第六幕 辻斬りな暴漢

「――ハァ…ハァ…ハァ…ハァ……」


 暗く静かな闇の中、青いブレザーに身を包む制服姿のその少年は、竹刀を真っ直ぐ正眼に構え、大きく上下する肩で荒い息を切らしていた。


 竹刀を構えているとは言っても、そこは剣道の道場でも、どこかの学校や公営の体育館でもない……そこは、他に人の気配もない夜の閑静な住宅街の路地裏である。


 おそらくは下校途中であったのであろう、少年の足下には革の通学用鞄と、先程まで彼の竹刀が入っていたと思しきキャリーケースが乱雑に転がっている。


「……ハァ……ハァ……一体、なんのつもりだ……」


 精悍な顔立ちをしたその少年は、荒い息遣いの合間を縫って、自分の目の前に広がる深い夜の闇へとそう問いかける。


「………………」


 その暗闇の中……そこには周囲の闇と同質化するようにして、一人の人間のシルエットがぼんやりと浮かんでいた。


 ……いや、シルエットというのはけして情緒的なただの比喩表現ではない。その人物は実際に、夜の闇と同じような黒い色の装束でその身を覆っていたのである。


 そして、その黒衣の人物の右手には、深い暗闇に鈍い銀色の光を放つ、一本の凶気を纏った日本刀が握られている。


「……ちっくしょう!……突きぃぃぃーっ!」


 追い詰められた少年は、最後の賭けとばかりに懇親の力を込めた打突をその闇色の人物に向けて放つ。



 ガスっ…!



 だが、次の瞬間、少年の竹刀は虚しく何もない夜の闇だけを貫き、その代りとばかりに黒衣の人物の振り抜いた真剣が、見事、少年の胴を打ち据えていた。


「うごっ…」


 少年は言葉にならない声を上げて、そのままその場へと倒れ込む。


「安心しろ。峯打ちだ……貴様の腕では斬るにもあたいせぬわ……」


 その姿を上から見下ろし、黒衣の人物は冷たく吐き捨てるように独り呟いた――。





「――いい? ぜ~ったい、勝手にあたしの体を使ったらダメだからね!」


 清々しい空気を掻き分け、スーツ姿のサラリーマンやOL、自校や他校の制服に身を包む生徒達が行き交う朝の雑踏の中で、真琴は時折、誰もいないとなりの空間に顔を向けながら、ブツブツと独り文句を口にしていた。


 だが、それはけして独り言などではない。他の者達の目からすれば、独りでずっとしゃべっている痛い子にしか見えなくとも、ぢつは彼女のとなりにもう一人、目に見えぬ人物が確かにいたのである。


 ……そう。一昨日、彼女が買った刀に取り憑いていた、奇妙な侍の霊が一人……。


「しつこいでござるな。わかったと申してござろう? 武士に二言はござらぬ」


 どうやら、その声も真琴以外の者には聞こえていないようであるが、真琴の口を吐いて出た言葉に対して、侍の霊の方もその都度ちゃんと受け答えをしている。


 生きてる人間と生きてない亡者との違いこそあれど、どうやら二人の間ではちゃんと会話が成立しているらしい。


「ほんとにほんとよ! もし約束を破ったら近所の神社とお寺を巡ってお祓いツアーを敢行するからね!」


「うっ…そ、それだけは勘弁してくだされ。約束は違えませぬゆえ」


 真琴が威すように強い口調でそう言うと、侍の霊はその顔を引きつらせ、武士には似つかわしくなく激しく動揺を見せている。


 昨夜、あれこれと彼を自分から引き離す方法を考えている内にわかったことなのであるが、どうやらこの侍の霊、霊だけにお祓いや読経なんかにはやはり弱いらしい。


 彼の話によると――。


「――いや、別に成仏するというのでも除霊されるというわけでもないのでござるが、お祓いや読経をやられると、どうにも苦しくなったり、気絶してしまったりするのでござるよ。その割にそれで成仏できかといえば、そういうわけでもなく、これではただのお祓いされ損にござる――」


