Scene36 最後のメッセージ
❶
「そういえば、あれから山野先生から連絡あったっけ?」
夕薫が聞いてきたのは出発を翌日に控えた昼のことだった。
「う、うん、まあ、な」
しどろもどろの僕は、テイクアウトで持ち帰ったモスバーガーをかじる。
「先生、何か言いよった?」
「いや、まあ、いろいろだよ。先生も、忙しいんだと思うよ」
僕の心の中は大型乾燥機の内部みたいに渇ききっている。夕薫は椅子の上に膝を立てて座ったままスマホを持ち、こっちを見ることすらなく、オニオンリングをつまんで口に入れる。
「っていうかさ、山野先生、ぶっちゃけ、ひいとんやろうな……。なんか、恥ずかしかったな」
「そんなこともないだろう。あの人は大人だから」
「あんな修羅場を山野先生に見られたっていうんも、なんか、不思議な感じがするなあ。運命みたいや」
明石から帰ってからというもの、僕たちは秋江について何も話していない。夕薫も過去を振り返らずに前を向いて踏み出そうとしているのだと見ている。それほど、僕たちは秋江のいない生活に慣れ、そしてたぶん、それだけタフになっているのだ。
その反面、僕は真砂子との音信不通については全くタフになっていない。食事が喉を通らなくなり、酒量も増えて、自分がゾンビ化しそうな予兆すら覚える。熊本の新しい職場でまともに仕事ができるのだろうかと危惧もするが、それが真砂子への不安を上回ることはない。
「山野先生に連絡してみてもええかな?」
ふと夕薫が口を開く。僕の顔は自動的に跳ね上がる。
「山野先生にだけは、ちゃんとお別れの挨拶をしときたいわ」
夕薫は依然としてスマホをなぞりながらつぶやく。それを聞いて、これまで完全に故障していた僕の心に、久々にスイッチが入る。そうか、そのアイデアがあった!
「ぜひ挨拶しておくべきだよ。あれほどお世話になったんだ」
自分の声の大きさに驚く。
「LINEじゃなんとなく失礼やから、電話かけてみてもええやろうか?」
「全然問題ないと思うぞ。先生喜ぶよ、きっと」
僕はそう返し、冷たくなったモスバーガーをかじる。久々に味覚が復活してきたように感じる。
夕薫の電話は真砂子とつながるための最後の手段になるだろう。もし、それでも連絡が取れなければ、心を鬼にして、2人だけで熊本に行くしかない。そうやって腹をくくる時期にさしかかっているのだ。
❷
「先生、電話に出てくれへん。忙しいんやろうか?」
夕薫がスマホ片手に首をかしげて僕の前に現れたのは、段ボールに囲まれて夕食のホカ弁のフタを開ける前だった。
「仕事中かもしれんな」と僕はざわつく心をどうにか抑えながら返す。
「もうすぐ塾の講習会が始まるから、大変なんやろうな……」と夕薫は寂しそうに言う。
「講習会?」
「春休みに入ってから、塾は特別授業になるんや。ほら、うちも去年受けたやん。あの1週間続くやつ」
そう言われても僕には心当たりがない。仕事に翻弄されていたのだ。
「なんか、もう、山野先生とは連絡とれずじまいかもしれんな。しかたないか」
そう言った時、夕薫のスマホにメールが入った。
「あ」
夕薫は口を開けたままの状態を保持する。
「山野先生や」
僕は誤って高圧電源を触った時のように全身を震わせ、たまらずに立ち上がる。そのはずみで段ボールが崩れそうになる。
「な、何て?」
夕薫はメールを静かに目で追いかけた後、そこに書いてあることを読み上げる。
「夕薫ちゃん、お久しぶりです。何度も電話してくれてありがとう。出れなくてごめんなさい。何か用件があれば、メールを入れておいてください」
僕はたまらず画面を覗き込む。絵文字のない、いかにも真砂子らしいメッセージだ。
「どないしようか。メールでええんかな?」
「電話したらどうだ」と僕は薦める。「今なら出てくれるよ。お前が言うように、電話の方が絶対に丁寧だぞ」
夕薫は少し考えた後で、たしかにその通りだと言い、自分の部屋へと入っていく。僕はいてもたってもいられずに、震える手で頬杖をつき、夕薫が戻って来るのを待つ。すると夕薫の部屋から声がしはじめる。どうやら電話がつながったようだ。
僕は溺れているかのように上手く息ができない。真砂子はいったい何を夕薫に話しているのか、想像するだけで恐ろしい。
