第十一幕 真剣な思い

「――じゃあな。ま、駅までは人通りある道だけど、日も暮れたし、辻斬り魔の件もあるから、二人とも気を付けて帰れよ」


「はい。堀田先輩も、もし辻斬り魔に遭っちゃったら、脱兎の如く逃げてくださいね。それじゃあ、また明日!」


「ま、また明日……」


 松平の家を出て少し行った所にある交差点で、反対方向へ向かう堀田と別れて、民恵と真琴は駅のある方向へと向かう。


「はぁ……それにしても、松平先輩、大したことなさそうでよかったねえ~」


「う、うん。そうだねえ……」


 すっかり夕闇に包まれた古くからの住宅街の道を再び歩き出し、改めて安心したように溜息を吐く民恵に真琴も穏やかな声で頷く。


「………………」


 しかし、真琴はそんな風に平静を装ってはいたが、内心、あの朱鞘の刀を見て以来、ずっとある不安に囚われていた。


 ……でも、そんなこと、面と向かって訊けるわけないし……ううん。きっと考えすぎだよね。そんなあたしと同じようなこと、そうそうあるわけないし……。


 それでも結局、松平にそれを尋ねることもできず、自分の心を偽り、彼女はその憶測を強引に打ち消そうと努力した。


「なんか、安心したらお腹空いてきちゃったね~……あ、そういえばさ、この前の『土着民SHOW』見た? なんかここのご当地グルメで八丁味噌やきそば出てたよね~」


「真琴殿、気付いたでござるか?」


 ところが、民恵が関係ない世間話を弾んだ声で始める中、不意に背後で姿を現した喜十郎が、そんな真琴の努力を無駄にするかのようにいきなり訊いてくる。


「えっ? ……き、気付いたって何に……」


 その恐ろしい現実を認めたくない真琴は、となりを歩く民恵に聞こえないよう声を潜め、恍けた振りをしてそう答える……本当は、もうとっくに気付いていたことなのであるが……。


「あの松平殿という御仁。それがしと同じような者に取り憑かれておりまするな」


「……!」


 喜十郎のその言葉により、信じたくなかった疑惑はついに現実のものとなってしまう……真琴は不意に目を見開くと、その場に立ち止まった。


「――いやあ、思い出したら、やきそば食べたくなってきちゃった~……ん? どうしたの?」


 不意に歩みを止めた彼女に気付き、夢中でしゃべっていた民恵が振り返ると怪訝な顔をして尋ねる。


「う、ううん! な、なんでもない……そ、それで焼き肉がどうしたって?」


「もお! 話ちゃんと聞いてた? 焼き肉じゃなくてやきそば・・・・だよう! だから、そのやきそばがね――」


「……じゃ、じゃあ、やっぱりあの赤い鞘の刀は、あたしの買った刀と同じように……」


 それ以上、民恵に怪しまれないよう、適当に話を合わせながら再び歩き出しつつも、真琴は背後の喜十郎に意識を向けて、先程同様、最大限に潜めた声で話を続ける。


「やはり気付いていたでござるな。左様。あの朱鞘はそれがしの愛刀とともに時空堂で売られていた代物にござる……それがし同様、成仏できぬ武士の霊のおまけ付きで」


 そんな真琴の言葉に、喜十郎は彼女の嘘を初めから見抜いていたかのようにそう答えた。


「それじゃ、先輩もあたしみたいにその霊に取り憑かれて……だから急に意識失ったり、知らない内に体を使われて筋肉痛になったりして……疲れてるってのも、つまりはそういうことなのね?」


「うむ。その通りにござる。しかも、あの御仁の場合は少々危のう・・・ござるぞ」


「……それって、どういうこと?」


 同じ侍の霊の口から発せられたその不吉な言葉に、真琴は言いようのない、ひどく不気味な不安を感じる。


「真琴殿の場合、それがしの存在に気付き、憑依されるのを拒めるほどに対等……というより、それがしの方が少々押され気味の関係にあるでござるが、あの方の場合は完全に心身を支配され、その存在にすら気づいてござらん」


