第十二幕 剣客な決闘

 夜のとばりがすっかり下りた、暗く静かなオフィス街の裏通り……。


 その片隅に立つ、中国武術道場の入る古びだ雑居ビルの入口の前で、建物の影に身を隠す男が一人、じっと息を潜ませてその時を待っていた……。


 その道場での稽古が終わり、そこから一番腕の立つ者が出て来るその時を。


 男は全身を周囲の宵闇と同じ色の衣服で包み、左手にはやはり周囲の空間に溶け込んでしまいそうな暗色の細長い袋を握っている。


 ただ。


 その顔だけは、夜の闇からぬっと浮かび上がるほどに真白い肌の色をしていた。


 ……否。それは肌の色ではない。男はそのような白色の仮面を着けているのだ。


 よく見ると、その白い仮面の赤々とした口は耳元まで切り裂け、眉間に皺を寄せたその額からは二本のよく尖った細長い角が、にょきりと弧を描くようにして生え出ている……。


 ……そう。言わずと知れた般若の面なのだ。

 

 男はその般若の面に開けられた二つの丸い眼の穴から、じっと瞬きすることもなく、雑居ビルの入口を注意深く見つめていた……あたかも獲物を狙う猛禽か何かででもあるかのように。


「河上玄蕃殿にござるな?」


 しかし、男が見つめるのとはまったく別の方角から、突然、そう言って彼に声をかける者がある。こんな時と場所には不似合いな、若い女の声だ。


「……何者だ? なぜ、拙者の名を知っておる?」


 男は変わらぬ表情の仮面の内にわずかに驚いた素振りを見せると、謎の声にそう答えて後を振り返った。


「ん? ……その顔、見憶えがあるぞ。そうか。夕刻、この者の家を訪れていた女子(おなご)か」


 般若の黒く丸い眼の穴が見つめるその宵闇の先――そこには、左手に黒い鞘の日本刀をひっ下げた、紺のセーラー服姿の真琴が立っていた。


「だが、この気配……先刻はただの女子おなごと思っていたが、どうやらこちらと同じくもう一人中におるな? ……ん? この感じ……これも、どこか憶えがあるぞ?」


 般若面の男はその固まった鬼の表情のまま、まるで能楽のように訝しげな感情をおもてに表して小首を傾げる。


「フッ…どこかとはひどいでござるな。短い間とはいえ、そこもととそれがしはあの店でおとなりさん同志だったではござらぬか」


 男の疑問に真琴が――真琴の顔と真琴の声をした喜十郎が冗談めかした口調でそう答える。


 今の真琴の体に彼女の意思はまったくない……。


 現在、目の前にいる般若面の男――松平に取り憑いた河上玄蕃の霊と闘うため、憑依率100%の完全憑依で喜十郎がその心身を支配しているのだ。


「おお、思い出したぞ。そうか。お主はあの黒鞘の刀に憑いていた者か。なるほどな。どおりで憶えのある気配のわけだ……で、そのお主が拙者に何用だ?」


 ようやく相手の正体に思い至った玄蕃は、般若面の下から松平の声で、真琴の中の彼に重ねて尋ねる。


「なに、そこもとが剣の稽古相手を探しているようだったのでな。僭越ながら、このそれがしがそのお相手をつかまつろうかとまあ、そう思うてな!」


 ガチャ…。


 玄蕃の問いに喜十郎の真琴はそう答えると、左手に握った黒鞘の刀をグイと前に突き出して見せた。


 喜十郎を宿した真琴の瞳は、鋭い殺気と若干の愉しげな色を持って、般若面の松平を真っ直ぐに正面から見据える……。


 先刻、あの不思議な骨董店を出て喜十郎の協力を取り付けた後、真琴は急いで家に戻ると喜十郎の愛刀を持って再び外へと飛び出し、松平の家の前でじっと彼が――彼の中の河上玄蕃が行動を起こすのを隠れて待っていたのである。


