第一幕 平凡な少女

 ――ガシャ、ガシャ…。


「ヤァァァァーっ! 面えぇぇぇーんっ!」


 ガシャン…!


「胴おぉぉぉーっ!」


 気合と気合、竹刀と竹刀のぶつかり合う音が幾重にも重なり、一つの大きな喧噪となって道場内を満たしている……。


 そんな独特の雰囲気を持つ喧噪の中、彼女は道場の壁際にちょこんと座り、互いに激しく打ち合う防具姿の部員達を眺めていた。


……否、彼女の視線の先にあるものは部員ではない。それは、ある一人の男子部員にのみ向けられている。


 その人物が踏み込み、あるいは退き、あるいは竹刀を振り上げて打ち込む動きに合わせ、彼女のとろんとした眼差しは懸命にその後を追ってゆく……。

 

 長い黒髪をポニーテールに結び、背に草書体の白字で「日新にっしん高校剣道部」と書かれた黒ジャージを着る彼女の名は近藤真琴こんどうまこと。この春で二年となる、どこにでもいる平凡な普通の女子高生である。


 特に容姿が優れているわけでもなく、かといって不細工かといえば、そうでもない。背も高くなく、けれど低くもなく、ギャル系でもないし、おネエ系でもない、強いていえば多少ロリ系か? 勉強の成績も中ぐらいで、不良でもないし、優等生でもない。運動神経も極めて並のレベルだ。 


 即ち、これといった特徴の何もない、本当にどこにでもいる平々凡々な女の子なのである。


 また、そんな外見を反映してか、特に打ち込める趣味や人生の目標というようなものもまるでなく、彼女はただただ凡庸に日々の高校生活を過ごしている。


 そんな彼女がこの日新高剣道部のマネージャーになったのも、別段、何か主体的な動機があったからというわけではなく、先にマネージャーとなっていた友人に誘われ、ただなんとなく入部した……という程度のものであった。

 

 しかし、剣道部のマネージャーになって一年。彼女にも一つだけ心より打ち込めるものができた。


 それは……


「あ、真琴、また松平先輩のこと見てるなぁ~?」


 となりで同じく体育座りをする黒ジャージの少女が、その無邪気な顔にイヤラしい笑みを浮かべながらそう尋ねた。


 セミロングの髪に、堂々と出したオデコが溌剌として見える彼女は佐々木民恵ささきたみえ


 真琴の中学時代からの親友にして、この部に誘った張本人である。


「……えっ! ち、ち、違うよ! べ、別に先輩のことだけを見てたわけじゃ…」


 突然の民恵の言葉に、真琴は思わず顔を赤らめると慌てて首を左右に振った。


「誰が見たってバレバレだって。もう、そんなに好きなら、いい加減、告っちゃえば?」


「で、できるわけないじゃない! な、何言ってるの、もう…」


「松平先輩、そうとうな剣道バカで痛いくらいの時代劇ヲタだけど、その点を除けば普通にカッコイイし、けっこう狙ってる子も多いんだからね。密かに思いを寄せる純情乙女も確かに萌えるけど、おちおちしてると誰かに先越されちゃうぞお~?」


 ますます顔を真っ赤にして慌てふためく真琴を、民恵はなおもイヤラしい目つきでおもしろそうに眺める。


「そんなこと言われたってぇ……フられるのは目に見えてるし……そうなったら嫌だし……」


「んなの言ってみなくちゃわからないじゃん。ここは一つ、玉砕する覚悟で!」


「ぎょ、玉砕なんてもっと嫌だよう! ……ううん。結果は決まってるんだから、そんな覚悟も必要ないよ……」


 俯き、もごもごと口籠るネガティブな真琴を民恵はいつものように後押ししてみるが、彼女は不意に表情を曇らすと、どこか物憂げな笑みを湛えて、再び部員達の方へ視線を向けた。


「ダメだよ。ぜったい……カワイイわけじゃないし、これと言って取柄があるわけでもないし、きっと先輩、あたしなんか相手にしてくれないよ。そんな目に見えた玉砕するより、あたしはこのまま同じ部の後輩として、先輩のことを近くで見守っていられればそれでいいんだぁ……」