「気づいてないって……そんなことあるの? どうしてそんな、あたしと違いが……?」


 説明する喜十郎の方を振り返ることなく、真琴は蒼ざめた顔を前に向けたまま再度尋ねる。


「気づかれぬのは取り憑いている霊が巧妙なのでござろう。先程も気配は感じたが、姿は現さなかったでござるからな。それに、おそらくは松平殿の方にも原因があるのでござろうな」


「先輩の方にも?」


「うむ。真琴殿とそれがしは、まあ、男女の差というのもござりまするが、どうにも魂の核とでも申そうか……平たく言えば根本的に性格が異なるらしく、体を完全に支配しにくうござる。いわば、真琴殿の心が無意識にそれがしの憑依を拒否してるのでござるな」


「それは無意識にだけじゃなく、意識的にもだけどね……」


 こんな時ではあるが、真琴は思わず律儀にもツッコミを入れる。


「しかし、松平殿とあの朱鞘の刀の霊とではどうやら性格が似ているらしく、同調しやすいのでござる。ゆえに、ああして自分でも気付かぬほどの完全な合一を果たしてしまっているのでござろう」


「それで、何が危ないの? さっき会った時は確かにかなり疲れてたようだったけど、でも、それ以外には特に何も…」


 彼女のツッコミも気にすることなく、その理屈を説明する喜十郎に、そんなことはまどろっこしいと言わんばかりに一番聞きたい結論を急かす真琴であったが、喜十郎はその口を塞ぐようにしてはっきりと答える。


「その疲れが問題なのでござるよ。それがしが真琴殿の体を借りたのと同様、あの朱鞘の霊も松平殿が意識を失っている内に、松平殿の体を勝手に使っているのでござる。ところが、霊は生前の感覚で体を動かすゆえ、その力が取り憑いた人間の身体能力を上回っている場合、その気がなくとも肉体に無理をさせてしまうのでござる」


「確かにあたしもあなたのせいでひどい筋肉痛になったけど……」


「いや、そんな生優しいものではござらん。このまま無理に体を動かし続け、極度の疲労が溜まっていけば、松平殿の命に関わるやもしれませぬぞ?」


「命って……そ、そんな……」


 それまでかなり楽観的に考えていた真琴は、そう真剣な口調で脅す喜十郎の言葉に思わず絶句し、再び立ち止まった。


「――あああ! ダメだ! もうがまんできない。やっぱ帰りに食べてこうよ…って、また話聞いてない。いったいどうしたっていうのよ?」


「………………」


 再び立ち止まる真琴をふくれっ面で見咎める民恵だが、今度は彼女に気を遣う余裕もなく、真琴は大きく見開いた瞳を小刻みに震わせ、喜十郎の声に耳を傾ける。


「それからもう一つ。もっと厄介なことがござる。それにも、真琴殿は薄々気付いているのではござらぬか?」


 そんな顔面蒼白で立ち尽くす真琴に、同時に立ち止まった背後の霊はさらに問いかける。


「……な、なんのこと?」


 真琴はその答えを少しでも先に伸ばししたいかのように、またもや恍けた振りをしておそるおそる訊き返す。


「あの壁にかかっていた般若の面にござるよ。ここのところ続いている例の辻斬り。あれも霊に取り憑かれた松平殿の仕業にござるな」


「……!!」


 真琴は、頭をガンと金槌で殴られたような激しいショックを受けた………だがそれも、心の隅のどこかではそうでないことを願っていた……否、もうすでに、そうであるとわかっていたことなのであるが……。