 そして、時刻も夜の9時を回った頃、日新高剣道部の黒ジャージに般若の面という異形の姿でこっそり自室の窓より抜け出した松平の後を尾行し、うまいこと気付かれずについて来た少女一人と侍の霊一体は、今、こうして次なる犯行が行われる直前に玄蕃の前に立ちはだかったのだった。


「お主が相手を? ……ほう。確かに夕刻会った時には気付かなんだが、なるほど。お主もそうとうな遣い手の様子……なかなか良い殺気がびんびんと伝わってくるわ! おもしろい。ちょうど満足いく相手がなかなか見つからず、この平成とかいう御代にも飽き飽きしていたところだ。その勝負、謹んでお受けいたそう!」


 チャッ…。


 玄蕃もそう言って、左手に提げた細長いエンジ色の袋の紐を素早く解き、その中から鮮やかな朱色に塗られた鞘の刀を取り出す。


「ここではなんでござるゆえ、場所を移そう。近くに良い所がござりまする……」


 勝負に同意する玄蕃の霊に不敵な笑みを真琴の顔で浮かべると、喜十郎はそう告げて、彼を促すように踵を返した――。





 冷たい夜気に満たされる、しんと静まり返った誰もいない真夜中のグラウンド……。


「――ここならば~! 誰の邪魔も入りませぬ~!」


 蒼い月明かりに照らされたその広い荒野の中央で、真琴に宿る喜十郎は少し離れた位置に立つ般若面の男にそう叫ぶ。


 そこは、真琴達にはとっては大変馴染み深い、よく見なれた景色の広がる日常的な場所……日新高校の校庭である。


 じつは、先程いた中国武術の道場と日新高は、それほど離れていない距離にあるのだ。


「では、お手前の腕のほど、拝見させていただこうか……」


 般若面をかぶった黒ジャージの松平――その内に宿る河上玄蕃はそう口を開くと、左手に持った朱鞘から、月影を反射する鈍い銀色の白刃をすらりと引き抜いた。


「これまでに腕の立ちそうな者四人と勝負をいたしたが、いずれも斬るほどの価値もない弱小の者達であった……どうやらこの時代に、拙者を満足させてくれるような武芸者は一人もおらぬと見えるな」


「確かに。悲しいかな今の世には武士という者が存在せず、刀を腰に差して歩くことも禁じられているようでござるからな。左様な有様になってもいたしかたありますまい……」


 般若の面に不満そうな陰影を作って語る玄蕃に対して、喜十郎も同感とばかりに真琴の顔に残念そうな表情を浮かべる。


「だが、お主は女子おなごなりをしているとはいえ、拙者と同じひとかどの武士……どうやら楽しませてくれそうな気がいたす……お主、名はなんと申す? また、剣はどこの流儀をお使いか?」


 般若面の玄蕃は刀を片手に構えながら、今度はどこか愉しげな声で喜十郎に尋ねた。


「おお、言われてみれば……これはどうもご無礼をいたした。そういえば、まだ名乗っておりませなんだな。それがしは羽州松岡藩藩士・森本喜十郎。剣は森羅万刀流を使いまする」


「しんらばんとう流? 聞かぬ名だな……」


「まあ、それがしの家に伝わる流儀でござるからな。有名ではござりますまい……で、そこもとの剣は?」


 これから真剣勝負に臨むとは思えぬ暢気な声で答え、今度は喜十郎の方が訊き返す。


「フン…拙者の流儀にござるか? それは……実際に味わってお知りなされっ!」



 ガギィィィィィィーン…!



 そう叫んだ刹那、玄蕃は左手に持った朱鞘を打ち捨て、予告もなしに突然、斬りかかった。


「不意打ちとは卑怯にござるぞ!」


 しかし、喜十郎は間一髪、抜刀した愛刀でその凶刃を受け止め、互いに斬り結んだ剣を押し合いながら、その行為を責める。


「なに。お主の力量を計ったまでのこと。これしきを防げぬようでは相手にならんでな。だが、これでわかった。やはり、お主は斬るか斬られるかの真剣勝負をするに値する本物の武芸者……ククク…ようやく拙者の探し求めていた相手に巡り会えたわっ! ここからは本気でいかせてもらう!」