首筋に嫌な汗をかきながら夕薫を待つが、なかなか出てこない。声が聞こえなくなったことからすると、話は終わっているのかもしれない。いや、それとも深刻な話になっているのかもしれない。
さらに呼吸が不規則になり、身体はこわばり、発狂しそうになる。だがじっとしていなければならない。ここで動いたとしても何もならない。
そのうち、感情は僕の皮膚を内側から突き上げ、すべての感覚が麻痺してくる。
あな……
物思う魂は、そうやってさまよい出すものなのですよ。
どうやら、あなたさまも、わたくしの苦しみがわかってくださっているようですね。
わたくしは、あなたさまとは比べものにならないほどの長きにわたり、そんな思いに苦しめられてきたのでございますよ。
何度も魂が身体から抜け出し、さまざまなところに助けを求めてまいりました。今思えば、なつかしいかぎりでございます。
女は細長い息をゆっくりと吐き出す。
さて、わたくしはもう十分でございます。あなたさまへの恨みも、ようやく消滅しつつあるのを感じます。
けれども、正直を申しますと、あなたさまが来てくださってからというもの、もう一度抱いていただきたいとの想いにさいなまれているのです。
あなたさまが苦しまれている間、わたくしも同じように苦しんでおりましたのですよ。
それにしても、伊勢は思ったよりも寂しくありませんわ。
私はこれからずっと、ここに居続けるのです。
最後にあなたさまとお話が出来たことが、せめてもの救いなのです……
女の青白い瞳から涙がこぼれる。
それは、地面に落ちる前に消滅し、大気中へと昇華していく。
❸
「山野先生、えらい元気やったで」
夕薫はおだやかな顔つきでダイニングに戻ってくる。その顔を見た瞬間、全身を縛り付けていた麻痺が僕を解放する。
「先生、何か言っていたか?」
「うん、こないだはごめんなさいって。私がいたら夕薫ちゃんに迷惑がかかると思ったし、あの後急用が入ったから、新幹線で帰ったんだって」
「で、それから?」
「熊本へは気をつけて行ってきてって。あなたならきっとうまくやっていけると思うからって」
「それだけか?」
「なんでそんなにムキになるん?」
「いや、ずいぶんと長いこと話をしてたから」
「いいや、山野先生との電話はすぐに終わったよ。あの後で、友だちから電話がかかってきたんよ」
僕は巨石で頸椎を押し潰されたようなダメージを受ける。それでも屈せずに声を振り絞る。
「父さんのこと、何か言ってなかったか?」
「別に。なんか、父さん、テンパってない? そんなに気になるんやったら、自分で電話したらええやん」
夕薫は疑いの目を向けてから割り箸を割り、弁当の蓋を開ける。僕も自分ののり弁に口をつける。食品サンプルのように冷たくなっていて、何の味もしない。
❹
寝室の明かりを消し、ベッドに横たわってからスマホを手に取る。画面の中には新着ニュースといくつかのメールが入っている。メールはすべてネットショッピングの広告ばかりだ。それらを消去した後、真砂子にメッセージを送ることにする。たぶん、これが最後のメールだ。
今日は夕薫に連絡をしてくれてありがとう。あの子も喜んでいたし、僕も少し安心しました。君にはほんとうに悲しい思いをさせて、あまりの申し訳なさで、何をどう言っていいのかすら分かりません。
ところで、昨日、離婚の手続きを終えました。これで、心を新たに熊本に行くことができます。明石で偶然起こったことも、今思えば、僕が前に進むために神様が与えた必然だと思っています。
これまで何度も君にメッセージを送ってきたけど、これが最後です。
君と一緒に熊本に行きたい。本心からそう思っています。
夕薫のことは大丈夫。絶対に大丈夫です。
もし、いきなり一緒に住むのが難しいというのであれば、とりあえず近くに住めばいい。夕薫ならいずれは事情を理解するだろうし、高校を卒業したらあの子は自立すします。
僕たちは明日の11時17分姫路発の「ひかり」に乗ります。
連絡を待っています。
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