Scene31 ほんとうのお母さん

「あ――、なんか、すっきりした気がするわ――」

 無量光寺を出た後、夕薫はガッツポーズのような背伸びとともに高らかに声を上げる。

「明石って、いいとこっすね。の言うとおりです」

「あんまり都会じゃないけどね」

 真砂子はあっさりと返し、それから念押しするように続ける。

「さっきからお父さんも言ってくれてるけど、べつにって呼ばなくてもいいのよ」

「じゃあ、何て呼べばいいんですかね?」 

「山野さんとか、真砂子さんとか、そんな感じでどうだろう?」

 僕が営業担当者のように提案すると、夕薫は鋭い目つきでカウンターを仕掛けてくる。

「父さんは黙っといてよ。そんな、馴れ馴れしい呼び方出来るわけないやんか」

「いいのよ、べつに、真砂子さんでも。私は全然構わないし、むしろそっちの方が自然かも。だって、海外に出たらファーストネームで呼ぶのは当たり前だし」

 真砂子がそこまで言っても、夕薫の表情は晴れない。

「まあまあ、いいじゃないか、俺が悪かったよ。当面は『先生』でいこう」

「当面って、何? どうせもうすぐ熊本に行くんやから、先生にも会えんことなるやん。うちにとっては、『先生』って呼ぶんが、一番しっくりくるんや」

 その後、僕たちは無言の道を踏みしめる。


 夕薫はスマホを指でなぞりながら誰とやりとりをしている。いわゆる「歩きスマホ」というやつだ。いつもなら間違いなく注意するが、今はそのタイミングでもない。真砂子はただ薄く微笑みながら、時折空を見上げ、鼻で空気を吸い込んでいる。彼女がどんなことを考えているのか、よく分からない。

 来た道を戻るにつれて、街の賑わいも復活してくる。中心地の「魚の棚商店街」に近づいた所で夕薫はスマホをリュックにしまう。

「なんか、お腹すいたな――」

 僕も同感だ。真砂子も、そうね、と言う。まだ12時にはなっていないが、混み始める前に店に入るのが得策かもしれない。

「何が食べたい?」

 真砂子は夕薫に尋ねる。母親のようだ。

「そうですねえ、せっかく明石に来たから、お寿司とか食べたいかも」

「お寿司?」

「ヘンですかね?」

「ううん、全然。ただ、私が予想してたのとちょっと違っただけのことよ」

「いったい、どんなものを予測してたんですか?」

「たとえば、ピッツァとかパスタとか、カレーとかハンバーグかな」

「ああ、たしかにそう言われるとパスタもいいですけど、やっぱ、今は寿司っすね」

 小さい頃から夕薫は寿司が好きだ。しかも、大トロやエンガワなどの本格的なネタを好む。

「先生はどうっすか?」

「私は何でも食べるから大丈夫よ」

 夕薫は今しまったばかりのスマホを取り出し、近くの寿司屋を検索しはじめる。2人は顔を近づけてスマホの画面を覗き込む。食べログで1位の店は高そうだから、3位くらいのところにしとこう、という話で盛り上がっている。


 スマホがナビゲートした寿司屋は、「魚の棚商店街」の南にあった。年季の入った店舗が並ぶ路地において、小ぎれいでモダンな店構えは、古い歯の中に新しい歯を1本だけ入れたかのように目立っている。白木の看板には「幸せ鮨」と書かれている。

 店内に入ると、まさしく寿司屋の匂いが立ちこめている。外観からは想像できないほど奥に広く、テーブル席も並んでいる。

「おお、いい店やーん」

 夕薫はすっかりご機嫌な様子でテーブル席に腰掛ける。

「何にしようかな?」

 夕薫は頬杖をついてカウンターのガラスケースの中に目を遣り、それから壁に懸けられているネタの札もチェックする。姫路の寿司屋を回っているせいで、注文の仕方もこなれている。

「やっぱり明石と言えば鯛かタコからいくべきなのかな」

 僕はふかふかに蒸されたおしぼりで手を拭きながら言う。

「あー、いいですね」

 真砂子も続く。すると、ファッション雑誌でもめくるようにお品書きを開いている夕薫が言う。

「いちいち選ぶのも面倒臭いから、この『上にぎり十貫』とかどうですかね?」

 真砂子も僕も異論の余地はない。


「魚の味って、平安時代から変わらないですよね?」

 握りたてほやほやの寿司をほおばりながら夕薫は聞いてくる。鯛もタコも、予想を上回るほどの食感と味わいだ。

「まあ、変わらないでしょうね、たぶん」

 真砂子も満足げに答える。

「光源氏も、明石入道にいっぱいふるまってもろうたんやろな……。『源氏物語』の話を聞いてると、明石って、出会いが似合う街のような気がしてきますね。いろいろなものが寄ってくる感じがします」

