受験勉強の日々
第4話 火の点いた想
翌日、学校に行くと、どこからか話が既に広まっていたらしく、誰も敢えて僕に声をかけようとはしなかった。
無理もない。
僕だってそういう相手を見たとき、どんな声をかければいいかは、分からないからね。
でも、それだけじゃないだろう。
元々僕は、愛以外の生徒とは、特に深い付き合いではなかったから、そして、愛は学年の中心的存在で、クラスを越えて人気者だったから、というのも大きな理由のはずだ。
要するに、僕の悲しみを共有にするには微妙に足りないが、自分自身のことで手一杯になるぐらいには悲しい気持ちが、彼らを満たしていたのだろう。
だが、話しかけてくれないことは、ある意味では幸せなことだった。
僕は、席に着くと、おもむろにバッグから問題集とノートを取り出して、睨めっこを始めた。
周りがざわつく。
「アイツ、とうとうおかしくなっちまったんじゃないか?」
「サイテーね。今日ぐらい、勉強を休んで悲しむのが、仮にも彼氏だった男のするべきでしょうに」
「ママンが死んだら、映画を見に行って、アラビア人を撃ち殺したある男もそんな感じだったね。要するに、理解の向こう側に行ってしまったのだろう」
「お前はいつも意味不明なことを言うんだな。だが、お前といい勝負だぜ、あれは」
「フン、彼女だったらこれがカミュの『異邦人』を下敷きにした発言だと気付いただろうさ。彼女なら…」
理系の癖に、普段から無駄に文学素養をひけらかすガリ勉の男が、そう言ってすすり泣き始めた。
そういえば、彼は愛に片想いしていて、一度告白して振られたんだったな。
まあ、彼なりに悲しい気分なのは分からなくもない。
だが、今はやめて欲しかった。
「うぅ…愛ちゃん、どうしてよ」
「お、俺の青春を返せ!」
「べ、別に俺はあいつのこと好きなんかじゃなかったのに、何故か目から汗が止まらないぜ…」
口々に奇妙奇天烈なセリフを言いながら、涙が伝染していった。
言わんこっちゃない。ギリギリまで場を満たした悲しみにとっては、たった一滴の涙でも、爆発物になる。
だから、やめて欲しかったのに。
僕はその声を聞きたくなくて、うつむきながら問題集のページをめくった。
泣いても仕方がない。彼女を蘇らせるために、できることをやらなくては。
だから、やめて欲しかった。涙は、煩わしい。何よりも、つられてしまいそうになる。
でも、グッとこらえて、僕は、問題集に取り組む。
キーンコーン、カーンコーン。
鐘が鳴り、教室に、先生が入って来る。
「おはよう。今日は、みんなに大切なことを伝えなければならない。
この雰囲気だったらもう知っているのかもしれないけど、昨夜、文系1組の一心愛さんが、交通事故に巻き込まれて亡くなった。
愛さんは学年トップクラスの成績で、先生たちとしてもその将来には大きく期待していただけに、残念でならない。
みんなは、亡くなった愛さんのことを忘れず、彼女の分まで、しっかり生きること。
それが、みんなにできるたった一つの供養だ」
違う。人生は一人に対し一人分だ。
誰も、他人の人生まで生きることはできない。
本当に必要なのは、愛の分まで生きようと虚しく努力することではない。
愛を、もう一度取り戻す。そうして、愛自身に愛の分の人生をもう一度生き直してもらうことだ。
だが、それを口にすれば、僕は即刻マッドサイエンティスト扱いになることぐらいはわきまえている。
結局、今の日本では、先生の言うきれいごと、あるいは、願望が正論扱いされるのだ。
やり場のない気持ちを感じながら、僕は、授業に入った先生の話は聞き流し、黙々と問題集を解き続けることとした。
帝都大学の入試では、内申は飾りでしかないから、最低限の点数さえとれば、後は受験勉強に専念した方がいいと判断してのことだ。
もちろん、最低点への近道が結局受験勉強だから、というのもなくはない。
しかし、いずれにせよ、今の僕に必要なのは、知識であった。
知は力なり、とフランシス・ベーコンはかつて言ったらしい。
だが、実際には、その力を生かすための予算も必要であり、ただ知っているだけでは、力になるとは必ずしも限らない。
だから僕は、予算も入り知識も入る国内最高の環境を求めて、帝都大学を目指すのに必要な学力を急造することにしたのだ。
全ては、愛をもう一度再現するために。
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