3歳2月~4歳3月 七光りって、何?

「一応治せますけど、半年はかかりますよ」

「もはやこれまでだな」

 競走中止、そして引退。それが正式に決まった時はもう、内心ホッとした。もう、これ以上争わなくて済むんだと。


「お前な、何だよその顔は」

「いけないの?」

「1勝もできずに引退した馬がどうなると思う?」

「さあ……」

「少なくともそのキンタマは取られるだろうな」

 キンタマってのは、おちんちんと一緒についている二つの玉の事。それを取られるって事がどういう意味なのか、その時のおいらはぜんぜんわかってなかった。とにかくおいらの隣の馬房にいた男の子は、ようやく落ち着こうとしたおいらにその先の運命の辛さ厳しさを語ろうとした。

「それでもダメならあるいは喰われちまうかもしれねえ」

「食べられる?」

「そう、肉にして喰われるかもしれねえんだぞ、痛いんだぞー、怖いんだぞー」

「もういいけど」

 その時のおいらは、もう本当にどうでも良くなっていた。怖い思いだって、痛い思いだって、もう目一杯して来た。これ以上に何か重なった所で変わらないだろって内心諦めていた。

「そのために走ってるんだよ、俺たちは。まあ、もうどうでもいいけどな」

 最初からその事を知っていたら、もう少しは頑張れただろうか。たぶん、あまり変わらないと思う。ただただ、競争したくないだけだから。

「じゃあな、もう二度と会う事もないだろうけど」

 その男の子は、嬉しそうに笑いながらおいらの事を見送ってくれた。ありがとう、その子は今でもおいらのお友達だ。


 おいらは馬運車に乗せられた。何度乗っても、嫌な車。これから、戦いに駆り出されるのだと思うと、足が重くなる。心も重くなる。最後の最後まで、この車に慣れる事はなかった。

「しかし500万円ねえ……」

「期待したくもなるだろ、向こうなんか1回1000万円だろ」

「それでも安すぎるって評判ですけどねえ」

 500万円とか、1000万円とか。いったい何の値段なんだろう。そんな事を考えるのもやだった、だってそれがまた争いの種だから。もう何も考えたくないと思って黙って目を閉じていると、いつのまにか車が止まっていた。どうやら、運転する人もチェンジしていたらしい。いったいどれだけの距離を走ったのか、おいらにはてんでわからない。

「着いたぞ」

 その言葉と共に降ろされたおいらが見たのは、生まれ故郷とは違う牧場だった。

「ヨウセイプリンス号で間違いありませんね」

「もちろんだよ」

「では事前に申し込んだ通り500万円でこちらを買い取りますので」

「成立だな」

 どうやらおいらに、500万円の値段が付いたらしい。いったい何の話なんだろう。そしておいらは、写真を撮られた。

「これでヨウセイプリンス号はそちらのファームの種牡馬という事になりますね」

「来年度から種付けを行います」

 種付け?

「それにしてもねえ、現役時代の賞金獲得額130万円の競走馬に500万円の値が付くとは」

「個人的にこんな安値でいいのかってぐらいの値段ですけどね」

「まったく走る事に気が向かない馬でね、それが遺伝するのが怖いんですよ」

「たとえ産駒がダメでも、3年もすれば元は取れると思いますけどねえ」

 おいらを囲んで、二人の人間が話をしている。いったい何の事だろう。500万円ってのは、そんなに安いんだろうか。

「とにかく、あなたの決断が正しい事を祈りますよ」

「そちらこそ……」

 何か怖そうな笑みを浮かべながら、二人とも頭を下げた。そして一人の人がいなくなると、もう一人の男の人が今度は優しい笑顔で寄って来た。

「もう、走らなくてもいいんだ。これから春の時期まで、休むのがキミの仕事だ」

 休むのが仕事? おいらは、もっと多くの人と触れ合いたい。足が治ったら、みんなを乗せたい。でもこの新しいオーナーさんは、ただただ休めと言う。まったくどうなっているのか、わけがわからないよ。


 やがて秋になり、足が治ったのを感じたおいらは外へ出た。草を食べながら歩き回り、背中の寂しさにちょっぴりセンチメンタルになった。

「おかしいな、走る気がないだなんてウソじゃないのか?」

「走る気はないんでしょう、人を乗せる気はあるようです」

 走る気はある。争う気がないだけだ。どうしてみんな一番とか二番とか決めたがるんだろう。その答えをおいらは誰からも聞いていない。

「単走とかだとそれなりに走ってたようですけどね。怖がりなんじゃないですか」

「その線もあるな」

「って言うか調教師さんから聞いた事がありますよ、たった1回だけ賞金を稼いだレース。その結果を見て自分たちがいよいよやる気になってくれたんだと喜んでいたら暴れ出したそうで、逃げ馬と言うよりレースから逃げたがってる馬って感じで」

 と思ってたらそういう事を言ってくれる人もいた。逃げたがってる馬、なるほどそうかもしれない。競争から早く離れたいと、ずっとその事ばかり考えて来た。今こうしておいらは、やがて来る春まではのんびりと暮らす事の出来る生活を手に入れている。いったいなぜなんだろう。

とてつもないラッキーなのかもしれない。おちんちんと一緒にある二つの玉————キンタマは取られるって言ってたけどそんな事もないし、殺されて肉にされる事もない。でもなぜまたおいらがこうしていられるのか、その答えもできれば知りたい。でもまあ、こうしていられるんだから別にいいけど。