――と、いうことらしい。


「なるほどね。やっぱり幽霊だからお祓いとかは苦手なんだ」


「左様。別に消えてなくなりはしませぬがな……」


 そんななわけで、お祓いしたり、お経を唱えたからといって、この侍の霊に取り憑かれた状況をなんとかできるとうことでもないのであるが、侍にこちらの言うことを聞かせるためのいい脅しにはなると考えた真琴は、早速、この手段を有効利用させてもらっている。


「でもさあ、なんでお経とか唱えても成仏できないわけ? 普通、霊ってそういうので成仏できるもんなんじゃないの?」


 真琴はふと思ったそのもっともな疑問を、となりを歩く侍の霊に尋ねてみる。


「まあ、たいていの霊はそのようでござるがな。それがしの場合、どうやらそうではないようなのでござる。以前、それがしを成仏させようとしたとある修験者の話によれば、どうやらそれがし、生前に何かとても心残りなことがござって、そのことを解決しない限り成仏はできないそうでござる。されど、死してより長い歳月が経ちすぎたせいか、どうにもその心残りだったことが自分でも思い出せなく……」


 そう答えた侍の霊は、そのまま腕を組んで考え込んでしまう。


「ふーん。そうなんだぁ……あ、そう言えば、あなた名前なんて言ったっけ?」

 

 だが、真琴は自分で訊いておきながら、関心があるのかないのか、あまり気のない返事をすると、最早、その話題は横において、思い出したかのように今度は名前を尋ねる。


「おや、それはひどいでござるな。昨日、名乗ったではござらぬか? それがしの名は森本喜十郎にござる」


 無礼にも自分の名を憶えていなかった真琴に、侍は少々不服そうに眉間の皺を寄せる。


「まあ、皆からは喜十郎の〝喜〟を〝鬼〟に代えて、鬼十おにじゅうなどと呼ばれていたでござるがな。と申すのも、我が家は代々、剣で知られた家でござってな。それがしも幼き頃より剣の腕を磨いてきたのでござるが、藩内では一、二を争う腕前だったゆえ、その強さから〝鬼の喜十郎〟と称され、それを略して鬼十になったでござるよ。まったく、妙なあだ名を付けられたものにござるなあ、ハッハッハッ…」


「へえ~…森本喜十郎っていうんだ。それじゃ、今度から喜十郎って呼ぶね」


「うっ…今の話、まるで聞いてなかったでござるな……しかも呼び捨て……」


 自慢げに自分の通り名について語った侍の霊――森本喜十郎であったが、その話は完全にスルーされてしまう。


「そうだ。あたしも自己紹介まだだったね。あたしの名前は…」


「近藤真琴殿でござったな。お父上は久雄殿、お母上は珠子殿、弟君は庄司殿でござるな」


 そして、今度は自身の名を告げようとする真琴に対して、喜十郎は聞くよりも早く彼女ばかりか家族の名前まですべてを名乗り上げた。


「えっ? どうしてそれを…」


「なあに、かれこれもう丸一日そこもとに取り憑いておりますゆえな、そのくらいのことは存じておるでござるよ」


「あ、そっか。そういえば一昨日からずっとあたしの傍にいたわけだもんね……えっ!? ちょ、ちょっと待って! それじゃ、お風呂やトイレや着替えの時も一緒に……」


 今更ながらにその一大事に気が付くと、真琴は顔を赤らめ、慌てて胸を隠すように腕をその前で交差させる。


「ああ、その点は心配めさるな。女子おなごの裸を覗き見するような破廉恥な真似、武士たる者がするわけないでござろう? そういう時には傍から離れていたでござるよ」


 すると、喜十郎は何も問題はないというように、その疑いをきっぱりと否定した。


「……ほ、ほんとね? 武士に二言はないわね? もし覗き見なんかしてたら、いくら一度死んだ身だからって、もう一度もがき苦しみ死ぬまで加持祈祷してやるからね!?」


 なおも胸を手で覆ったまま、真琴は疑いの目を喜十郎に向ける。


「女子に似合わず怖いことを言うでござるな……もちろん武士に二言はないでござるよ。まあもっとも最初、風呂に入った時は、あまりに胸が貧相だったゆえに男子おのこかと見間違えたでござるがな。しかし、女子だとわかってからは、もう左様に同行することは…」


 バシィィィィィィィン…!