「それじゃあ、やっぱり……あれも先輩が……」


「先輩? ……なにあれって?」


「その口振りだと、やはり気付いておりましたな?」


 眉根に皺を寄せる訝しげな民恵を他所に、喜十郎がすべてお見通しであるかのように真琴の耳元で言う。


「どういう理由かは知りませぬが、今はまだ相手を峯打ちにするだけで済んでおるでござる……しかし、このままいけば本当に相手を斬り殺すやもしれませぬぞ?」


「………あたしのせいだ……あたしがあの時、あの赤い鞘の方を選んでいたら先輩は……」


 真琴は時空堂を訪れた際、偶然にも喜十郎の憑いた黒い鞘の方を選んでしまった自分を恨めしく思う。もしも彼女が朱鞘の方を買っていたならば、松平が辻斬り魔になるようなことはなかったのだ。


「赤い鞘? ……ああ! もしかして真琴もあの刀を商店街で見付けて、先輩への誕生日プレゼントにするつもりでいたとか?」


「いや、それは結果論にござる。真琴殿のせいではござらん。それに、もし真琴殿が朱鞘の方を買っていたならば、今度は真琴殿が辻斬りを働いていたやもしれぬのでござりまするぞ? そして、これまでの犠牲者に留まらず、松平殿達をも襲っていたやもしれませぬ……いずれにせよ、そのようなことを今更後悔したとて、なんにも始まりませぬ」


「……助けなきゃ……先輩を助けなきゃ……」


 なにやら大きな勘違いをする民恵の言葉ばかりでなく、厳しくも真理を諭す喜十郎の声もちゃんと耳に入っているのか? 真琴は焦点の合わぬ目で地面を見つめ、か細い声で呟く。


「そうだ! 先輩から無理やりにでもあの刀を取り上げれば……」


「と、取り上げるって!? ……い、いや、それは今更というか逆効果というか、ほんとに無理やりすぎでしょう……」


「いや、それは無理でござろう……」


 そこに思い至り、思わず声を上げる真琴だったが、偶然にも勘違いした民恵の合いの手と同音異句な言葉によって、すぐさま喜十郎がその腰を折る。


「もし、左様なことをしようとすれば、相手は松平殿の体を乗っ取って、刀を奪おうとする者に激しく抵抗するでござろう。ヤツはあの方の体をかなり気に入っているようでござったからな。聞くところによれば、相手は幾人もの武芸者を打ち負かしているというかなりの遣い手……一筋縄ではいかんでござるぞ?」


「そ、その時は先輩と闘ってでも……そ、そうだ! 喜十郎、あたしの体を貸してあげるから、その霊と闘ってあの刀を先輩から取り上げて! あなた、剣の試合がしたいっていってたじゃない? あなたの腕ならそのくらいのことできるでしょ?」


「た、闘うって……だから、そんな取り上げてからプレゼントにしても無意味だって……」


 最早、民恵の存在も無視して真琴は背後を振り向くと、必死の形相で喜十郎に願い出る。


 このような時にだけ喜十郎の力を借りようとするなんて少々卑怯な気もするが、今の真琴にとってはそんなことを言っていられる場合ではない。


「体を借りて勝負するのはやぶさかではないでござるが……それがしとて、確実にヤツに勝てるかどうかはわかりませぬ。下手をすれば、勢い余って松平殿の命まで奪ってしまうやもしれませぬが……それでもようござるか?」


 だが、喜十郎はそのことについて嫌味を言うでもなく、いつになく無表情な顔つきで淡々と冷徹に語る。


「えっ…!?」


 真琴は考えもしていなかったその危険性に気付き、震える瞳をよりいっそう大きく見開いて小さな叫び声を上げる。


「……な、なら、取り上げるのが難しくっても、最初から刀をへし折ること狙いで……」


「それも前に申したでござろう? もしも、その霊の取り憑いている器物が壊れるなどすれば、その霊は一生、その器物の持ち主に取り憑くこととなるでござる。そうなってしまってはさらに厄介。なんの解決にもなりませぬ」