 玄蕃はその喜びに、若干、興奮気味な声でそう告げると、後に飛び退いて喜十郎から距離をとる……そして、刀を握る右手を真っ直ぐ後方へと伸ばし、その刀身が体の影にすっぽり隠れてしまうような奇妙な構えを見せた。


「お褒めの言葉悼みいる。それがしもここのところ、思う存分、剣を振るわせてもらえず、ちと鬱憤が溜まっていたでござるからな。真剣勝負は望むところ……さすれば、いざっ勝負っ!」


 喜十郎もどこか愉しげにそう嘯いて、刀を青眼に構える。


 ……にしても、見たことのない構えでござるな。いったいどこから攻めてくるでござる?


 刺すような視線でお互いを見つめたまま、ぴくりとも動かぬ二人の剣士……その中で喜十郎は、冷静に相手の出方を考えていた。


 ……体に刀身を隠し、こちらにはまるで見えぬようにしているこの構え……おそらくは何処より斬りかかってくるのか、その剣筋を隠すためにござろう……なれば、ここは先にこちらから仕掛けて相手を動かし、その構えを崩すでござる!


「ハァッ!」


 そう思い至るや一足いっそく跳びに相手の間合いへと飛び込み、喜十郎は真っ正面から玄蕃に一太刀を浴びせる。


 ブンっ…!


 その動きに玄蕃は背後に隠した刀を一閃し、頭上に迫った刃を振り払う……かのように喜十郎は予想していた。


 しかし、彼は思わぬ動きを見せたのである!

 

 玄蕃はその身を時計回りに一回転させ、喜十郎の剣を避けると同時にそのまま彼の背後へと回り込む。

 

 ヒュン…。


 それにより、喜十郎の太刀は先程まで玄蕃がいた空間を虚しく斬り裂くのみである。


「なにっ!?」


 喜十郎は思わず面喰う。が、そんな驚いている間など微塵も与えず、玄蕃は回転した勢いを利用して、彼の背後から己の刀を横薙ぎに叩き込んだ。


「くっ…!」


 ギィィィィィィーン…!


 咄嗟に喜十郎が後ろ向きに振り上げた剣が、からくも玄蕃の攻撃をすんでで受け止める。


 まさに文字通りの間一髪……人並外れた彼の反応速度ゆえにできた芸当である。


「フッ…なかなかやるな……フハハハハハ…これは愉快ぞ!」


 切り結んだ刀に力を込めたまま、玄蕃は松平の顔にかぶった般若の面の下で狂気の笑みを浮かべる。


 ギリギリギリ…。


 対して喜十郎もしのぎを削りながら、この刃の下の状況には似つかわしくない会話を玄蕃と愉しそうに交わす。


「なあに、これでも生前は藩内で鬼十などと呼ばれて恐れられた剣士にござったゆえな。しかし、これまで様々な流派の剣を見てまいったが、そこもとのような剣を見るのは初めてにござる。その流儀はいったい……」


「ほう…気付かれたか。それもそのはず。我が剣は我流……故に何人も我が剣筋を読むことはできぬ。即ち、その回避は非常に困難……そう、いつまでも避けてはおれぬぞっ!」


 ギンっ…!


 と、叫ぶと玄蕃は斬り結んだ刃を弾き、今度は逆方向へと体を回転させる。


 そして、その勢いのまま再び弧を描く斬撃を喜十郎…というか、真琴めがけて打ち込んでくる。


「ちっ…!」


 ギンっ…!


 それも喜十郎は剣を返してなんとか受け止める。


 だが、玄蕃の攻撃はそれで終わらない。再び剣を受け止められると、次に彼は体を斜め下方向へと回転させ、今度は下方から逆袈裟ぎゃくけさに斬り上げる。


 ヒュン…!