「うぐおっ…」


 真琴の投げ付けた神社のお守りが、喜十郎の右頬にクリティカルヒットした。


「お~い! 真琴~っ!」


 そうして真琴が他人には見えぬ霊を思いっ切りブッ飛ばしているところへ、今度は後方から誰かの呼ぶ声が聞こえてくる。


「……ハァ……ハァ…ん? ああ、民ちゃん」


 地べたに這いつくばる喜十郎を一瞥し、怒りを鎮めながら真琴が振り返ると、その聞き慣れた声の主は民恵だった。


「おっはよー! あれ? なんか今、誰かとしゃべってたみたいだったけど……一人?」


 駆け寄った民恵は元気に朝の挨拶をすると、不思議そうに辺りを見回す。


「えっ! ……あ、ああ、そ、それは、今日はいいお天気だから、ちょっと鼻歌を歌ってたんだよ。ランラランララ~ンって、ほらね」


 訝しがる民恵に、真琴は彼女には見えぬ足下に横たわる侍をちらりと覗いつつ、咄嗟の鼻歌を歌ってその場を誤魔化そうとする。


「ふーん……ああ! それより大丈夫なの? 昨日はなんだかものすごく変だったけど。病院にはちゃんと行った?」


 けしてうまいとは言えない誤魔化し方ではあったが、幸か不幸か民恵はそれ以上に重要なことを思い出し、すぐさま話題を変えて真琴に尋ねた。


「えっ? あ、う、うん。お医者さんの話だとね、どうやらあたし、昨日は風邪で高熱があったらしくて、それで意識しない内に変な行動しちゃってたようなんだよね。へへへ…」


 ひどく真面目な顔で心配する民恵に、真琴は苦笑いを浮かべながら答える。


 それはなんとか真実を告げずに皆を納得させるため、彼女が予め用意しておいた嘘のストーリーである。


 さすがに侍の霊に体を乗っ取られていただなんて、そんな誰も信じてくれないようなこと言えるわけがない。信じてくれないどころか、よりいっそう痛い子に見られてしまうこと請け合いであろう。


「そうなの? でも熱で頭が朦朧としてたからって、それでいきなりあんな剣道強くなったりはしないと思うんだけど……」


 真琴が一晩、じっくり頭を捻って考え出した嘘も方便な理由であるが、やはりそんな下手な言い訳、民恵はまだどうにも納得し切れていない様子である。


「そ、そう? た、たぶん、あれだよ、あれ。高熱が出たことで普段かかっている筋肉のリミッターが外されて、いつもは眠っている潜在能力が発揮されたんじゃないかな? 前になんかの本でそんなようなこと読んだ記憶があるし……ほ、ほんと、人の体って不思議よね~…アハハハハ…」


「……なんか、ものすごく疑問は残るんだけど、まあ、医者が風邪だって言うんだったら、きっとそうなんだろうね……で、どうなの? そんな高熱出た後で、もう学校出て来てもだいじょぶなの?」


「う、うん。も、もう大丈夫みたい。なんか、そういう一瞬だけ高熱が出る風邪が今流行ってるみたいで…アハ、アハハハハ…」


「ふーん。そうなんだぁ……」


 やはり、なんだか得心がいかないという顔つきで、民恵はかなりツライ真琴の言い訳にとりあえずは頷いてみせた――。





「――ええっ!? 昨日の強さは高熱が出たせい?」


 道場に居並ぶ日新高校剣道部員の面々が、こぞって頓狂な声を上げる。


「そ、そーなんですよ。今、巷ではそんな風邪が流行ってるみたいでして…アハハハハハ…」


 真琴は目をまん丸くして自分を見つめる部員達へ、民恵に訊かれた時と同じように嘘の説明をして苦い誤魔化し笑いを浮かべてみせる。


 放課後、部に顔を出した途端、彼女は部の皆から稽古をつけてくれるよう熱く懇願されたのだった。


 もちろん、昨日の一本勝負全員勝ち抜きなどという偉業を果たしたせいであるが、それは真琴自身が行ったものではなく、本当は彼女に取り憑いた侍の霊・森本喜十郎の仕出かしたことであって、彼女自身は剣の腕が立つどころか、剣道の経験すらまるでないのだ。


