Scene40 夕薫の真実
❶
岡山を通過するまで、僕たちはひと言もしゃべっていない。
夕薫はいつのまにか瞳を閉じている。ポケットの中でスマホが何度も震えるが、確認もせず、シートを少しだけリクライニングして窓の方にいくぶんか身体を傾けている。
僕は車内販売で買ったホットコーヒーを飲みながら、姫路駅での出来事を思い起こす。ひょっとしてあれは時間の中から現れた幻だったのではないかとさえ感じられもする。僕にとっての、初めての
夕薫が目を覚ましたのは、広島駅に入る寸前、ちょうどマツダスタジアムの天然芝の緑が見えた時だった。だが夕薫は、窓の外の景色に注意を払いもせず、無表情のまま前を向き、おもむろにスマホを取り出し、画面に視線を落とす。かなりのメッセージが入っているはずだ。
夕薫はそれらを目でなぞった後、うんざりした顔でため息をつき、前席に付いテーブルを引き出して、その上にスマホを置く。それから姫路駅の売店で買ったすこんぶの袋を空けて2、3枚を口に放り込み、眉間にしわを寄せたまま、再び瞳を閉じる。
山口県に入って石油化学プラントが窓の外に迫ってきた時、夕薫は再び目を開けて、すこんぶを口に入れる。真砂子のことについて少し話しておこうかと迷っていると、夕薫の方から口を開く。
「お父さん、幸せ
僕は夕薫の横顔を見る。
「うちにみたいな面倒臭い
「すべては、お前のおかげだよ」
夕薫は首をかしげる。
「うちね、何となく、気づいとったんやで。だって、明石に行った時に2人にしか分からん話をしとったし、寿司屋でお母さんと会った後、山野先生から連絡がなかったことを、父さん、異様に気にしとったしな」
夕薫はシートにもたれたまま述懐する。冬の終わりの陽光がガラス片のように差し込んでくる。
「でもな、うち、お母さんは好きなんや。好きやからこそ、あんなことされて、ムカついとるんや。でも、いくら恨んだところで、お母さんはうちらのとこには絶対に帰って来えへん。こないだ、はっきり分かったわ」
夕薫が口を開くたびに、すこんぶの香りが立ちこめる。
「すまんな。父さんも悪いんだ」
「この件に関しては、100%お母さんが悪いな」
夕薫の瞳には涙が見える。悔し涙だ。
「さっき山野先生の話を聞いて、悪い気はせえへんかったで」
「ありがとう」
「でも、さすがに、もう少し待ってほしいなあ。うちの心の準備が全然できてへんし。まだ、夢みたいやし」
「分かってるよ。でも、もし先生が本当に熊本に来たいって言ったら?」
「それは、山野先生の自由やとは思う」
「夕薫」
僕は無意識に言う。
「もし困ったことがあったら、何でも言ってくれ。これまで散々つらい思いをさせてきた分、父さん何でもするから」
夕薫はありがた迷惑のように僕の方を見て、口の両端を吊り上げる。
「とにかく、今は熊本の生活に慣れたい。学校も変わるし、勉強とか、いろいろと不安なこともあるから。うちは父さんと違って、気持ちを切り替えたんや。姫路を離れるの、すっごいしんどかったけど、しかたがないって割り切った」
そう言いながら、下唇を震わせる。固く閉じたまぶたからは涙が絞り出される。
「過ぎたことを引きずるよりは、前を向いて歩いて行こうと思うとる。姫路の友だちはずっと大事にしたいけど、どっかでケリをつけんと。熊本で新しい友達作れるようにがんばりたいんや」
大きくなった涙の粒は、頬を伝い、ジャケットの襟元にまで浸みている。
❷
新山口駅を通過すると、海は見えなくなる。
夕薫はトイレに行くと言って立ち上がる。
1人になった僕は、窓の外に広がる平凡な田園に目を遣る。すると、テーブルに置かれた夕薫のスマホががたがたと震える。LINEの新着メッセージが入っているのだ。夕薫には悪いとは思いつつ、それが僕の目の届くところにあるものだから、思わず画面を覗くと、「しょうた」という人からたった今届いたばかりのメッセージが見える。
「オレは絶対に夕薫のことが忘れられへん。夕薫のことを思うと、マジ心配で死にそうになる……」
トップ画面のメッセージはそこで字数オーバーになっている。立て続けに「しょうた」から新着メッセージが入る。
「俺と別れたいという理由がわからへん。遠距離恋愛なんて、やってみんと分からんやんか。あれほど仲良かったのに、一緒に勉強も……」
「夕薫のおかげで姫路学院に合格したのに。別れるとか絶対にありえへん。高校に入ったらバイトして、熊本まで会いに行くことだってできるし……」
「オレは夕薫が好きや。心からそう言える。勉強して、夕薫と同じ大学に入る。俺は絶対待つからな……」
その時夕薫が戻って来る。僕は何事もなかったようにスマホから身体を遠ざける。夕薫はシートにもたれ、新しいすこんぶを口に入れた後でスマホに目を遣る。
さっきまで無表情に見えた夕薫の顔が、ほんの少しだけ憂いの色を帯びているのがわかる。
夕薫は返信をせずに、再び目を閉じる。そうしてさっきまでと同じく、身体を窓に向け、眠りに就く。だが、注意深く見ると、肩は小刻みに震えている。泣いているのだ。
しばらくして夕薫はぽつりとつぶやく。
「ええなあ、大人は。うちも早う、なりたいわ、大人に」
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