「じゃ、じゃあ、どうすれば………グスン……グスン……」


 この絶望的な現実から目を逸らそうと必死に代替案を模索する真琴であるが、その安易な思い付きも即行却下されると、ついに彼女は啜り泣き始める。


「壊すって、それはもっと本末転倒な……って、真琴!? なにもそんな泣かなくても……」


「……そ、そうでござるな……ま、まあ、それがしと同じならば、何かヤツが生前に残した無念を晴らしてやれば、あるいは成仏するやも知れませぬが……」


 急に泣き出した真琴を前に、民恵同様、それまで厳しく突き放すように語っていた喜十郎もさすがに狼狽の色を見せ、少しは希望のあるようなことも言ってみる。


「……グスン……その、無念だったことって何?」


 真琴は鼻をすすり、眼に溜まった涙を拭いながら尋ねる。


「さあ? そこまではそれがしにも……時空堂に置かれていた時もたいがいは刀の中で眠っていたでござるからな。お互い親しく話をしたこともなかったでござる」


「…グスン……グスン……」


 喜十郎はなんの気なしに本当のことを答えたのであるが、その救いのない言葉を聞いて真琴は再びしゃくり上げ始めてしまう。


「ちょ、ちょっと、真琴! そんな泣かないでって……」


「あ、で、でも、時空堂の親爺ならば、そこら辺の事情を知っているかもしれぬでござる……」


 今にも大声で泣き出しそうな真琴に、慌てて取り繕う民恵と喜十郎だったが……。


「ハッ! ……そうか……あの骨董屋だ。あそこに行けば、きっと何かが……」


 不意に真琴は泣き顔を上げると、突然、まるで喜十郎が憑依した時と同じように、それまでとは表情を一変させる。


「喜十郎……あの骨董屋に行くよ! 民ちゃん、ごめん。あたし、急用を思い出したからこれで!」


 そして、喜十郎にそう告げるや民恵にも口早に断りを入れ、強い決意を秘めた顔で夕闇の中を走り出した。


「……真琴……キジュウロウって誰?」


 後に独り残されたポカン顔の民恵が、遠ざかる彼女の黒い影にぽつりと呟いた――。





「――ハァ…ハァ……」


 真琴は走っていた。


 日が沈み、オレンジ色の街灯が点り始めた薄暗い商店街を、懸命に走って探していた。


「……行かなくちゃ……なんとかあの店に行って、先輩を助けるための方法を教えてもらわなくちゃ……」


 彼女は走りながら、通りの左右を見回す。


 あの店――真琴が喜十郎の刀を買った骨董店・時空堂が、行こうと思っても滅多に行くことのできない、まるで異次元空間にでも存在しているかのような幻の場所であることは、前回探しに来た時の経験から真琴にだって充分わかっている……。


 しかし、充分わかっていても、たとえそうであったとしても、彼女はどうしても、もう一度、あの店に行かねばならないのだ。


 とても大切な……大好きな人を助けるために……。


 ……どこ? どこなの? いったいどこにあるの?


 だが、いくら通りを探してみても、なかなか時空堂は見付からない……否。見付からないというより、その存在自体がこの世界から掻き消されているのだ。


 ……お願い。あたしをあのお店に行かせて。あたしは、どうしてもあそこに行かなきゃならないの!


 真琴はなおも走り続け、探し続ける……しかし、やはり、あの古めかしい骨董屋の店舗は彼女の前に姿を現さない。


「……ハァ……ハァ……どうして、どうして、見つからないの?」


 走り疲れ、ついに彼女は息を切らしてその足を止めてしまう。


 ……どうしても行かなきゃ……もし、あたしが行けなかったら……このまま、先輩を救う方法がわからなかったら、先輩は……。


 両膝に手を突き、激しく肩で息をする真琴の心に再び最悪の予想が襲いかかる。


 「……お願い……お願いだから、あたしを行かせて……あたしは……あたしはどうしても、先輩を助ける方法を見付けなきゃいけないのっ!」


 そう、真琴が叫びながら顔を上げた瞬間……。


「ハッ…!」


 彼女の視界に、探し求めていた味のある木製の看板の文字が映る。


 それは――骨董店「時空堂」は、いつの間にかそこに存在していた。


「いつから、こんな所に……」


 真琴は、大きく目を見開いて思わず呟く。


 だが、今はそんなことを考えている場合ではない。彼女は気を取り直すと、急いでその店の引き戸を開いた。


 ガララ…!