「ほ、ほんと、熱で強くなるなんて、人体の不思議~って感じですぅ。アハハハハハ…」


 とはいえ、部員達にも真実を告げるわけにはいかず、真琴は強引にそういうことにして皆の頼みを断っているのだ。


 剣道などやったことないので稽古をつけろなどと言われても困るし、さりとて、また喜十郎に自分の体を使わせるなどもっての他だ。


 勝手に体を使われるのが嫌だという感情的な理由ばかりでなく、真琴の身体能力お構いなしに無理してあちこち動かされるものだから、翌日には全身ひどい筋肉痛になってしまうのである。


 そのことは今朝起きてみて、よーくわかった。おかげで今日一日、何をするにも体がだるくて仕方がない。


「もう、ほんと余計なことしてくれて……」


 背筋に鈍い痛みを感じながら斜め後に顔を向けると、真琴は皆に聞こえないよう小声で呟く。


 ちなみに今日は今朝の一撃・・・・・に裏打ちされた〝お祓い〟の脅しが効いているせいか、喜十郎が体を乗っ取るような気配は今のところない。


 あと、うっとうしいので学校に入ってからは姿を現さないようにと言い聞かせてもいる。まあ、現れたところで見えるのは真琴本人だけなのではあるが……。


「あれ? そういえば今日、松平先輩は?」


 マズイ言い訳ながらもなんとか皆を説得し、一段落ついたところで真琴はようやくそのことに気付いた。いつも道場にいるはずの松平の姿が、今日に限ってどこを探しても見当たらないのである。


「ああ、なんだか知らんが体調悪いって学校休んだんだ。あいつ、昨日の近藤の剣に感動して、今日の部活楽しみにしてたのにな。たぶん、今言ってた近藤と同じ流行りの風邪ってやつなんじゃないの?」


「えっ? ……あ、ああ、あたしの風邪ですか。た、確かに流行ってるようですからね。アハ、アハハハ…」


 一瞬、自分で吐いた嘘設定を忘れてポカンとする真琴であったが、時間差で理解すると苦笑いを浮かべて誤魔化す。


 完全に口から出まかせなので、この症状・・・・が流行ってることはまずあり得ないのであるが、もしかしたら本当に風邪も流行っているのかもしれない。


「そうですかぁ……」


 憧れの松平がいないことに、真琴はちょっぴり残念そうに視線を落とす……だが、その反面、真琴は少し安心したような気もする。昨日、喜十郎のせいで松平を打ち負かしてしまい、なんだか顔を合わせるのが少し怖かったのだ。

 

 松平は良きにつけ悪しきにつけ、自他ともに認めるそうとうな剣道バカである。


 そんな彼に自分のようなど素人の女の子が完膚なきまでに勝ってしまっては、少なからず彼のプライドを傷つけてしまったに違いない。それに、皆にしているこの嘘臭い言い訳も、彼が納得してくれるものかどうか大いに疑問だ。

 

 まあ、昨日帰りがけに見た感じや今の堀田先輩の言い方からして、そんな心配はしなくてもよさそうなんだけれど……あ、でも、もしかして学校休んだ本当の理由って、実はあたしに負けたショックのせいだったりするってことも……。

 

