Scene33 運命は最初から用意されていた?

 店内に戻ると、秋江は夕薫を抱きしめている。

 僕は支払いを済ませ、店の外へ出て待つことにする。


 真砂子の姿はどこにも見えない。「幸せ鮨」のきれいな看板だけが僕を見下ろしている。秋江と夕薫が並んで出てきたのは、間もなくのことだった。

「どういうことなんだ」と僕は言う。

「今ここで話すことじゃない」

 秋江は僕の胸元辺りに視線を遣りながら、かすれた声で言い返してくる。その目元は以前よりも落ち窪み、しわも目立っている。化粧もずいぶんと薄い。近くで見れば見るほど、別人のようにも感じられる。

「それなら、ちゃんと場を設定してくれないか」

「分かってるわよ」

「いや、分かってなんかないよ。これまで俺は何度も君に連絡を試みたじゃないか。でも君はすべて拒否してきた。俺の気持ちが、分かるのか?」

 すると僕たちの間に夕薫が割って入ってくる。

「ねえ、やめようよ。こんなところでけんかするのはみっともないやんか。お母さんも、帰ってきてくれるんやろ?」

 秋江は苦々しい表情を浮かべて、自分と同じ背の高さになった夕薫を見つめる。

「ごめんな、お母さん、もう帰られへんのや」

「なんで?」

 秋江は肩で息をし、涙をすする。彼女の友だちは話が聞こえない所まで離れて、けだるそうに煙草を吹かしている。

 秋江は、肺に残ったすべての息を吐き出す勢いで言う。

「お腹の中に子供がおるんや」

 夕薫は、メデューサに睨まれて石化してしまったかのように、直前の表情で止まっている。僕はというと、ぐちゃぐちゃになっていた頭の中がさらに細かく刻まれて、ペースト状になった。