「いらっしゃーい」


 勢いよく戸が開くのと同時に、この前来た時となんら変わらぬ穏やかな声で、老店主の挨拶が中から聞こえてくる。


「ん? ……おや、これはこの前来たお嬢さん。こんな短い期間に二度も来るなんて珍しいお客さんだの」


 そして、転がるように店へと入ってきた真琴を鼻メガネの隙間からまじまじと見つめ、帳場に座る老人はなんだか愉しいそうにそう呟いた。


「んお!?」


 ボンっ…!


 と、その時。


 奇妙な現象が起こる。真琴に憑いて一緒に店へ入って来た喜十郎が、いきなり煙のように掻き消えたのだ。


「喜十郎っ!?」


 突然の出来事に、いったい何が起きたのかわからぬといった表情で、真琴は喜十郎の消えた空間をしばし見つめる。


「ほう。どうやら刀に憑いとった霊とおもしろい関係になっているようじゃのう……」


 すると、この店の主である翁は白い顎鬚を蓄えた顔に柔和な笑みを浮かべて呟いた。


「なあに心配はいらんよ。別に存在が消えたわけじゃない。この店にはちょいと細工がしてあっての。霊達はその活動を制限され、実体化できなくなるんじゃよ」


 不思議な出来事の連続に真琴は唖然とした顔のまま、ここへ来た目的も忘れて立ち尽くてしまう。


「さて、お嬢さん。今度は何をお探しかな?」


 来店早々度肝を抜かされているそんな真琴に、老人は変わらぬ笑顔のままでそう尋ねた。


「お探し?」


「ああ、そうじゃ。探し物じゃよ。この店はの、何か心より探しているものがなければ、なかなか来ることのできぬ厄介な店じゃからのう。この前も、そして今日も、お嬢さんには何か探し物があったはずじゃよ?」


「探し物……あっ! そうだ! お爺さん! あたし、探し物というか、教えてほしいことがあってここへ来たんです!」


 そこで、ようやく真琴は気を取り直し、自分が〝探していたもの〟を思い出す。


「あ、あの、あたしが買った黒い鞘の刀と一緒に売ってた赤い鞘の方の刀って憶えてますか? 特価1000円の! あそこに二本一緒に置いてあった!」


「ん? ……おお。あの朱鞘の村正か。ああ、憶えとるよ。じゃが、残念ながらあれももう売れてしもうたよ。確か、お嬢さんが来た次の日に売れたんじゃったかの? ま、もし売れてなくても、あれはお一人様一本限りの特価品じゃったから、黒鞘の方を買ったお譲さんはもう買えんかったがの」


 気が急いて、息継ぐ間もなく早口に尋ねる真琴に、老人はうんうんと頷きながら答える。


「いえ、そうじゃないんです! その、それを買ってったのってどんな人でしたか?」


「ん? 買ってったお客さんか? あの男の子は……たぶんお嬢さんと同じ高校生じゃの。紺の旧日本海軍のような制服を着た」


「紺の制服……やっぱり。やっぱり先輩、あの日に買ったんだ……そう! それです! それについて教えてほしいんです!」


 思い出しながら答える店主の言葉に、真琴はその疑いをいっそう確かにすると改めて老人に尋ねた。


「ほう……どんなことをじゃな?」


「あの朱鞘の刀に憑いている霊のことです! あの刀の霊はどんな霊なんですか? あの霊が生前に残した無念なことってなんなんですか? どうしたら、その霊を成仏させられるんですか? お願いです! 知ってたら教えてください!」


 その矢継ぎ早に繰り出される真琴の質問を黙って聞いていた老人は、しばし間を置いてから逆に彼女へと訊き返す。


「……まあ、知らぬこともないがの……それを知って、なんとするのじゃな?」


 鼻メガネの隙間から覗く眼に鋭さを宿すと、老店主は真琴の顔をじっと見つめる。


「その霊を成仏させたいんです! 松平先輩……その、赤い鞘の刀を買ったあたしの先輩が取り憑かれて大変なことになってるんです! 無理に体使われて弱ってるし、その霊は辻斬りのように次々と先輩の体で人を襲ってて……このままだと先輩が……先輩、死んじゃうかもしれないんです!」


