Scene38 正式な返答

 商店街を抜けて駅前に出たとき、風景は、目の前でフラッシュを焚かれたように、すべて真っ白になっている。

「まぶしいなあ」

 夕薫が空を見上げながら細い声を出す。何度かまばたきをすると、白い光の中から、姫路駅のビルがゆっくりと浮かび上がってくる。

 さっき足をつまずいたせいで左足の指先がジンジンしていて、その不意打ちのショックは脳にも達したらしく、頭までふらふらしている。

 夕薫はムーミンのシールが貼られた水色のキャリーケースを引きずって僕の前を歩いている。

「この景色とも、ついにお別れかあ」

 哀感のこもったその言葉を聞くと、カメラのピントがフォーカスされるように視界が戻ってくる。

 駅前のバスターミナルには次々とバスが入っては出て行くのが見える。いったい何度ここからバスに乗ったことだろう。いつでも来ることができると思っているうちはべつだん何にも感じないのに、遠くへ行ってしまうことを悟った瞬間、何気ない風景はたちまち名残惜しさの色をまとうようになる。


 そして僕は、このまま真砂子からも離れていく。


 それを思うと、地面に両膝を付いて大声で泣きたくなる。もし隣に夕薫がいなければ、ほんとうにそうしたかもしれない。すると、道行く人が足を止めて尋ねてくるだろう。大丈夫ですか、と。

 大丈夫だ。気が狂ったわけじゃない。ただ、たまらなくつらくなったのだ。だから、このままそっとしておいてほしい。

 僕は泣きながらそう答えるだろう。新幹線に乗りたくない、まだ姫路にいたい。そうして、もう一度真砂子に会って、彼女を抱きしめたい。

 道行く人はそんな僕をどうすることもできず、なすすべなく立ち去ってゆくだろう……

「どないしたん?」

 赤信号の横断歩道で足を止めた夕薫は、僕の方を向く。

「何か、忘れ物でもしたん?」

 僕ははっと我に返り、いいや、べつになんでもないよ、と答える。それからもう一度スマホを取り出す。画面には全く何の変化もない。依然として頭はジンジンしている。


 僕たちは黙って横断歩道を渡り、駅へと入る。

 京都に行った日、真砂子が出てきた駅舎の入口に夕薫と2人で足を踏み入れる。あの時、最初真砂子は中の待合で待ち、僕は外で待っていた。島根の水族館に行った日以来の、2人きりでの遠出で、興奮気味の僕は少し息苦しかった。真砂子はベージュのトレンチコートで身を包み、その下にはタートルネックのセーターを着ていた。ブーツの金具は陽光を反射させていた。

 その記憶をオーバーラップさせながら歩を進めるが、待合スペースには真砂子の姿は見当たらない。2人で缶コーヒーを買った売店の近くにも、出発フロアに上がるエスカレーターにも、どこにも真砂子の姿はない。

「ねえ」

 夕薫が声をかける。

「飲み物でも買おうか」

 僕は、そうだな、と言う。

「なんか、父さん、異様に疲れとるみたいやし」

「そんなこともない」

「姫路を離れるのが、寂しいんやろ?」

「え?」

「けっこう好きやったからな、父さん、姫路が」

「お前もだろ?」

 僕が言うと、夕薫は苦笑いを浮かべて視線を逸らす。

 

 その時、スマホが振動する。

 咄嗟に確認すると、「天皇皇后両陛下はなぜ明治時代まで伊勢神宮を参詣してこなかったのか」という記事が配信されている。

 伊勢神宮の森と鳥居の美しい画像が表示されていて、以下に詳しい記事が続いている。斜め読みすると、天照大神、斎王、斎宮、などいかにも神聖そうな言葉が並んでいる。それより、どうして今、伊勢神宮の記事が届くのか不思議に思いながら、そっと画面を消す。

 すると、呼応するかのように、今度は夕薫のスマホが鳴る。夕薫は足を止め、届いたばかりのメールを確認する。

「どうした?」

 思わず言う。だが夕薫は何も答えない。力のない目でメールを読み切った後で、ゆっくりとスマホをしまう。

「誰から?」

 僕が問いただすと夕薫はゆっくり顔を上げて、友だち、とだけ答える。そっけない言い方の割には、物寂しそうだ。だが、真砂子からのメールではないと分かった途端、僕の興味はシャットダウンしてしまう。


 新幹線のホームは、異様に広く感じられる。

 今日も姫路の市街がよく見渡せる。突き当たりに顔を覗かせている姫路城とお別れすることが、まだ実感できない。

 出発までまだ15分以上あるので、僕たちはベンチに座り、売店で買った飲み物のふたを開けることにする。するとまた夕薫のスマホが鳴る。

 夕薫は「ホットゆず」をある程度飲んでから、スマホに視線を落とす。僕はもう相手を聞かない。この子は多くの友だちを姫路に残して旅立つことになるのだ。

 夕薫はペットボトルのキャップを閉めた後、それを一旦キャリーケースの上に置き、LINEの画面をなぞり続けている。ひっきりなしにメールが入ってくるようだ。

 その時、目の前を東京方面行きの「のぞみ」が通過し、ホームは疾風に包まれる。もし平安時代の人が見たらきっと腰を抜かすだろうなどと思っているうちに、のぞみの車体はみるみる消えていく。まるで時間が創り出すブラックホールにでも突入していくようだ。その後、ホームには何事もなかったかのような静けさが残る。掛時計に目を遣ると、出発まであと4分になっている。

 ベンチに座って缶コーヒーを口に入れた僕は、少し冷静になっている。

 このまま熊本へ行くとなれば、おそらく真砂子からの連絡は永遠に来ない。

 真砂子は思慮深い女性だ。彼女が熊本に同行するというような重大な判断をギリギリになって下すとは考えにくい。

 彼女から連絡がないということは、つまり、それがなのだ。

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