第6話 美しき知恵、なお美しき愛

 分かるというのは美しいことだと、この頃つくづく思う。


 断片的な言葉がピピンとつながるとき、そして一つの生き物のように僕の中でうごめきだす時の快感。


 知識は、断片では死んだ博物館の標本と変わらない。

 テストでは、それでもある程度の点数が取れるが、死んだ知識は、生きた知識よりも簡単に頭から抜けてしまう。


 その知識を生かすのは、僕の生ける脳である。


 そして、そうして生きた形に変化していく知識は、知恵と呼ばれるステージへと昇格する。


 知恵は、美しい。


 エレガントな数式が世界を記述するとき、世界のことが流れとなって僕の前に立ち現れるとき、これまで読めなかった行間が、文章にされることのなかった言葉が、受験用に切り出された文章の断片を埋めていくとき。


 美しい。これが、愛の見ていた世界なのだろうと思うと、感動のあまり、少しばかり涙がにじみそうにもなる。


「ああ、何て美しいんだ…」


 教室の中で、問題集を説きながら、つい僕はつぶやいてしまった。


「やべえな、あいつ」


 そんな声がする。野暮な奴らめ。


 愛のことなんか忘れて、死んだ人のことは置き去りにして、好き放題に生き、結局は何も知ることができずに滅びていく奴らめ。


 だが、僕はそんな彼らを憎むこともしない。感じ取ることのできる者だけが感じ取れる、知恵の美しさ。

 その片鱗に触れられただけで、僕は大いなる喜びを感じているからだ。


 知恵の女神ミネルヴァが、美の女神ヴィーナスと黄金の林檎をめぐって争うことができたのは、伊達ではない。


 彼女は、確かに美しかったはずなのだ。嫉妬でドロドロに狂うジュノーとは異なり。


 だが、それでもパリスは、ヴィーナスに勝利の判定を下す。


 知識は、故に知恵も、結局この世界の上に成り立っている。本当に美しいのは、この世界そのものなのだ。


 だから、世界の美を体現するヴィーナスに、世界への愛を通じて世界の美へと我々を導くヴィーナスに、ミネルヴァは破れてしまう。


 僅差ながら、しかし、決して超えられない差によって。


「そして、僕は、限りなくミネルヴァに近づかなければならない。愛の女神、美の女神に…」


 そのためには、まだまだ足りない。


 そう思うと、美しく踊る知恵の文字を、更に踊らせることができるようになる。


 テスト?それは、どうにかなるだろう。


 僕が再現を目指す女性、愛。彼女が感じ取っていたはずの世界に、少しずつでも近づいているはずなのだから。


 だが、帝都大学に至るためには、これでもまだ足りないかもしれない。


 あの愛ですら、お遊びで受けた帝大模試での判定は、Cだったのを覚えている。


 愛を再現するために、僕は愛のことを内面化しつつ、その存在をも越えなければならない。


 世界そのものを創り出した神が、実在するのかは分からない。


 仮に実在したとしても、神を創る存在、そしてそのまた存在を創る存在、と遡った時には、やがて神なき世界にたどり着くであろう。


 しかし、その神ですらない僕は、せいぜい知恵によって、世界に近付くことしかできない。世界を感じ取っても、それを知恵に変換しなおして捉えなければ、その世界は零れ落ちてしまう。


 だから、僕は、学ばなければならない。受験を越えた世界まで急いで飛び立ちたいが、今はぐっと手綱を引き絞って、まずは研究できる場所、帝都大学に入らなければならない。


 そのために、僕はひたすら問題を解く。


 正解が分かっていない世界に対しても戦い、抱擁することのできる武器を手にするために。


----


「おい、想、内職しているんじゃないぞ。この問題、答えてみろ」


 気付いたら、授業中になっていたらしい。


 愛の美しさを夢想していたころによく似ている。


 美しさは、時間を忘れさせる。


 クラスメート達が、意地の悪いニヤついた顔を浮かべているのが、目に入る。


 問題は、簡単な文章の英訳だった。


 Knowing that he was a great person, I decided to support him as long as he lives.


「ノーイング・ザット・ヒー・ワズ・ア・グレート・パーソン、アイ・ディサイディド・トゥー・サポート・ヒム・アズ・ロング・アズ・ヒー・リヴズ」


 この方面ばかりは、愛には敵いそうにない。帰国子女の彼女が話していた流暢なブリティッシュ・イングリッシュを思い出すと、ちょっとだけ、悔しいや。


 だが、クラスメートと先生の目を丸くさせるには、十分だったらしい。


 そういえば、僕は、愛のいたころは、こんな簡単な分詞構文の作文すらままならなかったんだっけ。


 先生は、数瞬置いてから、言う。


「正解だ。

 『彼が生きている限り』の部分を現在の事実として捉えたのは、中々優れた解釈だと思う。尤も、彼が既にいない場合や、生きているか不明な場合を想定して、時制を一致させた過去形にしても問題はない。

 この問題は、そのような両義的な解釈が可能であるから、受験英語の出題としてはあまりよろしくないのだがね。では、次に行くとしよう…」


 僕の知識は、確かに増えているようだ。まだまだ足りないと分かるばかりにせよ。

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