Scene29 消滅と再生の物語

 真砂子と夕薫は並んで本堂に向かって歩き始める。

「明石入道は光源氏に『娘があなたのような身分の高い方と出会えるように、長いこと大阪の住吉神社の神様に祈り続けてきたのです』と訴えるの」

「住吉神社ですか。友達が行ったことあるって言ってましたね」

「自分は地方の受領階級で終わりそうだが、娘だけは都の貴人と結婚させたい、もしそれが叶わなければ、海の中に入ってしまえと娘に遺言をしていると、これまでの半生を光源氏に熱く語りかけたの」 

「なんか、一途なおっさんやなあ」

 僕は2人の後を歩きながら、平安時代のこの場所に思いを馳せる。ひょっとして、今と大して変わらないかもしれない?

「光源氏は明石入道の猛アピールに心を動かされるの。須磨で海龍王のお告げがあったりしたのも、この人の娘に会うためだったのかもしれないと思ったりして『ひとり寝の慰めにも』というくらいの気持ちで、明石の君に会うことにしたの」

「それって、どういう意味なんですか?」

「明石に来てずっと1人で寝ていたから、その寂しさを紛らわせるためにも、まあ、会ってやるか、くらいのノリかなあ」

「ヤバっ、光源氏、最低」

 夕薫は吐き捨てる。まだ中学生の夕薫には少し刺激が強い話だと僕の方が恥ずかしくもなる。

「今日はそんなドロドロした話をしにきたわけじゃなかったわね」

 どうやら真砂子も僕と同じようなことを感じたらしい。

「え――っ、まだ聞きたいです。おもろいから」

 真砂子は夕薫の顔を見て、それから僕の顔も見る。

「お前にはまだ早いよ」と僕は言う。

「なんで? 18禁の話なん?」

「そういうわけでもないわよ」と今度は真砂子が割り込んでくる。「平安貴族にとっては12歳からが大人なんだし」

「ほうら」

 夕薫はそう言い、僕にあっかんべえをする。真砂子はおかしそうに笑いながら、本堂に向かって進む。僕たち3人が砂利を踏む音だけが、境内に静かに響く。

「夕薫ちゃんは、六条御息所って知ってる?」

「知りませんね」

 真砂子は歩くペースを落として、六条御息所の話を夕薫にする。嵯峨野に行った折に僕にしてくれたのとほぼ同じ内容だ。


 話が終わると同時に、改装されたばかり、といった感じの立派な本堂の前に着く。

「『源氏物語』ってね、消滅と再生の物語だと私は思うの」

「消滅と再生、ですか?」

「そう。あるヒロインが亡くなったり都を離れたりして物語から退場させられた後、似たような魅力を持つ女性が光源氏の前に現れるの」

「なんか、せつないですね」と夕薫は小さく言う。

「六条御息所が伊勢に下って消滅した直後に光源氏はこの地に流れ、明石の君が登場するのよ。六条御息所と明石の君は、とてもよく似た女性として描かれるの」


ほのかなるけはひ、伊勢の御息所に、いとようおぼえたり


 真砂子が暗誦したその言葉が『源氏物語』の一節であることは僕にでも分かる。

「なんだか、六条御息所が、かわいそうですね」

 本殿を仰いでいた真砂子は、夕薫の方に顔を向ける。

「そうね、ほんとに。でも、のよ、それが、現実だから」

 夕薫はなかなか表情を好転させない。

「六条御息所にとってはかわいそうだけど、明石一族にしてみれば大きなチャンスだったのよ。だから、明石入道は、貴族たちの重要ツールだったきんを弾いたりして光源氏に猛アピールしたの。その、2人の語り合いの場所だと推定されているのが、この善楽寺ぜんらくじよね」

「で、明石入道の思いは叶ったんですか?」

「結果的には叶ったわね。明石の君はプライドが高くてなかなか心を許さなかったけど、最終的には光源氏と結婚することになるの」

「なんだか本当にあった話みたいだけど、『源氏物語』って、フィクションなんでしょ?」

「もちろんそうよ。しかも紫式部は実際にこの明石を訪れたわけではなく、友人の話を聞いて想像力を働かせて書き上げたって言われてる」

「現実と虚構の区別がつかなくなりますね。すごく深いです」

 夕薫はそう言い、本堂を見上げる。反り上がった屋根は青い空を指向している。

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