Scene35 タイムリミットの足音
❶
秋江から連絡があったのはそれから4日後のことで、熊本へ引っ越すちょうど1週間前だった。
連絡といっても、手紙と離婚届がまとめて封筒に入れられ、書留で送付されてきただけのことだ。そのとき僕はちょうど荷造りの最中で、彼女からの文書を開いたのは食器の入った段ボールの上でだった。
自分の方から家を出て行ったにもかかわらず、一方的に書類を送りつけることに対して申し訳なさを感じている。だが、このやり方がベストだと思っている。
自分は離婚を希望する。今から復縁するこということはあらゆる観点からして不可能である。それから夕薫の養育もお願いしたい。それが自然だと思う。
今回離婚届を送付するが、もしあなたが承認してくれれば、必要事項を記入して印鑑を押し、市役所に提出してもらいたい。それ以降で何か必要な手続きが発生すれば、別途連絡する。
慰謝料や養育権などにかかる協議が必要だとあなたが言われれば、それに応じることもできる。その際自分は、知り合いの弁護士に代理人になってもらうことにする。
先日言ったとおり自分は現在懐妊中で、体調もあまりよくなく、定期的に受診を要する身体である。医師からも療養を指示されており、あなたと直接協議することはできない。
概要はざっとそんなところだ。
パソコンでプリントアウトされた文面に目を通した時、僕はまず、これは第三者によって作成された文書だということが分かった。秋江が書くような文ではないし、何より彼女の心が全く感じられない。
爆発しそうな憤りを覚えずにはいられない。完全に馬鹿にされている。まるで100%こっちに落ち度があるかのような書きぶりじゃないか。
だが、そんな書かれ方をされると、逆に傷つきもしない。慰謝料を請求しても勝ち目は完全に僕の方にある。こっちも会社に頼んで弁護士を雇ってもらい、彼女を追い込もうと思えばいくらでもできる。
しかし、そんなことはしない。
今回の件については、秋江が蒸発した直後にさんざん自問自答した末に、僕の中では決着が付いているのだ。秋江なしでも十分やっていける経済力もあるし、生活スキルだって身につけた。夕薫も賢く成長した。
今さら秋江への怒りを再燃させることは、僕にとっては後に戻ることを意味する。
秋江の方も、僕が彼女を追い詰めたりするような人間ではないことを確信してこんな文書を送ってきているのだ。最後にこんなひどい対応をされ、僕は彼女と別れて正解だったと真に納得することができるというものだ。
そんなことを考えていると、荷造りの段ボールの上にボトボトと水滴が落ち始める。
あれっ?
まさか雨漏りではあるまい。外は晴れ上がっている。鼻血でも出たのかと思い慌てて顔に手を遣ると、それは僕の涙だった。
哀しいわけでも、うれしいわけでもないのに、とめどなく涙があふれ出る。
あれっ?
そういえば同じようなことを、先日カーラジオを聞きながら経験したばかりだ。
涙は次々にこぼれ落ちる。僕は段ボールとその上に置いた文書が濡れていくさまを冷静に眺めている。
そのうち、この涙は僕のものではないことが分かってくる。僕と秋江の正式な別れについて、僕以外の誰かが何かを深く感じ、その人の涙が僕の身体を介してあふれているようだ。
そしてそれは1人だけの涙ではない。何人かの心が重なり合っている。
僕はその人たちの孤独な魂を自分の心の中に探そうとする。だが、やはり2枚貝はぱたりと閉じ、答えは暗がりに沈み込んでしまう。
ひとしきり涙が流れた後、それは急激に乾いた。湿りきっていた段ボールも、何事もなかったかのように元通りになっている。まるで化学実験を見せられているようだ。
❷
僕が秋江のことにかかずらいたくはないと強く思うもうひとつの理由は、もちろん真砂子の存在だ。
あれから、真砂子とは一切連絡がつかなくなっている。着信を入れてもメッセージを送っても、全く返事は来ない。もはや軽石のようになってしまったスマホが自分の視界に入るだけで、息もできないくらいに苦しくなる。
真砂子は以前、岡山の会社に勤務していた時に上司と恋に落ちた。だが、その人が家族と一緒にいる所を街中で目撃してしまい、自らの愚かさを思い知らされた。恋は、そこでシャットダウンされた。
当時の苦悩に満ちた真砂子の様子を思い浮かべると、僕の心は狂おしいほどに乱れる。真砂子は今、あの時と同じ絶望感を抱いているにちがいない。
だが、かといって彼女の勤務先や自宅に押しかけることもできない。むしろそれは逆効果になりかねない。現時点において僕にできるのは、待つことのみだ。
とはいえ、僕には時間がない。あと1週間で姫路を出なければならないのだ。
魂が抜け出してしまいそうだ!
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