「うおっ…」


 今度もどうにか間一髪で、喜十郎は真琴の体を後に仰け反らせてそれを避ける。その時、セーラー服のスカーフが舞い上がり、その先端が少し刃に触れてスパっと切り裂かれた。


「まだまだっ!」


 しかし、それも避けられることを想定していたのか? 玄蕃は動きを止めることなく、いつ終わるともなく斬撃を連続して打ち込んでくるのだった。


「せやっ! はあっ!」


 体を回転させる彼の剣は、それとともに弧を描き、上から、下から、横から、斜めからと、変幻自在に喜十郎を狙ってくる。


「うぐっ…!」


 その度に、喜十郎の方もすんでのところで体を逸らしてそれを避け続ける。


 彼の――真琴の体の動きに合わせて、セーラー服の襟が、スカートの裾が、ポニーテールに結った髪の先が、巻き起こされた夜気の旋風にふわりと舞い上がる……。


 そんな太刀が十数回、夜の闇に閃いたところで、ようやく玄蕃の攻撃は一時停止した。


「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」


 喜十郎はすべての攻撃をなんとか避け切った……が、その激しい動きに真琴の体は辛そうに息を切らしている。


「…ハァ、ハァ……見たこともない我流の剣……なかなか、手強うござるな」


「ハハハ…よくぞ、すべて避けて見せた。ここまで我が剣を避けれたはお主が初めてぞ!」


 玄蕃は若干、弾んだ声を般若面の内側から響かせる。


「だが、もうすでに息が上がっておるな。それも無理からぬこと。その鍛えてもおらぬ女子おなごの体ではそろそろ限界であろう? それに比べ、こちらは筋骨逞しく、加えて剣の修業もそれなりにしておったおのこの体……我らの力量は五分としても、この生身の肉体差で果たして拙者に勝つことができるかな?」


 言うだけあって、確かに普段から剣道で鍛えている松平の体に宿る玄蕃は、あれだけ激しく動いてもまだ息一つ乱してはいない。


「…ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」


 対して、その宿りし真琴の体で荒い息遣いをする喜十郎の姿を見れば、誰の目にもすでに勝負はついているように思われる。


「…フゥー……さて、本当にそうでござるかな?」


 しかし、大きく息を吐いてなんとか呼吸を落ち着かせた喜十郎は、なぜか真琴の口元に笑みを浮かべ、そう、玄蕃に問うのだった。


「なに……?」


 思わぬ言葉に、玄蕃は般若の面を着けた頭を訝しげに傾ける。


「武士にとって本当に大切なのは、体格の良し悪しや技量のあるなしにはござらぬ。大事なのは武士として、命を捨ててでも義を貫かねばならぬと思う心……その強い意志にござる! 例えそれが武門がゆえのことであったとしても、自らの執着しゅうじゃくのために罪なき者を傷付けたりするようなそこもとに、それがしを倒すことなど到底でき申さん!」


 喜十郎は右手を真っ直ぐ前に伸ばし、握った刀の切先を玄蕃に突き付けると、そうきっぱりと断言する。


「フン…ぬかしたな。だが、武士とは本来、戦場にて敵の首を討ち取るがその職分……敵に勝つ技量がないのでは話にならぬぞ?」


 喜十郎の言葉に玄蕃は鼻を鳴らして短く笑うと、まるで負け犬を見下すかのような侮蔑の視線を般若面に開けられた二つの穴から投げかける。


「ハァ……やはり、武士というものがわかっておらぬでござるなあ」


 しかし、そう言い返された喜十郎は言葉に詰まるのでも、また別に怒るというのでもなく、首をふるふると横に振ると残念そうに嘆いてみせた。


「その敵に勝つために、いつでも身命しんみょうを投げ出して戦う武士の気構えというものが重要なのでござる。よいでござるか? この、それがしが借りておる体の持ち主――真琴殿は、そのそこもとが憑いておる松平殿を救わんがために、自分は如何様いかようになろうともかまわぬと申して、それがしに己が身を貸し与えてくださったのでござる」


 そして、まるで藩校か私塾の講義の如く、己の志す武士の道を目の前の道を外れた侍の霊に対して説いて聞かせる。


「それこそはまさに忠孝の心。不惜身命の武士の覚悟にござる! その心に動かされ、それがしは今、こうしてそこもとと相対しておるのでござるよ。必ずやそこもとを倒し、松平殿を助けるという真琴殿との誓いが、信義を守らんとする我が剣に千人…いや、万人力の力を与えてくれる……それが、武士というものにござる!」


