Scene30 光源氏、たのむぞ!

 善楽寺を出た後、真砂子はさらに細い道に僕たちを誘い込む。

「今度は、どこ行くんですか?」

「光源氏のお家よ」

 道の両側は丁寧に刈り揃えられた緑が続き、その向こうには墓石が並んでいるのも見える。僕は野宮神社へと続く竹林の道を思い出す。

 六条御息所が物語から退場した後、明石の君が新たに再生されたと真砂子は言ったが、それはひょっとして、秋江の消滅と真砂子の再生でもあるようにも思えてくる。人生とは、そういうものかもしれない。


「浄土宗 無量光寺」と書かれた山門はすぐに現れた。

「え? もう着いたんですか? 明石入道の館の隣じゃないですか」

「光源氏をつねにそばに置いておきたい入道の思惑がよくわかるよね」

「それに、いかに明石入道がこの辺りの土地を掌握してたかってこともわかるな」

 僕は2人の間に割り込む。

「なんだか、平安時代の様子がリアルに想像できますね。おもしろい」

 夕薫が言った時、スマホの着信音がいきなり激しく鳴りだす。夕薫はリュックの中に手を突っ込んで慌てて電話の相手を確認し、少し離れたところに移動し、なにやらヒソヒソ話をした後、焦って電話を切る。

「すみませんでした、先生」

 僕たちの所に戻って来るやいなや、夕薫は真砂子に詫びを入れる。

「いいわよ、着信を鳴らすくらいで遠慮しなくてもいいのよ」

「いえ、学校じゃスマホは禁止されてるんで」

「私、学校の先生じゃないから、全然問題ないよ」

「まあ、そうですけど」

 夕薫はマナーモードに切り替えて、スマホをリュックにしまう。

「もう夕薫は塾を卒業したわけだし、山野先生は父さんの後輩でもあるんだから、べつに『先生』と呼ばなくてもいいんじゃないかな」

「父さんだって、今『山野先生』って言ったやん」


 本堂での参拝を終えた後、真砂子は境内にある細い道に足を踏み入れる。その先にはひょろりとした赤い鳥居があり、その奥に簡素なお堂が見える。鳥居には「源氏稲荷」の文字が記してある。

「こんなお寺の中に稲荷神社があるんだ。なかなか趣深いじゃないか」

 僕が言うと、真砂子はしんみりとした口調で返す。

「野宮神社の黒木の鳥居とは対照的ですね」

 夕薫は僕と真砂子が何を言っているのかよく分かっていない。

「それはそれとして、お稲荷様は現世利益げんせいりやくがあるわけだから、これくらい生活感を感じる造りの方が、それっぽいですよね」

 真砂子は財布から小銭を取り出して、貯金箱ほどの大きさの賽銭箱にそっと入れる。

「何の御利益ごりやくがあるんですか?」と夕薫は言う。

「そりゃ、源氏稲荷って言うくらいだから、たぶん、恋の御利益だと思うよ」と真砂子は応える。

「へえ、そうなんだ」

 夕薫は声を上げ、小さなやしろの中を覗き込む。

「ま、うちには関係ないけど、せっかく来たんやから、とりあえず、何かを祈っとこうか」

 そう言って手を合わせる。僕も夕薫の後に続く。

「父さん必要ないやん」

「いいんだよ、べつに。恋の利益だけだとは限らないんだから」

 僕はそう言いながら、実際は真砂子との恋愛成就を願って手を合わせる。この3人で仲良く暮らす日がやってきますように。光源氏、たのむぞ、と。

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