第5話 踊る記号と図書館

 休み時間になっても黙々と問題集を説いている僕を見て、クラスの誰かが何か言っているのが聞こえてくる。


「あいつ、昔から人付き合い悪かったけど、愛ちゃんがいなくなってからは、ますます変になってるよね」

「でも、昔はこんなガリ勉じゃなかった気がするけど?」

「だよな。昔は、もっと違う形で自分の世界にこもっているのを、何故か愛さんがわざわざ遊びに来る感じだった」

「愛ちゃんは、こんな奴の何に惹かれていたのかな。何もなければ、今頃は俺の愛になっていたはずなのに」


 正直、気楽でいいよな、と僕は思う。

 誰かが死んでも、その時ばかりはこれ見よがしに悲しんで見せるくせに、ほんの数時間もたたないうちに、すぐに自分たちの世界に戻っていってしまう。


 よくそんなに簡単に、自分の世界に戻れるよな、と思う。

 一つの人格は、一つの世界だ。そして、それは、自分の世界の一部でもある。


 一度心に空いた穴は、埋めることはできない。その場しのぎで何かを代わりに詰め込んでも、やがてその穴が底なしであることに気付くだけ。


 人は、開いてしまった穴を受け入れて、それも自分と認めながら生きていくべきだろう。


 その上で、再び穴の上に何を建てられるか、考えていくべきものなのだろう。


 だが、多くの人は、そんな穴があったということ自体を忘れて生きていく。そして、自分自身がいつかその穴を開ける存在になるということすらも。


 気楽なものである。


 それでも、僕には、そんな生き方はできない。


 少なくとも、愛を失ってしまってからは、もう、そんな世界には戻れない。


 だから、学ぶ。学び続ける。知性の力を手にして、いつかあの子を再びよみがえらせるために。


 あの子が残した穴を、忘れないために。


 ダメだ。今は、あの子のことも考えすぎてはいけない時だ。


 メリハリが必要だ。問題集を解かなくては。


 積分記号のインテグラル。引き延ばされたS。区分求積法のシグマとも関連性の深いS。そのSが、踊りだす。


 分かるというのは美しいことだ。しかし、その美しさは、新たな分らないことという混沌を孕んだ、危ういものだ。


 インテグラルとのダンスが、僕のノートを数式で埋めていく。僕の字は汚いのに、その痕跡は、美しい。


 しかし、知性の美しさは、愛の美しさには敵わない。まだ、その美しさが、愛を蘇らせるためには足りないことが感じられる。


 問題を、解かなくては。一問でも多く。帝都大学に入るために。


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 放課後。希望進路の変更を先生に伝えた僕は、先生から説教されていた。


「おい、想。帝都大学を目指すというのがどういうことなのか、分かっているのか?うちの学校で一番頭のいい子たちでも、綱渡りの勝負なんだぞ?

 言っちゃ悪いが、この時期でワンランク下の私学でも模試でE判定の想には、正直絶望的な世界だ。それでも、お前はやるというのか?」

「私には、知識が必要なんです。夢を叶えるために。それこそ、先生が仰っていたように、愛の分まで生きるために」


 こんな優等生的なセリフを口にして、僕は正直虫唾が走る思いがしたが、先生はいたく胸を打たれたようだった。


「そうか。そこまで言うのなら、先生は全力で想をサポートする。分からないことがあったら、いつでも聞きに来てくれ」

「では、今後は遠慮なくそうさせていただきます。今日のところは、これから図書館で集中的に問題集に取り組みたいので、これで失礼いたします」


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 図書館というのはしかし、生半可なインターネット接続がある環境なんかよりも、よほど僕を誘惑する環境だと気付いた。


 様々な分野の先人の知見、高校の学習範囲や受験勉強の範囲など越えた知見が、僕を見つめている。


 こっちにおいでよとばかりに、背表紙のラベルが主張してくる。


 つい引き込まれそうになる。そして、僕はまだ何も知らないのだ、という焦燥感に駆られる。


 中々問題集に手がつかない。気付いたら、それらの本を手にとっていて、しかし読んではいけない、勉強に戻らなくてはいけない、という意識につられて、内容が頭に入ってこない。


 今日中に20ページは進めるつもりだったのに、結局13ページしか進まなかった。


 図書館は、僕にとっては、あまりにも魅力的過ぎた。


 どこかに、机と椅子だけしか置かれていない、何もない瞑想部屋とか、ないのかな。

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