「フッ…よく口の回る小賢しい武士だな……まあ、弱い犬ほどよく吠えるというもの。そのようにご立派な覚悟があっても、拙者の剣筋が読めず、無残に斬り殺されたのではその誓いとやらも果たせぬぞ? そんな誓いも果たせぬ武士など、武士として失格であろう?」


 だが、玄蕃は再び仮面の中で嘲笑うと、そんな挑発の言葉で喜十郎に問いかける。


「いや、その点も心配ご無用。そこもとの剣筋はもうすでに読んでござる」


 ところが、自身の勝利を確信し、早くも勝ち誇る玄蕃のその問いにも、喜十郎はいとも簡単にさらっとそう答えた。


「なんだと?」


 玄蕃はもう一度、首を傾げて般若の眉間に深い陰影を刻む。


「それがしの剣――森羅万刀流はありとあらゆる流派の剣を学び、その特徴、その癖をすべて体得している、まさによろずの刀の流儀……どのような剣も見知ってござる」


「なるほどな。それがその余裕の現れか……だが、先にも言った通り拙者の剣は我流。お主も見るのは初めてであろう? なれば、そのご自慢の流儀でも剣筋を読むことはできまい?」


 己の流儀について語る喜十郎に、玄蕃も自らの剣に自信を持ってそう返す……しかし、それを聞いても喜十郎は特に臆するわけでもなく、さらにこう言って退けるのだった。


「と、思われがちにござるが、森羅万刀流の真骨頂はさらにその先にあるのでござる……この流儀はあらゆる流派の剣を学び取ることを目的とするため、その鍛錬に励む内に、いつしか一目見ただけで相手の剣筋を見極めることのできる眼が自然と養われているでござるよ。それこそがこの流派最大の武器。先程、そこもとの剣は再三に渡って見せていただき申した。あれだけ見ればもう充分にござる」


 その余裕に満ち溢れた喜十郎の口調に、玄蕃はしばし口籠る……光と闇が作る陰影がただそう見せているだけなのか? 玄蕃の般若面の表情が若干、曇ったようにも感じられる。


「フン! なれば、その森羅万刀流とやらの力、とくと我に見せてみよ! 果たして拙者の剣筋を本当に見切れているのかどうかをな!」


 シャキン…。


 それでも、玄蕃はまるで動じていないかのようにそう断り、打ち捨てておいた朱色の鞘を注意深く拾うと、素早くそこに剣を納めて右腰の位置に構えた。


「抜刀術……」


 それを見て、喜十郎が真琴の目を細めて呟く。


「左様。まだお主には見せておらぬ技ぞ。この一閃で、おそらく勝負は決まるであろう……さあ、森本とやら。我が剣、しかと見極めるがよい!」


 その言葉を最後に、二人の間にはピンと張りつめた沈黙の空気が流れる……。


「……………………」


 腰の刀を水平に保ち、その柄からわずかに離れた位置で開いた右手を止めたまま、ピクリとも動かない玄蕃。


「……………………」


 喜十郎の方も刀を下段に構え直すと息を殺し、ぼんやりと、集中するでも、気を散らすのでもない落ち着き払った半眼の瞳で玄蕃の姿を見つめる。


 そのままの状態で、永遠にも感じられるしばらくの時が過ぎた……。


 今、二人の距離は互いに一歩踏み込めば斬ることのできる、一足一刀のぎりぎりの間合いにある……どちらかがその拮抗を破った瞬間、その勝敗は決せられる。


 ザッ…。


 と、その時。


 先に喜十郎の足が、ほんのわずかその間合いの境界線を越えた。


「テヤアッ!」


 刹那。


 玄蕃の目が般若面の中でカッと見開かれ、超高速で朱鞘の中の白刃が抜き放たれる。


 ギンッ…!