「真琴……ハァ…ったく、近年まれに見る天然記念物級の恋する純情少女なんだからぁ……」


「よーし! やめーいっ!」


 民恵が深い溜息を吐くのと同時に、道場内にはよく通る大音声が響き渡る。稽古を止めるよう指示する部長――即ち真琴が恋する件の相手、松平の声である。


 その掛け声を聞くや一瞬にして竹刀の上げていたけたたましい騒音は鳴り止み、辺りはピンと張りつめた、風のない湖面のような静寂に支配される……そのわずか後、お互い中段に構え直し、礼をして後に下がった部員達は、それぞれの定められた位置に正座して一斉に重たいを外した。


「フゥ……」


 部長の松平も道場正面の一番前に正座し、自身を守ってくれる対価として、その身を窮屈に拘束していた面を取り去る。


 すると、中からは汗ばんだ顔を上気させ、一息、大きく息を吐き出す精悍な少年の顔が現れた。


「………………」


 やはり道場の片隅に座したまま、真琴はじっと、そのなかなかに男前な先輩の顔を瞬きもせずに見つめている。


 彼女が一つ上の先輩である松平貴守まつだいらたかもりを好きになったのは、いったい、いつの頃からのことだったのだろう……?


 改めて問われると、いつからだったのか? 正確なことは憶えていない。


 また、なぜ好きになったのか? という理由についても自分自身よくわかっていなかったりする。


 初めて出会ったのは一年前……この日新高校に入学して、民恵の誘いでなんとなく剣道部のマネージャーになった時だ。


 でも、その時の松平は真琴にとって、ただの部の先輩の一人にすぎなかった。確かに松平は甘いマスクだし、剣道の腕も県大会で二位になる程の腕前である。


 それに現在、部長の大役を任されていることからもわかるように、けっこう頼りがいのある男らしい人柄だったりもする。


 しかし、だからと言って、それが彼を好きになった理由かと問われれば、そういうわけでもないような気がする。


 彼の顔が真琴の好みのタイプというのでもなかったし、無論、真琴が剣道好きというわけでもない。おまけに趣味趣向の面に至っては、ヲタはヲタでも時代劇ヲタという、アニメやアイドルのヲタも霞むレアな存在であり、凡人の真琴とは重なるどころか、かする隙すらもない。


 なぜだかよくわからないが、気付いたら好きになっていた……それが、恐らくは正確なところなのであろう。


 まあ、〝恋〟なんてものは、きっとそんなものなんだろうと真琴は思う。


「では、今日の練習はこれまで。全員、黙想!」


 部員達が落ち着いたところで再び松平が声をかけると、全員、居住まいを正し、手を下腹の前で組んで静かに目を瞑る。


 それを見て、真琴と民恵も慌てて正坐をすると、皆と同じように瞳を閉じた。


 ……だが、となりで真剣に目を瞑る民恵に対し、真琴はこっそりと瞼を開け、穏やかな顔で瞑想する松平の方に再度、視線を向ける。


 恋とは不思議なものである……こうして、ただ好きな人の顔を見ているだけで、なんだかとても幸せな気分になってくる。


 それに「恋は人を変える」とよく言うが、確かに真琴も少し変わった。


 最初はただなんとなく「みんな何かしら部活をしているから」という極めて消極的な理由と、あとは強引な友人の民恵に誘われるがままに、なんの目的も持たずに参加していたこの剣道部であるが、最近では放課後ここへ来ることがなんだかとても楽しみになってきている。


 いや、それどころか、毎日同じことを繰り返し、なんのおもしろみも感じることのなかった無気力な高校生活が、松平に恋心を抱くようになって以来、どこか輝いて見えるようにもなっているのだ。

 

 恋とは、そんな楽しいものなのである。


 …………でも、これ以上、どうすることもできないし……。


 松平を見つめる真琴の顔に、不意に暗い表情が浮かぶ……そう。恋とはまた、苦しいものでもあるのだ。


 民ちゃんにはああ言ったけど、あたしだってほんとは先輩ともっと親しくなりたい……二人で並んで歩いたり、もっとたくさんおしゃべりなんかもしてみたい……でも、こんななんの取柄もないあたしじゃ、きっと先輩も迷惑するだろうな……こんなあたしに好きだなんて言われたって……。