 すると真砂子はまっすぐ夕薫を見て言う。

「夕薫ちゃんのお父さんも、昔から人を引きつける力があったわよ。仕事ができる人の所に業務が集中するように、お父さんにもいろいろな人が集まっていたわ。高校の先生とか後輩からも慕われてたし、隠れファンも多かったのよ」

「いやいや、それは買いかぶりすぎだよ」

「いいえ、ご本人には自覚がないだけですよ。今でも橋田さんは、いろんなものを引きつけられていると思いますよ。だから、気疲れが絶えないんですよ」

 真砂子はいたわるように言ってくれる。

「父さんがそんなたいそうな人間だとは、信じられへんな」

 夕薫は赤ちゃんをあやすような顔で僕を見た後、大トロが乗った寿司をぱくりと口に入れ、じっくり味わうように咀嚼する。


「ところで、先生」

 真砂子はゆっくり夕薫の方を向く。先生という呼ばれ方をすることに対して諦めがついたようにも見える。

「光源氏と明石の君はどうなるんですか?」

「明石の君は懐妊して、明石の姫君が生まれるの。光源氏は都からお呼びがかかって政界復帰するんだけど、結局、明石の姫君だけを都に引き取るの」

「え? じゃあ、明石の君はほっとかれるんですか?」

「彼女は受領階級の娘だから、身分はそんなに高くないわけ。そのことで負い目を感じて、都に行くことができないの。それで、源氏と離れて暮らすことになるのよ」

「えー、せつない」

「平安時代の男性貴族は、2人以上の妻を持つ人も多かったから、えてして女性は、置いてきぼりにされたのよ。だから、恋の数と同じほどの哀しいドラマが生まれたの」

「今ならあり得ないですね」

 夕薫がそう言うと、真砂子は、そうね、と声のトーンを落とす。

「じゃあ、明石の姫君は誰が育てたんですか?」

「紫の上よ。光源氏の正妻だとされる女性」

「えー、何それ。紫の上はそれで良かったんですか?」

「紫の上は光源氏との間に子供を授かることがなかったの。だから、彼女は、いろいろな想いを抱きながら、明石の姫君を養育したのよ」

「すごくないですか、紫の上」

「すごい女性なのよ。彼女は。自分の夫と他の妻の間に生まれた子供に愛情を注ぐことができたんだから」

「うちなら無理ですね。新しいお母さんに育てられるっていうのも無理だし、だんなの前の奥さんの子供を育てるっていうのも、絶対無理」

 夕薫はそう言い、厚焼玉子を口に入れ、お茶をすする。これまで自然に受け答えしていた真砂子も、僕の目にはあからさまに表情を曇らせたのが分かる。

「なんか、ほかに頼もうか?」

 話を逸らそうと試みるが、もうおなかいっぱいだからいいよ、と夕薫が制したので作戦はあえなく終わる。


「私なら、できるわね」

 真砂子が夕薫に向けて口を開いたのは、その少し後のことだった。僕と夕薫は、巣の中のひな鳥のように揃って顔を上げる。

「じつを言うとね、私を育ててくれたのは、ほんとうのお母さんじゃなかったのよ」

 僕にとっても初めて聞く話だ。

「ほんとうのお母さんは、私が小さいときに病気で亡くなってしまったの。だから私は写真でしか顔を知らない。でね、中学生に上がる前にお父さんは再婚したのよ。新しいお母さんの間には、妹も出来た。私たち姉妹は年も離れていたし、顔もあんまり似てなかったけど、仲は良かった。妹の方はもうとっくに結婚して、子供も2人いるけどね、今でもよく話をするよ」

 僕と夕薫は、長時間ヒッチハイクをしても全くうまくいかない2人のように、横目で互いの顔を意識することしかできない。

「じつは、新しいお母さんも、4年前に亡くなってしまったの。ガンになっちゃったのよ。病気が見つかってから、1ヶ月も経たないうちに息を引き取ってしまった」

 真砂子は清々しささえ感じられる顔つきで話を続ける。

「その頃私は岡山で働いていてね、看病しなきゃと思う間もなく、あっけなくあの世に行ってしまった。あの時、私は思ったの。このお母さんに育ててもらって、すごく良かったって。今でも、ずっと、心から感謝してる。私にはお母さんが2人いるんだって、そう思ってるよ」

 僕は大きな湯呑みに注がれたあがりに口をつける。夕薫は、うつろな視線で真砂子と自分との間にできた空間を眺めている。その時、割烹着の女性店員が品良く切り揃えたリンゴとミカンを運んでくる。

「ご注文のお品は以上です。どうぞ、ごゆっくり」

 彼女は艶のある声で言い、再びのれんの奥の厨房へと戻っていく。

「ちょっと、トイレに行ってくるね」

 夕薫は立ち上がり、奥にあるお手洗いへと行く。

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