Scene34 ゆゆしきバラード

 第2名神を降りたとき、姫路の方角の空には西日が差し始めていた。相変わらず夕薫は険しい表情で固く目をつむったまま、かすかな寝息を立てている。

 FMのスイッチを押すと、ゆったりとしたバラードがスピーカーから聞こえてくる。毎週、休日のこの時間帯に放送されているプログラムだ。

 曲が終わり、今のはラナ・デル・レイの歌だと紹介された後、軽快なスムース・ジャズをBGMに、パーソナリティが艶のある声でリスナーからのメールの紹介をはじめる。


 えー、それでは、次のメールを紹介したいと思いまーす。

 ラジオネームは、えっと、どうやら、書かれては、ないようですね、はい。次回は、ぜひ書いてもらえるとうれしいですね。せっかくのプレゼントの送り先も分からないんでね、よろしくお願いしますねー。じゃ、読みまーす。

 

 DJメグミさん、こんにちは。

 さきほどかかったミシェル・ブランチの曲がすごく良くて、お礼のメールさせてもらいます。

 私は今から、伊勢に旅立ちます。

 私は、これまでずっと、ものすごく長い間、ある男の人のことが好きでした。その人は私をとてもかわいがってくれて、やさしくしてくれました。

 仕事が落ち着いたら必ず会いに行くからと言われ、密かに私は彼の訪問を楽しみにしていました。

 でも、彼は、来てくれなくなりました。とても忙しい人だったからそれも無理はないと言い聞かせましたが、やっぱり裏切られたような気がして、それでも、その人のことが忘れられず、ほんとうに長いこと孤独な日々を送ってきました。

 それが、ここ最近、会うことができたのです。私にとっては奇跡なのです。でも、もう、私たちが結ばれることはありません。私には、この世に居場所がなくなっているのです。でも、彼と最後に話が出来ただけで、待っていた甲斐があるというものです。涙が止まりません。


 へえ――、ちょっと、大人の恋愛って感じで、私にはよく分からないところも多々あるんですけどね、この世に居場所がないなんて言わないでくださいよね。でも、まあ、この番組を聴いて元気になってもらえるのならうれしいですね。ひょっとして男の方もこのラジオを聞いてくれてるのかしら? 彼女の思い、ちゃんと届いてますかー?

 匿名さん、メールありがとうございました。次もお待ちしていますねー。

 それでは、曲に移りましょう。匿名さんのオーダーにお応えできるかどうか分かりませんが、伊勢に旅立たれるとうことで、伊勢湾のイメージで、心地よい潮風に合う曲がをチョイスしてみました。それではお聴きください! 

 アストラッド・ジルベルド、『Non―Stop To Brazil』


 パサートのスピーカーからは今紹介された曲が流れはじめる。オーケストラが甘く奏でるゆるやかなイントロの後、ボーカルが入る。

 アストラッド・ジルベルトの乾いた声が心に届くにつれて、何者かに胸をぎゅっと掴まれているような錯覚がじわじわと真実味を増してくる。今紹介されたメールの言葉1つ1つが、心のかなり深いところにまで入り込んでいる。

 なぜだろう? ひょっとして「彼」とは、俺のことだろうか?

 いや、そんなことはあるまい。そもそもメールの送り主に心当たりなどない。

 だが、一方で、その人からの声にならない声が、曲に乗せて痛いほどに伝わってくるような実感もある。

 気がつけば、わけもなく涙が流れている。この涙はいったい何だろう?

 哀しいわけでも、うれしいわけでもない。そんな言葉を超えた何かが、とめどなく涙をあふれさせる。涙の理由を探ろうとした途端、2枚貝がぱたりと閉じる音がして、答えはその中の闇に葬られてしまう。


 曲が終盤にさしかかった時、そういえば最近この曲をどこかで聞いたことをふと思い出す。

 そうだ、姫路のみゆき通にある『PRINCESS ROAD CAFE』の店内で流れていたのだ。

 あの時真砂子は、3人で遠出しようという僕の提案に即答しなかった。夕薫に悪い気がすると言い、秋江のことも気になるとも言い、決断を渋った。今思えば、明石でこんなストーリーが待ち受けていることを、彼女は予知していたのかもしれない。


 そんなことを考えていると、『Non―Stop To Brazil』は徐々に消滅していく。

 ダッシュボードに置いたスマホは全くの無反応だ。永遠にこの状態が続くことを予感させるくらいに沈黙を守っている。

 真砂子はどこで何をしているのだろう?

 明石は僕たちにとって、別れの場になってしまうのだろうか?

 隣では夕薫が、鯛焼きの鯛のように口を少しだけ開けて寝ている。もし夕薫の許しがもらえれば、僕は真砂子のアパートに直行するだろう。まさに『Non―Stop To Masako』だ。だが、もちろんそれは現実的な話ではない。

 僕は歯を食いしばって自我と闘う。魂が抜け出してしまいそうだ!


 いとも簡単に姫路の市街地に入ったと思うと、夕薫も目を覚ます。というより、前から起きていたのかもしれない。夕薫は何も言わず、窓の外に物憂げな視線を送っている。

 ビルの合間から姫路城が見え始める頃、夕薫はシートのリクライニングを元に戻し、フロントガラスの向こうに視線を投げる。それから、壊れたトランペットのような嘆息を漏らす。

「ああ、着いちゃった。帰りは、なんか、あっけなかったなあ」

 夕薫は弱々しく言う。

 駐車場に車を入れ、外に出てドアを閉めると、その音が名残惜しく響いた。パサートとのラストドライブは、これまでのどのドライブよりも哀しく、忘れられないものになってしまった。

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