「うそや、そんなにお腹大きくないやんか」

 夕薫は力なく反抗する。

「うそやない」

「そんな、アホな……」

 肩を落とした夕薫の影が乾ききった路地にくっきりと映る。

「つまり、君は誰か他の男と一緒に家を出たわけだ」

 それについて秋江は何も答えない。

「今、どこに住んでるんだ? 明石か?」

「明石じゃない。今日はたまたま友だちに会いに来たの」

「じゃあどこにいるんだ?」

 秋江は少し上を見て考え込んだ後で答える。

「京都よ」

「京都? なんでまた……」

 真砂子と訪ねた京都の風景が近くに運ばれてくる。

「京都のどこにいるんだ?」

「それ以上は言えん」

 秋江は唾を飲み込む。

「いったいどうしちまったって言うんだ、俺には何も分からんよ」

 呼吸が言葉を追い越すのを感じる。秋江はうつむき、何も言わなくなる。

「とにかく、お母さん、帰ってきてよ。べつに子供が生まれたって何したって構わんから。ちゃんと話し合おうよ」

 友だちの姿はいつのまにかなくなっている。秋江はゆっくりと顔を上げ、僕と正対して言う。

「あなたとはちゃんと話をしようと思う。結局、ずっと先送りしてきたからこういうことになったんだって、反省してる。今日あなたと出会ったのは、神様がそうさせたのよ」

「神様の問題じゃないよ。人としての問題だ」

 秋江は警官に取り押さえられた万引き犯のようにうなだれる。

「とにかく、今、ここじゃあれだから、後日、こっちから電話をかけさせてもらえないでしょうか」

「後日って、いつだよ?」

 秋江はうつむいたまま頭の中で計算し、「1ヶ月以内に」と回答する。

「その頃俺たちは姫路にはいない」

 秋江は顔を上げる。

「熊本に転勤が決まった」

 彼女は僕の顔に描かれた迷路でも辿るかのように僕を見る。

「ほんと?」

 夕薫が首を縦に振る。その下まぶたには、朝露のような涙がたまっている。

「3月25日には旅立つ予定だ。できれば、すべての話がそこまでに済む日程を調整してもらいたい」

 秋江は眉間に深いしわを刻み、それについて考えた後で、わかったわ、そうする、と小さく回答し、それからひどく咳き込む。

「もう、戻って来えへんの?」と夕薫は言う。

「ごめんね、お母さん、あれからいろいろあってな。実を言うと、今じゃ、すっごい後悔しとんや。ほんとうに馬鹿なことしてしもうたって」

「じゃあ、戻って来ればええやん」

 夕薫のまぶたからは涙がぽとぽと落下している。

「ごめんな、ほんとにごめんな」

 秋江は夕薫を抱きしめる。

「ちゃんと連絡をくれるんだろうか?」と僕は追及する。「ここまで言っておいて連絡がなかったら、夕薫にさらにつらい思いをさせるって、分かってるよな」

 秋江は夕薫の髪の毛に顔を埋めながら、何度も頷く。その姿は惨めでもある。


 その時、ダークブラウンの軽自動車がハザードランプを点滅させて道路に横付けしてくる。秋江は最後にもう一度、強く夕薫を抱きしめ、それからゆっくりと体を離す。

「お母さんっ!」

 夕薫は声を絞り出す。だが秋江はすべてを振り払うようにきびすを返し、さっきの友達が運転する軽自動車に乗り込む。

「必ず連絡してくれ、必ずだ」と最後に念を押すと、秋江は僕だけにしか分からないくらいに微細に首を縦に振る。 


 車は最初の交差点で左折して消えた。

 

 その瞬間、夕薫は路上にひざまずき、声を上げて泣きだす。

 夕薫のうめき声は、人気のない路地に吸い込まれていく。まるで、前世からの叫びのようにも聞こえる。


 あな……



 真砂子に電話してもつながらない。

 僕と夕薫は、車を停めた明石駅の方面に向かって歩く。1分おきに電話するが、出ない。出る気配がない。たまらずメッセージを送る。


 全然問題なかったよ。ただの事故だ。そろそろ帰ろうと思うから、連絡をくれないだろうか。


 車に乗り込んだ僕たちは、明石城の公園に車を停め直し、暖房をかけながら真砂子からの返答を待つ。

「お母さん、帰って来えへんのやろうか?」

 車内に入り込む陽光が夕薫の涙を光らせる。

「無理っぽいな、あの調子じゃあな。子どもがいるだなんて、信じたくもない」

 夕薫は唇を噛みしめながら、窓の外を向く。公園に植えられた桜の木が、ゆるやかに風に揺れている。その向こうの歩道では、ピンクのランニングウエアを着た初老の男性が、ストップウォッチを気にしながら苦々しい表情で限界に挑戦している。

「なんでこんなにつらいことばっかり起こるんやろうか」

 夕薫は声を震わせて泣く。

「母さんのことは、父さんにまかせてくれ。ここからは大人の事情だ。でも、夕薫だけにはできるだけ不自由な思いをさせたくない。それだけは分かってくれ」

「十分不自由な思いをさせられとんやん」

 その時、僕のスマホが震える。慌てて画面を開くと真砂子からのメッセージが届いている。

 

 別便で帰ります


 その短い文を凝視していると、夕薫がこっちを向く。

「どうしたん。先生から? 何て?」

「う、うん、先生ちょっと用事ができたみたいだ。先に帰っていいって。2人で親子の会話をしてくれって書いてある」

 僕は咄嗟にそう応える。

「そうなんや、先生、うちらに気を遣うてくれとるんやな。あの先生らしいな」

 夕薫はそう言ったきり、目を閉じて、何も話さなくなる。


 帰りは行きとは違って、第2名神に乗ることにする。

 料金所のETCゲートを通過したとき、助手席の夕薫は、すでに目を閉じている。ジーンズのジャケットに首を埋めるようにして、口を少しだけ開けている。今日のために慣れないメイクもしていることに、今になって気づく。

 本線に合流すると同時に、パサートのアクセルを踏み込む。その後で、ふと、ルームミラーに目を遣る。真砂子と夕薫が仲良く並んで、親子のように会話を楽しんでいたことが、まるで10年前のことのように感じられる。だが、今は誰もいない。


 誰もいない?


 よく見ると、そこには女が1人座っている。

 白い着物に身を包み、瞳は青白く光っている。


 あな……

 

 女はため息を吐く。

 その瞬間、魅力的な香りがほのかに広がる。


 あなたさまにも少しはご理解いただけたでしょう。

 放置される人間の苦しみ。


 僕を苦しめているのは、君なのか?

 

 女は眼球のない青白い瞳をこっちに向ける。


 苦しめているだなんて、めっそうもございません。

 私はあなたさまに気づいていただきたいだけなんです。


 君は伊勢に下るのではなかったのか?


 女は少しうつむき、身体をこわばらせる。

 

 そのつもりでございます。

 いまさらもう引き返すことなどできません。斎宮さまを裏切るようなことをすれば、さらなる人笑へにもなりましょう。


 じゃあ、どうして僕を苦しめようとする?


 何をおっしゃりたいのか?

 あなたさまが私を苦しめられてきたのですよ。

 

 女に対して語るべき言葉を僕はもたない。

 

 鉛のような心が重苦しいため息を吐き出したとき、今まで広がっていた香りがぴたりと消滅する。

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