 真琴は悲痛な面持ちで老主人の質問に答え、そして、懸命に頼み込む。


「お願いです! その霊を成仏させる方法を教えてください! お金ならいくらでも払います! お金でダメなら代わりになんだってやります! だから……だから、お願いします! でないと、先輩が……先輩が……」


 気がつくと、真琴の両の瞳には涙が滲んでいる。その込み上げてくる感情に、言葉が詰まってうまくしゃべることができない。


「……つまり、あの朱鞘の刀に憑いていた霊を成仏させて、取り憑かれている少年を助けたいと。ま、そういうことじゃな?」


 今にも声を上げて泣き出しそうな真琴を老人は再びメガネの隙間からまじまじと見つめ、もう一度確認するようにそう尋ねた。


「…っぐ……は、はい!」


 真琴は嗚咽しそうになる自分を懸命に堪え、はっきりと首を縦に振る。


「うむ。よいじゃろう。しからば、教えてしんぜよう」


 すると老人は不意にまたあの柔和な笑顔に戻って、彼女の懸命な願いに色良い返事を返した。


「ハァ……」


 真琴はパアっと顔色を明るくし、老主人の言葉に耳を傾ける。


「あれは確か、河上玄蕃かわかみげんばとか申したかのう? ま、予想はついてるかと思うが、おまえさんに憑いとるのと同じに江戸時代の武士じゃよ」


「やっぱり……」


「ご他聞に漏れず剣の道を志し、名だたる武芸者を訪ねては勝負を挑んでおったそうなんじゃがの。志半ばで流行り病にかかり、そのままポックリ逝ってしもうたんじゃそうな。玄蕃自身は自分の剣を上回るような強い武芸者との真剣勝負によって最後は果てたいと思っておったようなんじゃが……ま、実際には畳の上であえなく病死というわけじゃ」


「それじゃ、辻斬り魔が剣道の県大会優勝者とか、そういう腕の立つ人達ばかりを襲っているのは……」


「おそらく、その生前に果たせなかった思いを今の世で取り憑いた者の体を借りてやり遂げようとしておるのじゃろう。ようは自分を超えるような最高の武芸者と、一度でいいから満足いくまで勝負がしてみたいとまあ、そういうことじゃな」


「……だとしたら、そのなんとかいう武士の霊に満足いくような試合をさせてあげさえすれば……」


 老主人の語る話に、真琴はある考えを思い付いて神妙な顔で呟く。


「ああ、おそらくは成仏してくれるんじゃないかの」


「ハァ……それなら……それなら、先輩を助けてあげられる!」


 その肯定の言葉を聞くと、真琴はさらに顔色を明るくして力強く言い切った。


「じゃが、相手はかなりの剣の遣い手じゃぞ? そのような者の相手がお嬢さんのようなカワイらしい娘さんで務まるかの?」


「ああ、それならうってつけの相手が一人いますから……同じように剣術バカの、やっぱりそんな試合がしたくてウズウズしている困った武士の霊が一人ね」


 一筋の光明を見出した真琴は、それまでの暗い表情などどこか彼方へと吹き飛ばし、疑問を投げかける老主人にも笑みまで見せてそう答える。


「おお、なるほどの。そういえばそうじゃったの。お嬢さんにはそんな頼もしい相棒がおったんじゃったな」


「まあ、相棒ってのはちょっと微妙なんですけど……あ、どうもありがとうございました。あ、あの、今の話を教えてくれたお礼のお金は……」


「なあに、お代はいらんよ。ここは骨董屋。を売るのが商売じゃからの。物じゃないものをお客さんに差し上げて、それでお代を取ることはできんて。今の話はまあ、お客様への無料アフターサービスじゃ」