 その目にも留まらぬ斬撃を喜十郎は刀を立てて受け止める。鋼と鋼が互いにぶつかり合い、耳障りな金属音とともに周囲の闇に鮮やかな火花を散らす。


 ……だが、玄蕃の放った刃は、そこで止まらなかった。


 抜刀による一撃を受け止められた瞬間、玄蕃はその体を今の斬撃とは反対方向――即ち反時計回りに素早く回転させる。


 そして、その回転の内に刀の柄を右手から朱鞘を投げ落とした左手の方へ持ち替えると、遠心力と刀身の質量が生み出す最大限の威力を持って、二撃目の斬撃を喜十郎の体に叩き込んだのである。


 勝った!


 玄蕃は心の中でそう叫んだ。

 

 一撃目を刀で受け止めたことにより、現在、喜十郎の左半身には大きく隙が生じている。その隙に乗じ、逆方向から間髪入れずに二撃目を打ち込めば、もとよりそれを予想していない限り、その回避は不可能に近い……。


 ……そう。彼の抜刀術の真髄はこの二撃目にあったのである。


 神速の弧を描き、玄蕃の凶刃が喜十郎の――彼の宿る真琴の首筋へと襲いかかる……そのまま彼の――彼女の首は、玄蕃の剣によって斬り飛ばされるかに思われた。


 …………しかし。


 玄蕃の思惑とは裏腹に、喜十郎の方も予想外の動きに出る。


 玄蕃が逆方向へと回転し、その刃が自らの刀より離れるや否や、彼は剣を大上段に構え、体を捻って玄蕃が斬りかかってくる方向へとその向きを変える……。


 そして、喜十郎は自分の首筋目がけて襲いかかる玄蕃の凶刃を、大上段から一気呵成に斬り落としたのである。



 ガギィィィィィィーンっ…!



 眩い火花とともに一際大きな金属音が夜の闇に響き渡る。


「ば、バカな……」


 その余韻のまだ残る中、玄蕃はまるで幽霊にでも会ったかのような顔をして…と言っても彼自身が幽霊なのであるが……呻くように口を開く。


 見ると、喜十郎の振り下ろした渾身の一太刀は玄蕃の刀を見事に断ち斬り、その折れた刃の先端はまるでブーメランの如く回転しながら、暗い夜の空高く舞い上がっていたのだった。


 ……シュルシュルシュルシュルシュルゥゥゥ……ザスっ!


 折れた刃先はくるくると回りながら落下し、夜露に濡れた近くの地面へと突き刺さる。


「せやっ!」


 と同時に、喜十郎は刀の刃を返し、下方から上方へと斬り上げる。


 ザシュ…!


 その気合もろとも発せられた一撃は玄蕃のかぶる般若面を真っ二つに斬り裂く。


 …………カパ…。


 わずかの間を置き、二つに割れた般若の面は、はらりと木の葉が散りゆくように力なく地の上へと落ちた。


 面の下からは、その赤く光る目に玄蕃の狂気を宿した松平の顔が現れる。


「……まさか……我が剣が破れるとは………」


 その松平の顔をした玄蕃が、自分の敗れたこの現実を信じられぬといった声色で呟く。


「そこもとの剣はその剣筋が読みにくく、確かに必殺の秘剣にござる……」


 そんな彼に、なおも剣先を向けて残心を保ちながら喜十郎が言う。


「だが、それは邪剣。真に強い剣とは申せませぬ。真に強い剣とは、すべての剣の根底にある普遍の理を知り、いかなる相手と合いまみえようとも、その理を持って常に打ち勝つことのできる剣……天の理にうた真っ直ぐな剣にござる」


 そこまで語ると、喜十郎は突きつけた剣を退き、数歩下がって、その場に置いてあった黒漆塗りの鞘に愛刀を納めた。


「なるほどな……それが、お主の剣の強さか……」


 喜十郎の言葉を聞き、不意に玄蕃は物悲しいような、それでいて、どこかうれしいような、そんな不思議な表情を松平の顔に浮かべる。


「森羅万刀流、お見事であった……拙者はずっと、貴殿のような我が剣を超える本物の武芸者との真剣勝負の果てに、武士らしく、闘いの中で死にたかった……」


 腐っても武士、玄蕃は素直に自身の負けを認め、勝者に秘めたる己の心の内を明かす。


「武士道と云うは死ぬことと見付けたり……泰平の世に生まれ、その上、迂闊にも流行り病などで命を失ってしまい、もはや叶わぬ夢と諦めていたが……思いがけず、お主が良い最後の場を与えてくれた。これでもう思い残すことはない……否、むしろもう一度生まれ変わり、今度はお主のような真っ直ぐな剣を学んでみたいものだ……」


