Scene32 明石は「再会」が似合う

「なんか、いろいろとしんどい思いさせちゃったな」

 夕薫の背中が見えなくなったのを確認してから、僕は言う。

「ううん、全然。夕薫ちゃんは何も知らないんですから。それより私の方こそ、橋田さんに気を遣わせちゃって」

「それはない。さっき夕薫も言っていたけど、明石は別れよりも出会いがふさわしい。野宮神社とは雰囲気が違うね。もちろん、あそこはあそこですごく楽しかったけどね」

 真砂子は淡雪のような笑みを浮かべてうつむく。

「今日いろんなことが起こるのも想定内です。それより、これから私、どうすればいいのかなって思ってます」

 僕は少し考えてから言う。

「俺はうまくやっていけるような気がする」

 明子は遮断機が元に戻るようにゆっくりと顔を上げる。

「君たち2人を後ろから眺めていたけど、いい雰囲気だったよ。それに、今の君の話は夕薫にも響いてるはずだ。まさか、君にそんな過去があっただなんて、俺も知らなかったけどね」

「すみません。これまで母の話をするような場面はなかったですから。でも、私の思いが夕薫ちゃんに届いていればすごくうれしいです」

「大丈夫だよ、あの子ならわかるよ。ただ、どのタイミングで伝えるかだ。もうじき俺たちは熊本に行かなければならない」

 真砂子は固く口を結び、眉間に苦々しさをにじませながら再びうつむく。

「あまり急がない方がいいかもしれません」

「俺も、そう思う。でも、君がほんとうに熊本に来てくれるのなら、出発までには何とかしなければいけない」

「私は本気です。熊本に行きたいです」


 夕薫が架空の人物のように真っ青な顔をして戻ってきたのは、しばらくしてからだった。

 何も言わずに、自分の椅子に腰を下ろす。まるでマネキン人形のようでもある。

「どうしたの? お腹が痛くなった?」

 真砂子は母親のような仕草で夕薫に顔を覗き込む。夕薫は目をわなわな震わせながらしばらく黙り込み、ぽつりと口を開く。

「お母さんがいる」

 今、夕薫が何を言ったのか、分からなくなる。思わず聞き返すと、夕薫はもう1度、同じ言葉を繰り返す。


 オカアサンガイル……


 雷のような眩暈に襲われる。

 記憶の奥から声が聞こえる。


 あな……


 だが、こんなところでパニックになるわけにはいかない。咄嗟に頭を振り、顔を上げ、辺りを見渡す。奥に細長い店内には、テーブル席が4つ縦に並んでいて、どの席も客で埋まっている。

「どこに?」

 声をうわずらせると、夕薫は、「トイレに1番近い席。向こうを向いて座ってる」と答える。

 真砂子を見る。夕薫以上に青白い顔をして震えている。そんな彼女に向かって、大丈夫だ、と声をかける。だが、全くの無反応だ。

 強く後ろ髪を引かれながらも僕は立ち上がり、「その人」を探す。探さざるを得ない。夕薫が指摘した席には2人の女性が座っている。いずれも僕と同世代に見える。こちら向きに座っているのは見たことのない女性だ。手前の女性、すなわち、秋江だとされる人物と話をしている。何やら深刻そうにも見えるし、ありふれた会話のようにも見える。

「人違いじゃないのか?」と夕薫に言うと、「そんなわけない。絶対にお母さんや。話をしに行ってよ」と催促してくる。

 すると、真砂子はポップアップトースターのパンのように、立ち上がる。

「私、出ます」

 僕は真砂子を制する。いいんだ、君はここにいてくれた方がいい、と強く言う。その時、奥の席の2人は立ち上がって、こちらに近付いてくる。

 僕は目を見開いて、さっき後ろ向きだった女性の顔を凝視する。それが秋江だと確認するのに1秒とかからない。家を出て行ったときよりも髪を短くし、少しふっくらしたように見える。だが、大学時代から長く一緒に過ごしてきた彼女を見間違えるはずはない。

 店内に1人だけ立ちすくむ僕に、秋江もすぐに気づく。秋江は財布を出したまま直立し、口を少しだけ開けて冷凍保存された人間のように硬直する。

「どうしたん?」

 隣の女性が背中で言っても動かない。

「お母さん!」

 哀愁に満ちた夕薫の声が店内に響き渡ると、客は一斉に僕たちに注目する。大衆の面前で赤っ恥をかかされた六条御息所の姿がほんの一瞬だけよぎり、すぐに消えていく。

 真砂子は何も言わずに店の外へと出ていく。僕は反射的に真砂子を追いかける。彼女は店の外の壁に背中をもたれ、両手で顔を覆っている。

「君はいてもいいんだ」

 だが真砂子は何も返してこない。そして、さらにそこから立ち去ろうとする。僕は彼女を引き留めて言う。

「わかった。どうしてもここにいられないというのなら、近くで待っていてほしい。後で必ず電話するから。何にも心配はいらないし、全く問題はない。俺は君と一緒に暮らすんだ!」

 真砂子は微塵も反応せぬまま、力なく僕を振り切り、陽の当たる路地の奥の暗がりへと消えていった。

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