 もしかして多額の情報料を取られるのではないかとおそるおそる尋ねる真琴に、老主人は冗談めかしてそう答えると、またにっこりと柔和な笑みをその皺だらけの顔に浮かべた。


「あ、ありがとうございます!」


 真琴は体を「く」の字に曲げて、老人に思いっきり礼をする。


「それじゃ、お爺さん。あたし、急ぎますんでこれで!」


 そして、慌ただしく別れを告げると店の引き戸を乱暴に開き、全速力で外へと駈け出してゆく……。


 再び静寂を取り戻し、古時計のコチコチと時を刻む音だけが響く骨董店の中で、そんな彼女の後姿を見やりながら、メガネの奥の目を柔和に細めて老主人がぽつりと呟いた。


「なあに、礼を言うのはこちらの方じゃよ。自分で買った物ばかりでなく、もう一つの方の怨念も解いてくれるというんじゃからの――」


「――ハッ!」


 店の外に出た真琴がふと後を振り返ってみると、そこにあったはずの時空堂の建物はすでに跡形もなく消え去っていた。


 そこにあるのはやはり、まったく別の店と店の間に空いた、人ひとり通れぬほどの細くて狭いわずかな隙間だけである……。


 あの店は、本当に滅多なことでは行くことのできない、いわば、異世界のような場所なのだろう。


「喜十郎! いる?」


 少しばかり背後に心を残しつつも、真琴は前を向き直って喜十郎の名を呼ぶ。


 ボンっ…!


「うおっ! ……おお! やっと姿を現せたでござる」


 すると、先程、店に入った時とは正反対に、今度は煙が上がるようにして喜十郎がその姿を再び現した。


「お爺さんの言ってた通り、あの店の中では霊が実体化できなくなってるんだ……」


 そのアメージングな現象を目にしても特に驚くことはなく、むしろ感心した様子で真琴は老人の言っていたことを思い出す。


 これまでにもいろいろと超常現象を見てきたし、いい加減、そういうことにも慣れっこになってしまっているようだ。


「そんなことよりも真琴殿。だいたいの話はそれがしも聞き申した。さて、これからどうするでござるか?」


 それでも、その慣れのせいで思わず横道に逸れてしまう真琴に、真剣な表情をした喜十郎が改めて問う。


「うん……こういう時にだけこんなこと頼むのって、ほんと卑怯で調子よすぎかもしれないけど……だけど喜十郎お願い! あたしの体をどう使ってもいいから、河上玄蕃の取り憑いた先輩と闘って! そして、河上玄蕃が満足いくような勝負をして、彼の霊を成仏させて!」


 真琴は一点の曇りもない真っ直ぐな眼差しで、喜十郎の瞳をじっと見つめて請う。


「相手もかなりの腕。おそらくは肉薄した真剣勝負となるでござろう……となれば、真琴殿の体とて無事ですむかわからんでござるが、それでもよろしいでござるか?」


「ええ。そんなの覚悟の上よ……あたしの体なんかもう、どうなったって構わない。だからお願い! 松平先輩を助けて!」


 その潜む危険性について語って聞かせる喜十郎にも動じることなく、堅く心に決めた真琴の覚悟はまったく揺らぐ気配がない。


「うむ。不惜身命ふしゃくしんみょうの覚悟にござるな。そこまで真琴殿は松平殿のことを……フッ…よくぞ申された真琴殿! やはりそこもとは立派な武家の娘にござる」


 その強い意志を秘めた彼女の瞳に、そう言って喜十郎は満足げな笑みを浮かべる。


「ようござる! 人を思う心は人徳の内でも最高位の〝仁〟の徳。そして、大切な方に忠孝を尽くすが武士の最も重要な務めにござる! 義を見てせざるは勇なきなり! この戦い……森本喜十郎、武士の誇りをかけて助太刀いたしまする!」


「…グスン……ありがとう……」


 そして、なにか芝居の口上のように声高々と述べ上げる喜十郎に、真琴はその瞳を潤ませながら、大きく一つ頷いた。

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