 言い終わるか終らない内に、松平の瞳から徐々に狂気を帯びた玄蕃の色が消えてゆく。


 …………ドサ…。


 そして、何か憑きものでも落ちるかの如く、松平の体は夜気に冷たくなった地面の上へと崩れ落ちた。


「河上玄蕃殿。無事、成仏なされたか……どうやら、それがしは満足のゆく試合をしても成仏できぬようだったでござるが……貴殿と同じようにそれがしもいつか、この何とも知れぬ心残りを晴らすことができるのでござろうかな……」


 それを見て、喜十郎は誰に言うとでもなく、どこか寂しそうな表情でぽつりと呟く。


「フゥ……さ、真琴殿。終わったでござるよ」


 それから一つ大きく息を吐くと、己が借り物の体の中へと微笑みを浮かべて呼びかけた。


「ハッ…!」


 すると、その顔からは喜十郎の気配が消え、真琴自身の表情が不意に蘇る。


「…ここは……うちのグランド? ……そうだ、喜十郎! 先輩は? 先輩はどうなったの!?」


 しばしの後、蒙昧とした意識がはいっきりしてくると、真琴は慌ただしく辺りを見回しながら不安そうな声で尋ねる。


「大丈夫にござる。河上玄蕃もしかと成仏し、松平殿も無事にござるよ」


 その問いに、いつの間にか彼女の体を抜け、どこかスッキリとした顔でとなりに立っている喜十郎が答えた。


 見ると正面の少し離れた場所には、折れた刀を握ったまま倒れる松平と、その傍らに二つに割られた般若の面が転がっている。


「先輩っ!」


 真琴はそう叫ぶが早いか、すぐさま彼のもとへと駆け寄る。


「先輩! 起きてください先輩!」


 そして、松平の体を抱きかかえると激しく何度も揺さぶった。


 ……だが、松平はなかなか目を覚まそうとしない。


「先輩っ! 松平先輩っ!」


 真琴はひどく心配そうな面持ちで、なおも松平の体を揺り動かす。


「目を覚まさない……もしかして、刀が折れちゃったから河上玄蕃の霊は……」


 彼の握る折れた刀に目をやり、さらに不安げな表情で真琴は呟く。


「いや。その心配はござらん。刀が折れても玄蕃殿が成仏したのは、それがしがしかと見届け申した。目を覚まさぬのはおそらく長い間霊に取り憑かれていたのと、あとは無理に体を酷使されたのが原因でござろう。きっとその内、目を覚ますでござるよ」


「…う…うう……」


 と、喜十郎が言っている間にも、松平が呻き声を上げながら意識を取り戻す。


「先輩っ!」


 真琴は松平の顔を覗き込み、いっそう大きな声で彼の名を叫ぶ。


「……ん……近藤? ……これはいったい……俺は何をしてたんだ……?」


 松平は真琴の顔を認識すると寝転んだまま周囲を見回し、手に持った切先のない刀を不思議そうな面持ちで見つめた。


「先…輩……よかっ…グスン……よかった……」


 その様子を見て安心したのか、ペタンと地面に座り込んだ真琴の瞳からは思わず大粒の涙が溢れ出してくる。


「うわあああん! せんぱ~い…!」


「こ、近藤……」


 なぜか大声で泣き出す真琴に、松平は気怠い体をひんやりとした地面に横たえたまま、何がなんだかわからないといった顔でキョトンとしている。


 それからしばらく、他には誰もいない真夜中の校庭の真ん中で、呆然と臥す松平を前に真琴は声を張り上げて泣き続けた――。




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