9歳4~6月 悪臭の理由
「健康に異常はないようですけどね」
結局その日の種付けは最初のいっぺんで終わった。あの馬がいなくなってみると、気分は悪くなくなった。やっぱりあの馬のせいなんだろうか。
「まいったな、この後も相当な牝馬との種付けが待ってるのに」
「140頭の内重賞ウイナーが9頭、GⅠ馬があと3頭いるのになあ」
「種付け料が上がった分離れた馬もいますけどね」
「未出走馬でスターヴァンガードだから、GⅠ馬が相手ならばもっとと考えるのは簡単だろうけどなあ」
量だけじゃなく質も上がっている、テンカノエイケツさんの所にいた牝馬がおいらの所に流れて来たんだろうか。あの牝馬も、テンカノエイケツさんやアオイホシノオトコ君が相手ならばあんな思いもしなかったはずなのに、ああどうしてこうなったんだろう。
それでも次の日には体調も回復してそれなりにできるようになり、午前中だけで2頭の種付けを済ませたけど、3頭目の牝馬でまた行きづまった。
「どうしたの、私じゃダメなの」
「はい…………」
何べんもやろうとしたけど、やっぱりダメだった。またあの悪臭が鼻を襲い、やる気が萎えてしまう。おちんちんも、まったく動かない。
「世話がかかるんだから」
かろうじて覆面と鼻に詰め物をしてもらってその気になったけど、詰め物の狭間をすり抜けて入って来るあの悪臭はどうにも耐えられない。
「喰いすぎだな」
「よほど疲弊してるんでしょうね、3頭目の種付けで」
「8年前のフローラステークス馬相手だってのに、こんな調子で大丈夫かね」
モグモグパクパクと言うよりガツガツムシャムシャとおいらは飼い葉をむさぼった。今回は気力こそ持ったけど、体力の方が全く持たない。まったく、あの牝馬とぜんぜん似ていないはずなのに同じ悪臭が漂って来る、一体どうなってるんだろう。そう思いながらまた種付けに励もうとすると、またあの悪臭が襲って来る。そして種付けどころではなくなり、暴食か療養かのどちらかになってしまう。そんな事が、何回も何回も続いた。仮に何とかうまく行ったとしても、そこで気力を使い果たしてしまう。次があればできなくなり、次がなくても次の日に悪い影響を残す。
「叔父さん」
「えっ……」
そんな事が続いてすっかり寝不足になってしまったおいらを、アオイホシノオトコ君は首を落としながら見ていた。
「叔父さんは何が気に入らないんですか、彼女たちの」
おいらが拒絶した牝馬の大半は、アオイホシノオトコ君に流れていた。おいらが拒んだ牝馬ってのは重賞ウイナーやオープン馬が大半らしい。その牝馬たちが孕んだ子どもは大きな期待をかけられるのだろう。実に大変だ。
「逆に聞くよ、なんでアオイホシノオトコ君はあの牝馬たちが平気なの」
「それは僕が皐月賞馬だからです」
皐月賞馬だから――――答えになってないよと言うには、あまりにもきっぱりとしすぎていた。自分の手で勝ち取った何かが、自信となって彼に染み付いている。おいらにはそんな物、ひとつもない。
「そう言えばスターヴァンガード君、大阪杯を勝ったそうだけど」
種付けの最中にそんな事を言って来た牝馬さんもいた。ちなみにその馬はチューリップ賞、中山牝馬ステークス、福島牝馬ステークスってレースを勝った馬でそれから安田記念も2着したらしい。
「私はそう言う馬を出せるような種牡馬の胤が欲しいの。入れて頂戴」
そう強く迫られたけど、その時もまったくおいらのおちんちんは動かない。動いたのは足ばかりだ、しかも後ずさろうとする方向にばかり。
「どうしたの」
「うう……」
また、あの悪臭だった。同じような口上を唱えて来る牝馬は他にもいたし、スターヴァンガードの話をする馬も他にいた。でも、彼女たちからは悪臭はなかった。むしろ心地よい匂いがした。でも彼女からはしない、悪臭ばかりがする。
「弱いのね」
「ごめんなさい……」
おいらがその牝馬との種付けをできる状態でないと言う正しい判断を下した牧場の人のお陰で、その種付けは破談になった。そしてその牝馬もまたアオイホシノオトコ君の所に行った。
「叔父さんはスターヴァンガード君のことをどう思ってるんです」
「早く無事で帰っておいでって」
「やっぱりそうですよね、叔父さんはそういう馬なんです。その事が、彼女たちを受け入れられない理由になっているんだと思います。僕は皐月賞馬ですから、平気なんです。テンカノエイケツさんなんかまったく気にしないと思いますよ、ねえ」
「ああそうだな」
テンカノエイケツさんやアオイホシノオトコ君が大丈夫でおいらがダメな理由とはなんなのか、いくら考えても答えは出そうにない。おいらはあの臭いを克服できるのか否か、それともした方がいいのか悪いのか、その答えを誰か教えてくれないかなあ。
結局、140頭の予定だったおいらの種付け数はわずか84頭に終わった。と言っても最初3年間の合計の倍以上だ、決して少なくはないはずだ。でももちろん、オーナーさんたちはこの結果を気に入らないだろう。
