、罪も作ってるんだろうか。許してちょうだいよみんな、おいらだって一応は許すつもりだからさ。おいらの瞳から、あくびとは違う涙が出た。
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