Scene41 新しい世界
❶
「ただいま新下関駅を通過中」というLEDの白い文字が、電光掲示板の中を流れていく。いよいよ本州ともお別れだ。
夕薫は相変わらず窓に身体を傾けたまま動かない。
僕は自分のスマホに目を落とす。
すると、伊勢神宮に関する新着情報が入っていることに気づく。さっき姫路で確認した記事の続きのようだ。それにしても、どうして今、この記事だけが執拗に入ってくるのだろうと不思議に感じる。世間が伊勢神宮の話題で盛り上がっているなんて聞いたことがない。とりあえず記事を開いてみることにする。
伊勢神宮に仕える
斎宮の候補に選ばれた女性は、
伊勢に到着した斎宮は、新たな天皇の在位中、神に仕え、様々な
だが、都から遠く離れた伊勢での暮らしは寂しく、女性である斎宮は孤独と向き合うことになった。さらに、斎宮に仕える女官たちとなると寂しさはひとしおで、都に残してきた人を偲ぶ日々を送ることにもなった。
また、『源氏物語』の六条御息所のように、恋の苦悩から身を遠ざけるために、斎宮になった娘と共に伊勢に下るというエピソードも見られるなど、現地における女性たちの暮らしは、必ずしも神聖さの中に精神的平安を覚えるといったものではなかったようだ。
その六条御息所は、伊勢での任務を終えた後、都に戻ったものの表舞台に出ることなく静かに亡くなっていった。六条御息所と同じく、伊勢での生活が人生の中で大きな転機となった「名もなき女官」たちも実際にいたことが想像される。彼女たちの人生は決して記録されることはなかった。
現在、近鉄斎宮駅を下車すると、辺りにはきわめて静かな平野が広がり、15分ほど歩いたところに斎宮歴史博物館がある。館内は、斎宮や女官たちのつとめや暮らしぶりが実に細やかに肌で感じられるようになっており、まるで彼女たちの心の声が聞こえてくるようである。
なお、斎宮の制度は、後醍醐天皇の時代に廃絶した。
❷
この記事の内容が、すんなりと頭に入ってくるのはなぜだろう? 全く興味のない話ではない。野宮には実際に訪れたし、六条御息所の悲劇も真砂子から聞いてよく知っている。
だが、それ以上に、この記事を通じて、誰かから、何らかのメッセージを受け取ったような気がしてならない。その斎宮歴史博物館を今すぐ訪れたいとさえ思う。
どうして心が揺れるのか? その源泉をたどろうとすると、答えはかえって遠ざかってしまう。そうして、2枚貝がぱたりと閉じる音がして、すべてが暗闇の中へと消えていく。
「どうしたん?」
いつの間にか目を開けていた夕薫が横目で僕を見ながら言う。
「いや、いつか時間ができたら伊勢に行きたいなって思ってたんだ」
「は? どういうこと?」
「いや、伊勢神宮の記事が入ってきてね、それで、そう思ったんだよ」
夕薫は僕の話を気にすることもなく、嘆息を漏らす。
「なんか、いろいろと不思議なことばかり起きるなあ。これからまともに生きていけるんやろうか」
夕薫はそう言い、軽く目を閉じて背伸びをする。
「それより、よう寝とったな。もうすぐ本州ともお別れだぞ」
「いいや、全然寝てへん」
「じゃあ、何してたんだ?」
「考え事や」
夕薫は今度は目をぱちりと開け、肩の力を抜く。
「大丈夫か?」
「何が?」
「何がって、お前もいろいろあるんじゃないのか?」
夕薫は疲れた顔をしながらも平然と答える。
「そりゃうちだって、いろいろあるけど、父さんと山野先生ほどヤバいことにはなってへん」
「いやいやいや、父さんたちはヤバいわけじゃないから。それより、転勤に付き合わせてしまって、本当に、悪かったな」
「何言うとんよ。今さら。しゃあないやんか、うちはまだ、父さんがおらんと生きていけへんのやから」
❸
新幹線はひときわ暗くて深いトンネルに突入する。関門海峡の海底トンネルを通過しているのだ。夕薫は
「熊本でも、ええことあるかな?」
騒音を背景に夕薫は聞いてくる。
「あるに決まってるだろう」
「友だち、できるかなあ?」
「新しい学校は、すごく雰囲気良かったじゃないか。明るい子も多かったし。間違いなく気の合う友達がいるよ」
「でも、やっぱ、寂しいなあ……」
夕薫は完全な泣き顔を僕に見せる。小さなビーズ玉のような涙が立て続けにこぼれ落ちる。
「うち、姫路、好きやった。すっごい好きやった」
その声を聞き、7年間の姫路での生活が切ないくらいにはっきりと思い出され、あの時間はもう2度とは戻ってはこないのだという事実がたまらなく胸を締めつけた。気がつけば、僕も泣いている。この涙は昨日の涙ようにすぐに乾いたりはしない。
「姫路でのことは、絶対忘れられへん」
夕薫が声を振り絞った瞬間、騒音が消え、窓の外からは午後の陽光が差し込んでくる。ついに九州に入ったのだ。
建物の合間に見える海は、瀬戸内海よりも青色が濃い気がする。空の青さと協応しているかのようだ。南側ではなく北側に広がる海は島根と同じだ。
僕は外の情景を眺めながら、手で涙を拭く。
「ええ天気やなあ」
夕薫は涙で頬をキラキラさせながらそう漏らす。
「山野先生、ほんまにここまで来るつもりやろうか?」
夕薫は手を頬にあてがいながら言葉を続ける。
「もしほんまに山野先生が熊本に来てくれたら、それって、すごいことやな」
青すぎる空の色が、夕薫の背景に広がっている。
「うちも、がんばらなあかん。くよくよしとったらあかんわ」
新幹線は
窓に寄り添っている夕薫の隣で、僕は真砂子にメールをしようと思い立つ。スマホを手に取って、ふと考える。いったい何から書こうかと。起動前の黒い画面の上には、ずっと連絡を待っている真砂子の姿が浮かび上がる。
彼女は白い着物を着て、青白い瞳でこっちを見ている。
あれっ、と思い目をこすると、白い着物の女性は姿を消し、塾の名刺に載せられた真砂子が黒々とした瞳を向けている。
「よしっ」
僕がメールを打つ前に夕薫は力強い声を上げ、スマホをリュックにしまう。
( 了 )
前回シャットダウンした恋を今すぐ再起動します。よろしいですか? スリーアローズ @mr10
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