「しかし案外と集まらないもんですね」

「何、まだ九月だぞ。きっとおこぼれを受け止める役として回って来るから」

「ですよね!」

 おこぼれって何だろう?こぼれた物を拾うって事だから、ゴミ拾いでもするんだろうか。ゴミ捨て場にたまったゴミを集めて、運ぶんだろうか。うん、それもいいかもしれない。

「しかし兄の七光りでこんな出番が回って来るなんて、果報者ですよねこいつも。って言うかオーナーの牝馬には」

「付けないよ、インブリードって知ってるか?このヨウセイプリンスは最後競走中止になったんだぞ。必ず同じ事が起こるからな」

 付ける?牝馬?一体何の事だろう? おいらはまだ競走馬だった去年の春ごろ、5歳の牝馬さんがやけに呼吸が荒くなっているのを見ておびえた事がある。隣の男の子に相談したらあれはフケって言うんだよって自慢げに教えてくれた。

「お子ちゃまめが、あれは女の馬が子供が欲しいって求めてるって事なんだよ!まあ、ほとんどの牡馬には関係のねえ話だけどな…………」

 でもおいらにその事を教えてくれた男の子は淋しそうな表情になった。でもすぐおいらはそのごく一部になってやるけどなって意気込んでた。

「みんな、このために意気込む物なの?」

「当たり前だよ!サラブレッドっつーのは血統を残すためのもんだ、そのためにはいい成績を上げて残す価値があるんだと思わせなきゃいけねえだろ!」

 当たり前————おいらにはその当たり前がどうしてもわからなかった。速く走るのが当たり前、一番を目指すのが当たり前。目指そうとしてできないのは仕方がないけど、しようとしないのは問題。なぜなんだろう?その当たり前を疑う事のいったい何がいけないんだろうか?おいらがレースから離れているってことは理解してくれたけど、そっちの疑問に対する答えはまだもらっていない。馬の言葉は人間には通じないとはわかっていても、実にもどかしいなあ。


 やがて年が明け、4歳になった。新しい年のはずなのに、おいらを見つめるオーナーさんらしき男の人の顔は冴えなかった。

「結局たったこれだけか……」

「やっぱり、現役時代の悪評のせいじゃないですかねえ。まったくやる気がないって」

「1000万円、じゃなかった1200万円の代わりが20万円なら50頭は楽勝だと思ったのに……しかも条件も相当に大盤振る舞いしたんだがなあ……それなのにたった11頭ってどういう事だよ。予想外にお寒いよな」

 11頭。11頭に何をするのかさえ、おいらにはわからなかった。冬の寒いのは苦手じゃないけど、「お寒い」って言葉は好きじゃない。って言うか50頭と言う数字を勝手に期待されること自体、おいらにとっちゃ何が何だかわからない話だ。受胎しなければ種付け料は返還、受胎しても子どもがまともに生まれなければやっぱり返還、そして生まれた子どもが女の子だったら10万円返金――――それなのにたったの11頭、らしい。

「誤算だったのはシンエンノサキニだよな」

「失礼ですけどそれはオーナーの」

「本当だよ、個人的には1500万円まで行くかと思ってたんだけど。って言うかもし」

「勝負事でたらればはやめましょうよ」

 勝負事。ああ、嫌な言葉だなあ!結局おいらは、どうやったって勝負事からは逃げられないって言うんだろうか。好きとか嫌いとか、そんなのは全てわがままであって叶える事なんかできないんだろうか。でも、逆に考えればほんの3ヶ月ほど我慢すれば後の9ヶ月はのんびり過ごせる。そのために頑張るってのもありかもしれない。

 やがて春が来た。最初にやって来た女のひとのお尻は、なぜかやたらと魅力的だった。息が荒くなり、おちんちんが大きくなってくる。

「もしかしてあなた、童貞?」

「何ですかそれ?」

「一度も種付けした事がないって事。私はもう12歳、これまで7頭の仔を産んで来たのよ」

「そうですか……」

「あなたはただ黙って、私の所に自分のを突っ込んでくれればいいの」

 その女の馬の所に、おいらは大きくなったおちんちんを突っ込んだ。あまりにも突然だったせいかその女の馬も驚いちゃったみたいだけど、この前触れも何もないやり方にもずいぶんと親切だった。

「腰を振って、思いっきり!ためらう事はないから!」

「あっ……はいっ……」

 おいらはその馬の言葉に従い、ただひたすらに腰を動かした。だんだんと気分が盛り上がり、体中が熱くなる。まだ寒いはずなのに、どんどんと!

「あっ……おしっこ」

「おしっこじゃないの、赤ちゃんの種なの!出しちゃなさいよ、ためらう事はないから」

 そして尿意が高まったおいらをその女の馬は促し、おいらがその気になって女の馬の中に出すとその馬はずいぶんと満足したようだった。でも、おいらは疲れちゃった。

「ふぅ…………」

「あら、たかが一回でなの?」

「もう一回ですか?」

「違うわよ、私は一回で満足よ。でもあなた自身、あと確か10回やるんでしょ」

「10回!?」

「今日中にとは言ってないわよ、この春のうちに」

 あと10回もこれをやるらしい、この「種付け」ってのを。大変だよなあ、ああ本当に大変だよなあ。少なくとも今日はもういいやと思っていると、その女の馬はさらにとんでもない事を言って来た。

「昔、私が初めて仔を作った時にはね、一日に4回も種付けした人もいたのよ」

「はぁ!?」

「例えばあの人みたいに」

 1回でも疲れるのに1日に4回だなんて、一体どうしてそんな事ができるのか。そう思いながら冷えた体で首を左に向けると、一頭の牡馬がおいらと同じ事をしてた。


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