「やめーい!」


 真琴がそうして憂鬱な感情に苛まれていると、松平がまた号令をかけ、全員が一斉に黙想をやめて両の目を開く。


 その凛とした声に、真琴も少し驚いた顔で背筋を伸ばすと、となりの民恵や他の者同様、自分も真面目に黙想していたかのような振りをしてみせた。


「礼!」


「ありがとーございましたー!」


 続けて松平が正面を向いて頭を下げ、部員達も挨拶をしながら一同にお辞儀をする。


「………………」


 同じく頭を下げる真琴と民恵であったが、その後、顔を上げた真琴の瞳には、どこか淋しげな憂いともに松平の姿がしばし映っていた――。




「――お疲れさまでしたーっ!」


 部活を終え、男女それぞれの部室で道着から制服に着替えると、剣道部員達は互いに挨拶を交わし、それぞれに家路へとついて行く。


「先輩、お疲れさまでしたあ!」


 同じく部のジャージから日新高指定の濃紺セーラー服姿になった真琴と民恵の二人も、傾きかけた西日を浴びて、鮮やかな橙色に染まる校門の前で松平達と挨拶を交わす。


「ああ、お疲れ!」


 どこか旧日本海軍の軍服を思わす紺の詰襟制服に身を包んだ松平は、同じ剣道部の同輩・堀田正志ほったまさしとともにいつもの爽やかな笑顔で真琴達に挨拶を返す。


「はぁ~……」


 その笑顔を見る度に、真琴の心には何か温かいものが湧き上がり、自然と自身の顔にも笑みが零れてくるのだ。


「ふう…腹減ったな。何か食ってくか? かけそばとか、とろろ飯とか」


「松平、そこは普通、ハンバーガーとか中華まんとかだろ?」


 ……だが、だからと言って、それ以上会話が弾むわけでもない。家路を急ぐ松平は同輩達とともにそのままあっさりと前を向き、さっさと歩いて行ってしまう。


 普段、親しく挨拶を交わしたり、毎日のように話したりはするが、それはあくまでも同じ部の先輩と後輩、もしくは選手とマネージャーの間柄でのことである。今の真琴と松平との関係はそれ以上でもないし、それ以下でもない。


「………………」


 そう思うと不意にまた、悲しいような、淋しいような、どうにも言い表すことのできない苦しさが真琴の胸に込み上げてくるのだった。


「なあ、そう言えば来週、おまえの誕生日だったよな?」


 そんな時、松平と堀田のかわす何気ない会話が、後ろにいる真琴達の耳にも入ってくる。


「ああ、そうだけど……あ、もしかして何かくれるのか?」


 堀田の質問に、松平は顔色を明るくすると淡い期待を込めて尋ね返す。


「ま、腐れ縁のよしみだ。粗品ぐらいのもんならプレゼントしてやるよ。何が欲しい?」


 ちょっと偉そうに堀田が胸を張ってそう答えると、松平は腕を組み、天を仰ぎながらしばし考え込む。


「うーん……そうだなあ? 今欲しいと言えば、日本刀かな?」


「ああ、日本刀か。そんじゃ、そのご希望に沿って日本刀を誕生日プレゼントに……って、ぜんぜん粗品じゃねーじゃん! 買えるかっ! んな高価な代物!」


 さらっと答える松平のアバンギャルドな発言に、堀田はノリよく一人ボケツッコミをする。彼らは真琴と民恵の関係に同じく、そんな親友の仲なのだ。


「いや、別に真剣じゃなくて摸造刀でもいいんだ。その内、居合の方も始めてみようかなって思っててさ。それに剣道のかた練習するのも木刀よりそっちの方がよりリアルでいいしさ」


「なるほどな。さすが剣道バカなおまえだけのことはあるプレゼントの要望だ。けど、摸造刀だってけっこう高いぜ? 特に居合の練習に使えるようなしっかりした頑丈な造りのやつは」


「まあ、そうだろうな。でも、別にそれを買ってくれなんて言うつもりはないよ。今欲しい物は何かと訊かれたから、ただ正直に一番欲しいものを答えただけの話さ。そうだなあ……それじゃ、プレゼントには日本刀の手入れに使う打粉うちこがいいかな? ほら、あのポンポンって刃に付ける白い粉だ」