 少し安堵しかけた真琴であるが、その可能性に思い至り、再び大きな罪悪感に捉われる。


「おーい! みんな、ちょっと話がある。集まってくれ!」


 と、その時、道場の入口の方からそんな大声が聞こえて来た。


 その声に思考を遮断され、思い悩んでいた真琴も皆と一緒に振り返ってみると、そこには剣道部顧問の千葉が手を上げて立っていた。


 そのがっしりした体躯を青ジャージに包む青年教師(国語担当)の姿に、真琴を含む部員達は急いで彼のもとへと集まってゆく。


「おや? 松平は?」


「はい。なんか体調不良らしく今日は学校も休んでます」


「ほおう、鬼の霍乱ってやつだな……まあいい。それじゃ、みんな聞いてくれ」


 全員が集合すると堀田に松平のことを聞き、そう断ってから千葉はおもむろに話を始めた。


「じつは明倫高の剣道部員が昨日の部活終了後、帰宅途中に暴漢に襲われて怪我をするという事件があったそうだ」


 開口一番、千葉の語ったその物騒な話題に、部員達の間からはざわざわと一斉にざわめきが湧き起こる。


 話の内容もさることながら、その理由の一つには明倫高校というのがこの日新高からそれほど遠くない、というより、すぐおとなりのような場所に位置する高校だったということがある。


「命に別条はなかったらしいが、その暴漢は日本刀のような物で襲いかかってきたそうで、被害者の生徒は持っていた竹刀で応戦したものの、あっけなく打ち負かされてひどい打撲を負ったとのことだ」


 続く千葉の話に、部員達のざわめきはよりいっそう大きくなる。今度は学校の立地ではなく、その内容そのものによるものだ。


「日本刀って、それじゃ辻斬りみたいじゃん……」


 堀田が若干、血の気の失せた顔でぽつりと呟いた。


「ああ、その通り。時代錯誤もいいとこだな。詳しいことはまだわからんが、とにかく、そういう頭のイカれたやつが出たらしい。そんなわけで、おまえ達も部活の帰りには充分注意するように。特に暗くなってからはな。それから、もしそんなやつに出会っても、ちょっと剣道を齧ってるからって、ぜったい返り討ちにしようなんて考えるんじゃないぞ? 特に松平! …ああ、そうか、松平は今日休みか」


 そこまで言って、千葉は松平がいないのをうっかり忘れていたことに気づく。


「それじゃ、堀田。おまえ、今度、松平に会ったら、ちゃんとそう伝えておけ。なんせ、その被害にあった明倫高の剣道部員というのは、前回、松平を破って県大会一位になった小谷おだにだったんだからな」


 その名を聞いた部員達のざわめきは、ここに至って最高調に達した。


 明倫高校剣道部……そのおとなりさんである剣道部は、日新高を上回るレベルの県内屈指の強豪である。


 しかも、その中でも県大会優勝者の小谷が打ち負かされたとなると、犯人はそうとうな剣の腕の持ち主ということになるであろう。


「そういうことで、おまえらがいくら束になってかかっても勝てる見込みのない相手だ。だから、もしも万が一、出会ってしまったような場合には、無駄な抵抗なんかせずにすぐさま逃げるように。わかったな!」


「はい!」


 忠告する千葉に部員達は声を揃えて、当たり前だと言わんばかりに良い返事を口にする。


「よし。それじゃ、くれぐれも帰り道には気を付けるようにな~っ!」


 驚きと不安、そしてその裏に好奇の色を浮かべる部員達を前に、千葉はもう一度念を押しながら、重い静寂に包まれる道場を去って行く……すると、彼の姿が完全に見えなくなった後、道場内には再びざわめきが巻き起こる。


「ひえ~…聞いた真琴? 辻斬りだってさあ。明倫高なんてすぐご近所じゃん。まかり間違ってれば被害者はうちの部の誰かだったかも知れないよ!? ねえ、堀田先輩?」


 喧噪の中、興奮気味の民恵は真琴にそう言って語りかけると、となりにいた堀田の方に忙しなく話を振った。


「あ、ああ。しかも、あの県大会一位の小谷かよ。なんとも恐ろしい世の中だぜ……」


 堀田は民恵の言ったもしも・・・を想像して、ますますその顔から血の気を失せさせる。


「こりゃ、しばらく部活も早く切り上げて、あんまし遅くなんないようにした方がいいかもしれないな……よし! みんな、とっととやって、とっとと帰るぞ!」


 そして、誰に言うとでもなく呟くと、実は副部長だったりする堀田はそんな号令を大声で皆にかけた。


 こうして、普段とは少し違うシチュエーションで始まったこの日の部活動であったが、その中身はといえば松平が休みなくらいで、後は別段、いつもと何か変わるというようなこともなく、いたって平和な平々凡々としたものだ。


