Scene39 再生と消滅
❶
新幹線の到着を告げるアナウンスがホームに響き渡る。夕薫はメールを送信した後、スマホをポケットにしまう。
「そろそろ、行くか」
乾ききった喉の奥から言葉を絞り出すと、夕薫はろうそくの火を吹き消すかのようなため息を吐き、大儀そうに立ち上がる。
「あ」
夕薫が口を開け、背筋をぴんと伸ばす。
「山野先生!!」
咄嗟に目を見開くと、白い着物を着た女が袖を振って走ってくる。
女は近づくにつれて姿を変え、ベージュのトレンチコートをなびかせた真砂子へと
だが、紛れもなく、真砂子だ。
「すみません、こんな時に」
真砂子は激しく息を切らし、僕たちの前に立つ。
「もう間に合わないかと思いました」
目には涙を浮かべている。
僕は喉元に綿を詰め込まれたかのように口を開けて直立する。目の前に起こっていることが現実なのかどうか、完全に見失っている。
真砂子は僕の様子に頓着することもなく、真っ先に夕薫を見つめる。
「夕薫ちゃん」
夕薫は何が起こったのか分からぬような表情で真砂子と向き合う。
「これまで黙っていたけど、私、お父さんのことがずっと好きだったの。高校生の時から、ずっと好きだった。お父さんは昔から全然変わっていない」
夕薫は
「夕薫ちゃんのおかげで、お父さんと再会できた。夢のようだった。私は、お父さんと夕薫ちゃんと3人で暮らすことができたらどれほど幸せだろうと思うようになったの」
「と、父さん、そのこと、知っとったん?」
夕薫は助けを求めるように僕を見る。僕は条件反射的に、「ごめん、知ってた」と答える。
「でもね、この間、明石のお寿司屋さんであなたのお母さんとばったり出くわした時、ああ、私、すごく悪いことしてるんだってものすごい自己嫌悪に陥ったの。もう、あなたたちには2度と近付くのはやめようって決心したのよ」
夕薫はきわめて真剣な目つきで真砂子を見つめている。
「あの日からひどい眩暈に悩まされてね、毎晩嫌な夢にうなされるようになったの。知らない誰かに首を絞められて、息ができなくなることもあった。私はこれまで多くの人を傷つけてきたから、その罰が当たったんだと思ったわ」
真砂子の額には大きな絆創膏が見える。
「それがね、この2、3日の間は、ぱったりなくなって、考え方も変わってきたの。昨日、電話で夕薫ちゃんの声を久しぶりに聞いた時、はっと目が覚めた。自分に素直に生きないと絶対に後悔するって、決心がついたの」
「せ、先生……」
「本当は、もう少し余裕を持って伝えたかったんだけど、さっき、アパートの階段でつまづいちゃって、転げ落ちたの。頭から血が出ちゃって、こんなにギリギリになってしまった。ごめんなさいね」
真砂子は息を呑み込むように整えながら、付け加える。
「私ね、できれば、熊本に行きたいって考えてるの」
「え――っ」
夕薫は目を大きくしながら、小さな声を出す。
「もちろん、来るなって言われれば、諦めなきゃいけないって思ってる。でも、私は、夕薫ちゃんとお父さんの近くで暮らしたいの」
真砂子の指先はぷるぷると震え、額の絆創膏には血がにじんでいる。
❷
客たちが次々と乗車口へと動き出す。新幹線の到着が近付いてきたのだ。僕たちは列の一番最後にはじき出される。
「先生、ひどいです」
夕薫は険しい目つきで言う。
真砂子は青ざめた表情を夕薫に向ける。
「そんなん、先生の勝手やないですか。いきなり今言われても、どうすることもできへんし。全部うちのせいにしようとしてるし。父さんだってそうやん、なんで言うてくれんかったん?」
「ごめんなさい」
真砂子は取り返しのつかないことをしたような表情になっている。僕もどう対処して良いのか分からず、とにかく沈黙を保つことしかできない。
「私は、お母さんは1人だけしかおらへんと思うとる。でも、お母さんには、うんざりさせられとる。あんなお母さんやったら、最初からおらんほうがえかったって本気で思う。でも、やっぱりお母さんは、お母さんなんや」
夕薫は頬を紅潮させながら僕に訴えてくる。
「先生と暮らすとか、そりゃ今は無理や。私、先生のことすごい尊敬しとるし、お父さんのことを好きでいてくれるっていうのも、ありがたいって思う。でも今は、もう、頭の中がぐちゃぐちゃで、何が何やら、分からんわ」
僕はただ、申し訳ない気持ちで夕薫を見つめることしかできない。オブジェにでもなってしまったかのようだ。
「とにかく気持ちの整理をつけさせて」
夕薫にはたちまち疲弊の色がにじみ出した。
「ごめんね、夕薫ちゃん。私は、どうすればいい?」
夕薫は唇を噛みしめて考えた後で、こう返答する。
「分かりません。そんなん、急に言われても、どうすればいいのか、分からへん。先生は結論を急ぎすぎてる」
「父さんも悪かったよ。どうしても言えなかったんだ。たしかに、お前の言うとおりだ。こんな大事なこと、すぐに決められるはずがないんだ」
真砂子は初めて僕の方を向き、頭を下げる。
「申し訳ありません。こんな一方的な行動に出てしまって」
「いいんだよ。すべてが君らしいし、それが人間だよ。眩暈に悩まされる不安も、つまずいた痛みも、俺の身にも起こったことだから、すごくよく分かるよ。それより、俺はうれしいよ」
夕薫は苦悩に満ちた表情を浮かべるばかりで何の反応もしない。
博多行きの「ひかり」の車体が定位置に停車する。周りの客たちは、僕たち3人をスルーして、さっさと乗車の準備に入る。
「また、連絡いただけるんですね?」
最後に真砂子は命乞いをするかのように言う。
「もちろんだ。必ず電話するよ」
そう答えた後、僕は夕薫と2人で車内に足を踏み入れる。真砂子は捨て猫のような瞳で僕を見ている。
まもなくして、僕たちの間に扉が閉まる。
真砂子の不安な瞳は、ゆっくりと左に流れ出し、あっという間に消滅する。
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