 松平はそう言いながら、右手で刀を持ち、その架空の刃に左手で粉を打つようなエアお手入れ・・・・・・の仕草をしてみせる。


「またマニアックな物を……いや、その前に今年は受検もあるんだから、そういう趣味は大学受かって、時間にゆとりができてからにしろよ」

 

 同じく剣道部員で彼の親友であるとは言えど、その世間一般とはだいぶかけ離れた松平の要望を聞き、堀田も少々呆れ気味である。


「フフン。堀田君、わかっていないねえ。この剣術と日本文化に対する我が飽くなき探求心を」

 

 だが、そんな親友の反応も気にせず、松平は胸を張って鼻を鳴らすと、なぜだか得意げにそう嘯いてみせる。


「はいはい。左様ですか。そんな飽くなき探究心の欠片もない、ごくごくフツーなしがない一般人ですみませんでしたねえ――」




「……そっか。松平先輩の誕生日ってもうすぐなんだあ」


 夕日に細長い影を二本引きながら、ますます呆れ顔の堀田とともに松平が遥か向こうへ遠ざかって行くと、なんとなく彼らの会話に聞き入っていた民恵がぽつりと呟く。


「うん。確か四月二九日とか言ってたかなあ……」


 その呟きに、憂いを秘めた瞳で松平の背中を見送る真琴は、そうしたごく一部の者でしか知りえない個人情報を何の気なしに思わず口走ってしまう。


「お! さすが恋する乙女はちゃんと押さえるとこ押さえてるねえ~」


 そんな、あからさまに恋煩いしている純情少女なディア・マイ・フレンドに、民恵はいつものイヤラしい眼差しをセクハラおやじのように向け、ワイドショー好きのおばちゃんが冷やかすように言った。


「も、もう! 民ちゃん、からかうのはやめてよ! た、ただ、前に偶然、先輩達が話してるの聞いただけなんだから!」


「それでも、ちゃんと忘れずに憶えてるってのが恋の力のなせる技なんだよ。普通、好きでもない相手の誕生日なんかぜったい憶えてないって……んで、どうすんの?」


 いつもの如く顔を真っ赤にして慌てふためく真琴だが、民恵はそれを無視すると、この機を逃すまいとさらにたたみかける。


「え? どうするって?」


「だから、松平先輩の誕生日だよ。もちろん何かプレゼントするんでしょ?」


「え? あ、あたしが?」


 民恵の思わぬ言葉……といっても、思わなかったのは真琴本人だけなのだろうが、その予想外の問いに彼女は驚きの声を上げる。


「あったり前でしょう! 他の誰があげるっていうのよ? これはチャンスだよ! チャ・ン・ス! かのクリスマス、バレンタインと並ぶ逃しちゃならない世界三大チャンスの一つだよ! 何か先輩が気に入るような良さげなものをプレゼントして、一気に先輩との距離を縮めるんだよ!」


「あ、あたしなんかがプレゼントしたってどうせダメだよ。きっと、先輩、受け取ってなんかくれないよ……」


 奥手な彼女を諭し導こうと熱く語る民恵だが、やはりいつものことながら、真琴はひどく後ろ向きな態度を示す。


「ま~た、真琴の〝どうせ〟が始まった。あんたのそういう超ネガティブ・シンキングよくないよ? 人生なんだってやってみなきゃ、どうなるかなんてわからないんだから」


「そんなこと言ったってえ~……あたし、ほんと自分に自信が持てないんだよう……」


 強い口調でお説教をするやや怒り気味な民恵に、真琴は今にも泣きそうな顔をしてなおも弱音を吐いてみせる。


「とにかく! こんなチャンス滅多にないんだから、何がなんでもプレゼントするんだよ!? 松平先輩、趣味はちょっとアレだけど、基本いい人なんだから。真琴からのプレゼントなら、ぜったいによろこんでくれるって。それに真琴が思っているほど、真琴はそんな魅力なくなんかないし、けっこうカワイイんだからね!」


「ううう、でもぉ~…」


「でもじゃない!」


「だってぇ……」


「だってでもない!」


 それでもなお、ぐちぐちと言い訳を続ける真琴に取り付く島もなく、鬼教官のように民恵はぴしゃりと言い聞かせるのだった。

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