 真琴と民恵の二人にしても、いつものように用具の手入れをしたり、試合のスコアを付けたりなんかして、普段とさほど変わらぬ時間を道場の喧騒の中に過ごしている。


「……ハァ…今日は先輩休みかあ……」


 まあ、恋する乙女な真琴にしてみれば愛しい人のいない部活動など、いつものそれとはぜんぜん違う、まったく別モノの時間であったりもするのであるが……。


「ねえねえ、千葉ちゃんの言ってた暴漢っていうの、何が目的だと思う?」


 また、もう一ついつもと違う点と言えば、ミーハーな民恵は事件の話がいたく気になるらしく、先程から二人の会話はその話題一色である。


「凶器は日本刀みたいなのって言ってたよね? ってことはやっぱさ、昔の辻斬りみたく手に入れた名刀の切れ味が試したいっていうヤツかな? それとも春だし、ちょっとイっちゃってるヤバイ人とか?」


 やはり普段と変わらぬ体育座りで皆の稽古を眺めながらも、民恵はなぜか妙に瞳を輝かせ、時折、真琴の方に顔を向けては興奮した様子で話しかけて来る。


「ええ~そんなのあたしに訊かれてもわかんないよお~」


 その問いに、同じく体育座りをしつつも松平のことを思っている真琴は、さほど興味もなさそうな声で彼女との温度差を顕著に表す。


 話題をそのこと一色に染めているのは、どうやら民恵一人だけのようだ。あまり物事について拘りを持たない淡白な性格の上、今は恋する相手のことで頭がいっぱいな真琴に対し、民恵はこうしたワイドショー的なネタを前にかなり心を動かされるみたいである……つまりは、大好物なのだ。


「もう、つれないわねえ~。これは一大事件だよ! こんな大事件、放ってなんかおけるわけないじゃない! あんたももう少し世の中のことについて関心持ちなさいよ! 関心を!」


 先程からまるで無関心な真琴に苛立ち、民恵はちょっと怒った口調でそう偉そうに諭す。


「そんなこと言われたってぇ~……それに民ちゃん、そうやって事件のことをおもしろがるのはあんましよくないと思うよ?」


「べ、別にあたしはおもしろがってなんかないよ? た、ただ、そんな変な暴漢が実際に、しかもこの近所にいるんだな~って関心しただけだよ。そう! 関心だよ。関心!」


 ひどく迷惑そうな顔の真琴にまっとうな意見を口にされ、民恵は慌ててもっともらしく自己弁護する……しかし、この事件に胸躍らせていることはやはり隠し切れない様子だ。


「だって、日本刀で襲ってくる暴漢だよ? しかも、県大会一位の人を倒しちゃうくらいの剣の達人だなんて、これはもう、そんじゃそこらじゃぜったいお目にかかれないような珍しい暴漢だよ!」


「まあ、確かに日本刀持った暴漢なんて、あんまし聞いたことない……けど……」


 苦言を呈されても反省するどころか、開き直ってますます興奮の度合を強めていく困った民恵に、ぼんやりと部員達を見やりながらそう答えた真琴であったが、その直後、突然ガクンと彼女の頭が前に項垂れる……そして、次に顔を上げた時にはその瞳に、彼女とは違う何か別のもの・・・・が宿っていた。


「ええい! やはり我慢ならん! こんな場所に来ておいて、ただ見ているだけとはあまりにも酷というもの。武士道とは、日々剣の道に精進するものにござる! どなたか、それがしとも手合わせしてくだされぇーいっ!」


 いきなりガバと立ち上がり、そう大声で叫んだかと思いきや、激しく打ち合い稽古する部員達の輪の中へと、真琴は躊躇することなく突進して行く。


 そのまたも豹変する親友の姿に、民恵は唖然と口を半開き、譫言のようにぽつりと呟いた。


「真琴……もしかして、また発熱……した?」

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