第16話 想に惹かれる結

 フレンチを食べ終わった後、四限の数学の講義をただ一人最前列で聞いている想を見て、私は、どうしても彼に惹かれてしまう自分がいることに改めて気づく。


 彼は知らないが、実は、私は合格発表の時に、既に彼を見ている。その時はまだ私と同点首席であることなどは知らなかったが、余裕を持って受かる力がありそうなのに、受かったことに対して感慨深げで、しかも、どこか寂しげな彼は、妙に印象的だった。


 まさか、その彼と一緒になるとは思わなかったので、クラスメンバーが発表されたときに彼と出会ったとき、そして、彼と私が同点首席だと聞かされた時は、まるで夢でも見ているかのような不思議な気分になった。


 入学式の日も、独りクラスコンパへの参加を望まず、桜を眺めて寂しげにしていた彼を見て、私は、どこか自分自身に似たものを感じた。


 結果として声をかけて、私達は、多分友情のようなものを結ぶに至ったのだけど、気付いたら、私の求めているものは、友情以上になっている気がした。


 今日の昼食の場として、わざわざ学内のフレンチを選んだのも、それが理由だ。

 都会出身の私達は、別に付き合っていなくても男女二人でお食事にぐらいは行く。だが、女性が男性を誘う場合、たとえ今はまだ恋愛対象とは言い切れないにしても、そこには潜在的な可能性があるのだ。


 誘ったはいいけど、私は、何を話したらよいか、食事の終わりまで殆ど分からなかった。

 三つあるコースのうち、デザート付きのものでは最も安い真ん中のコースを、それだけの理由で、メニューの意味も分からずに選んだ私に、想は応じてくれた。

 だが、いざ出された料理の話をしようにも、元カレとのデートはせいぜいが庶民的なチェーンのイタリアンレストランどまり。

 家庭科で少しだけテーブルマナーを学んだことがあったとはいえ、本格的にフレンチのコースを味わうのは、これが初めてであった。


 それだけに、料理の話をしようにも、よく分からない。想は想であまり慣れていないらしく、私に気を使いながら、スマホで何やら調べているのが目に入る。


 このままでは、フレンチに誘った意味がないと思った私は、最後の紅茶の時間になって、ともかくがむしゃらに色々話して、何とか想といくつかの約束を取り付けることができた。


 ここがフレンチじゃなかったら、ガッツポーズしてはしゃぎまわりたいぐらいの気分になった。

 だが、それでよかったのかは、正直今でもよく分からない。

 喜びを一通り噛み締めていたら、孤高の彼を、入試の得点こそ同じながら、孤高では生きていけない私が引きずりおろしに行っている気がして、不安になったからである。


 その、何とも言えない気分のまま、私達はレストランを出て、それぞれ四限までの時間を別個に図書館でつぶした。

 学習机の空きが限られていたので、私はここでいったん想と別れた。

 最先端のロボット工学、特にヒューマノイド工学に関する本を読み漁っていると、やっぱりどこか寂しい影を漂わせている想のことがふと頭に浮かんで、胸が締め付けられるような気がした。


 何故だかは、分からなかった。


 そして今、最前列に一人座る想を見て、私のその気分は、ますます高まるのだった。


 私が知っている恋愛とは異なる、切なく、儚く、そして危うくすらあるときめき。


 想、私は、あなたの何にこんなに惹かれているのかしら?


「えー、そこで、f(x)のx=aにおける極限Lは、任意の正のεに対し、ある正のδが存在し、x-aの絶対値がδ未満のとなる全てのxで、f(x)-Lの絶対値がε未満になる、という条件を満たすε・δを用いて定義することができます。

 すなわち、まあ板書すると」


 タ、タッ、トン、トン。


『∀ε>0(∃δ>0(∀x(|x-a|<δ⇒|f(x)-L|<ε)))』


「ここで、このAを逆向きにしたものは全称記号、全てのを意味し、Eを逆向きにしたものは存在記号、何かがあることを意味します。

 一説には、全称記号はAllのA、存在記号はExistのEを逆向きにしたものだとも言われているのですが、この説に基づいて覚えるとその意味は覚えやすいでしょう」


 高校時代に触りだけ触れた、所謂イプシロン・デルタ論法の話ね。


 想は、猛烈なスピードで板書する教授よりも恐らくは更に猛烈なスピードで、板書のみならず、何かプラスアルファの内容を書き込んでいるように見える。


 負けていられないわね。


 私は、ある理由があって、限りなく人間に近いロボットを作りたいと思っている。分野こそAIで違うけど、人間に近い存在を生み出すという意味では目標が同じ想だからこそ、私は、彼には負けていられない。


 そう思うと、私も、不思議と板書の速さが気にならなくなった。


 数式が、一時的に想への迷いを追い払って、私の心地を良くしてくれる。

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A.I.、あるいは、愛 如空 @joku_novel

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