「とにかくデータを分析した上で来年以降考えなければならないな。とりあえず種付け料の減額は必至だろう」
「ええ、今年もスターヴァンガードは絶好調なのになあ」
スターヴァンガードがGⅠを勝たなければ、あんな悪臭の主は来なかったんだろうか。すでにスターヴァンガードは、引退後この牧場に来ることが決まっているらしい。まぎれもなくおいらの息子のはずなのに、まったくそうとは思えない存在。宝塚記念とやらも勝ってしまったらしい、おそらくは歯を食いしばって辛そうに走りながら、笑って。それがもしサラブレッドとして正しい姿だと言うのならば、おいらは間違ったまんまでいい。ひとりぐらい間違っているから正しいのがあるんじゃないのか。
近年最強馬かも、そんな言葉すらスターヴァンガードには投げ付けられる。日々の生活に悩んだり苦しんだりしているらしい人たちからは大逆転のシンボルみたいに言われもしているそうだ。何千何百分の6と言う、スターヴァンガードにしてみればまったくたまたまそうなったとしか言いようのない運命によってそんな役目を回されたとするなら、スターヴァンガードにも同情せざるを得ない。早くそんな重たい枷から解き放たれて、自由に生きればいいと思う。もし自由に生きようとした結果、この道を選んだのならば今更うんぬん言う資格はないけど。資格はないけど、理解できるとは思わない。
――――これ以上逃げるとかえって近づく。テンカノエイケツさんに言われた言葉だ。じゃどうやればいいんだろう。逃げるなという事は、立ち向かえという事か。スターヴァンガードがこの牧場に、どんな顔をしてやってくるのかはわからない。親子と言っても、シンエンノサキニさんとアオイホシノオトコ君と違ってまったく顔など合わせていない親子だ。競馬ではむしろアオイホシノオトコ君の関係の方が珍しいぐらいだが、いずれにせよおいらはめちゃくちゃ難しい選択を強いられる事になる。
「穏やかな夏ってのは、そんなに長くないぞ」
「テンカノエイケツさん、この前は」
「春の天皇賞がピークだったんだよ」
宝塚記念では、スターヴァンガードが1着でテンカノエイケツさんの息子さんが7着だった。おいらがその事に対してさほどの感慨を抱かなくなったのは、おいらが疲れたからだろうか、それとも慣れてしまったからだろうか。
「また勝ってしまった、なんて言っちゃいけないんですかね」
「いいと思うぞ、あくまでもスターヴァンガードの栄光だということをお前さんはわかっている。決して、自分がえらいだなんて思わない」
「前は威張れって言ってましたよね」
「よく覚えてるな、でもそこまで俺が言ってもお前は考え方を変えなかった。お前さんのはもう性格を通り越した体質であり、お前さんにしかないもんだ。お前さんを理解できない奴は、結局一流にしかなれない」
「十分じゃないですか」
「超一流にはなれないって事だ、スターヴァンガードはもう立派な超一流だ。でも彼がもしここに来て2~3年の間にお前さんの事を理解できないのならば、彼は種牡馬としてお前さんには勝てないだろう」
おいらの何がスターヴァンガードに勝っているのか。年齢?そんなのは当たり前だ。値段?種牡馬として500万円と言う超安値で買われた「元推定3億円馬」であるおいらと400万円と言う安値だけど競走馬としては普通にあり得る値段で買われたのを普通比較はしない。そして、それ以外はまったく比較にならない差が付いている。何より、闘争心だ。スターヴァンガードが闘争心を涸れさせるのには、一体どれだけかかるんだろう。派手に負けた時だろうか、もうここではやる事がないと判断した時なのか、それとも引退が決まるとフッとなくなるんだろうか。あるいは、死ぬまでなくならないんだろうか。
「せめて、嘔吐だけはしないでくれよ」
「嘔吐……?」
「お前さんの今年の種付けが振るわなかった理由、俺にはわかるんだよ。個性もいいけどな、他人の幸福や願望を邪魔しちゃいけない」
「わかってます」
「さっき体質って言った理由が分かるか?」
「すみません」
「お前さんはおっとりのんびり暮らすのが正義だって信じている、その体質が拒絶反応を起こしてしまった訳だな、彼女たちの闘争心に」
闘争心に対する拒絶反応。それがあんな悪臭となっておいらの鼻を襲ったって言うのか、まったく難儀な体質になってしまったもんだ。でもおいらは、決して後悔する気はない。だって、それがおいらのやり方なんだから。その気もないのに競走馬にされても、その後兄の七光りとかで勝手に種牡馬にされたとしても、スターヴァンガードがあんなに活躍したとしても、おいらは競争とは別の世界で生きたいから。
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