Scene37 幻聴と現実のあいだ
その日は、哀しくなるほどの快晴だった。明石に行った日を思い出さずにはいられない。
「いよいよ、この
玄関のドアを閉める直前、夕薫は寂しそうにつぶやく。僕はゆっくりとドアを閉め、使い古して変色した鍵を右にひねる。いつものガチャッという音を立ててロックが閉まる。ドアは思い出の詰まった部屋と僕たちの間に明確な区切りをつける。もう永遠にこのドアを開けることはないと思うと、時間の経過がもたらす無常に胸が詰まる。
「なんか、あっけないなあ」
夕薫もドアを見ながらそう漏らす。
僕と夕薫はキャリーケースを引きずりながらエレベーターの前に移動し、ボタンを押す。いつものありふれた行為がこれで最後になるという実感が全くわかないまま、僕たちは1階に運ばれる。
「ええ天気やなあ」
外に出た瞬間、夕薫は日頃僕の前では言わないような
「太陽がまぶしいな」と僕も応える。
頭上を小鳥が横切る。鳥たちは冷たい空気をもろともせずに、チュンチュンチュンと鳴き声をあげながら明るみの中へと消えていく。
夕薫は最後にマンションを見上げる。僕も夕薫に倣って全景を見渡すと、7年前に初めて引っ越してきたときのことが思い出される。あの時夕薫の頭はまだ僕のへその辺りだった。そして、隣には秋江がいた。
「わあ――、なんだか、思ってたよりも素敵なマンションじゃない」と秋江が嬉しそうに声を弾ませた光景が切ないほどに蘇ってくる。
マンションに別れを告げた僕たちは、不動産会社に立ち寄り、鍵を返却する。
「以上で引き渡しの手続きは終了いたします。他に、何かございますか?」
担当者の事務的な応対を受けた時、そうか、あのマンションはそもそも自分たちのものではなかったのだという当たり前の事実に改めて気づかされる。
その後、僕たちはみゆき通り商店街を抜けて、姫路駅へと向かう。
夕薫は、淡々と足を運んでいる。明石に行った日と同じく、ジーンズのジャケットにスカートという格好だ。それに今日は紫のニット帽をかぶっている。スマホは手にしていない。まだ人通りの少ない商店街には、キャリーケースの音と僕たちの単調な足音が響いている。
僕は、疑いなく前に進む夕薫の横で、ずっと真砂子のことを考えている。時折、ポケットからスマホを取り出してみるが、彼女からの連絡は入っていない。
ふと顔を上げると、『PRINCESS ROAD CAFE』の白壁が現れる。店内を覗くと、どうやらまだ客は少ないようだ。3週間前、通りに面した窓際の席で真砂子と語らい合った。真砂子は明石に行くことに対してためらっていたが、深いところでは、うれしそうにも見えた。その表情は、高校時代の真砂子を彷彿とさせた。
思えば、すべての始まりは、真砂子からの手紙だった。
高校最後のラグビーの大会の前、僕はその手紙により真砂子の思いに初めて気づいた。そうして、僕たちは2人で島根の水族館に行った。僕にとっては初めての女の子と2人きりでのデートだった。
あれから時を経て、それぞれの人生を送り、そうして僕たちはこの姫路で再会した。まさか彼女とこんな縁があったとは、まったく想像もしなかった。
大人になった僕たちは、2人で京都へ行った。嵯峨野の奥にある長くて薄暗い竹林を抜け、野宮神社に参詣した。ここは光源氏と六条御息所の別れの舞台だと真砂子は説明した。それが、なぜか今ではカップルたちのパワースポットにもなっている、ならば、私たちにとっても恋愛成就の地になるようにと、真砂子はお神石を慈しむかのように撫でた。僕も、彼女と同じ思いを神に祈願した。真砂子のことをどうしようもないくらいに好きになったのは、あの瞬間からのような気もする。僕たちの心は、あの場所で、強く引き寄せられたのだ。
しかし、僕たちに用意されていたシナリオは一筋縄ではなかった。何かが執拗に僕の足を引っ張る。しかも、大事なときに限ってだ。それが何なのかは僕にははっきりと分からない。おそらく、僕の意識を超えた、それでいて僕の中に予めインプットされている何かなのだ。
それでも僕は前に進むしかない。自分に用意された運命が、求めざるどこかに引っ張り込もうとしたとしても、その運命を変えるくらいの強い気持ちで自己を貫きたい。だが、何より苦しいのは、僕は恋の行方を決める権利をもたないことだ。真砂子との恋愛成就を、ひたすら祈るしかないという厳しい立場に僕は追い込まれている。
その時、音楽が聞こえる。アストラッド・ジルベルトが歌う『Non―Stop To Brazil』だ。商店街のBGMかと思いきや、どうやら僕の心の中で流れているようだ。それにしても、実際の音と間違えるほどに鮮明だ。
『PRINCESS ROAD CAFE』で真砂子とこの曲を聞いたことを思い出し、それから明石からの帰りにラジオから流れてきたことも思い出す。小悪魔のささやきのようなアストラッド・ジルベルトの歌声が、こめかみの辺りで聞こえる。
その時、僕は路地の段差に足をつまずかせる。
危うく転倒するところだったが、どうにか持ちこたえる。
夕薫が「大丈夫?」と叫んだ声が商店街の天井に響いた瞬間、眩暈がして、こめかみが痺れる。
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