Scene28 ちゃらい男
❶
西明石で姫路バイパスを降り、再び国道2号線に入った時、空はいよいよ澄んで高くなってくる。とはいえ、一般道は交通量が多く、これまで心地よく走っていたパサートも力を出せずに苛立ち気味だ。
「高速代ケチるからやん」
夕薫はガムを紙に包んで、コンビニの袋に放り込む。真砂子はべつだん何も言うことなく、風景を眺めている。工場があり、大きな回転寿司があり、ディスカウントストアがある。典型的な日本の郊外的な風景がゆっくりと窓の外を流れていく。
「ところで、先生、彼氏とかいるんですか?」
夕薫はだしぬけに言う。真砂子は夕薫の方に顔を向け、「さて、どうでしょう?」とおどけて見せる。
「最近、できたんじゃないですか?」
「え、なんで?」
「勘ですね。うちの高校入試のあたりらへんから、何となくそんな雰囲気になったような気がするんですけど、気のせいですか?」
「そんなことを聞くもんじゃないんだよ」
僕は、思わず熱くなる。真砂子は含み笑いを浮かべたままだ。
「めっちゃモテるんやろうな、山野先生は」
「モテてたら、とっくに誰かと結婚してるわよ」
真砂子は顔の上に笑顔を貼り付けている。
「いやいや、先生はモテるから、結婚せえへんのですよ」
「どういう意味?」
「心に余裕があるんやと思う」
真砂子はおかしそうな顔をする。
「よう言うやないですか、強い犬ほど吠えないって」
「私は犬なの?」
「違いますよ。うちが言いたいのは、モテる女ほど、騒がないってことです」
真砂子は一瞬動きを止める。
「先生みたいにオーラのある女の人には、ちゃらい男はなかなか近寄って来れないんですよ。だって、世の中って、圧倒的にちゃらい人の方が多くないですか?」
「そんなこともないとは思うけど」と真砂子は言う。
「なあ、夕薫、俺はどうだ? ちゃらいか、ちゃらくないか?」
「父さん、あんたはおっさん臭い」
夕薫は大儀そうな表情でそう切り捨てる。
いよいよ明石市街に入る。
明石川を渡る時、真砂子は河口の方を指しながら「ほら、この川が瀬戸内海につながるんだよ」と夕薫に言う。2人の視線の先には海がきらめいている。
「うわ――、きれいやな――」
その声を聞くと、この間新幹線から見た瀬戸内の光景を思い出す。あの時一瞬で通り過ぎた街に、今、夕薫を交えた3人で訪れている。変な感じだ。
明石駅近くの駐車場にパサートを停める。駅舎は大規模な工事中で、駅前にはダンプとクレーンの不協和音が轟いている。
「寒――っ」と夕薫は声を上げ、トランクからジャンバーを引っ張り出す。
「お前、そんなスカートはいてくるからやろ」
「下にタイツはいとるやん」
真砂子は僕たちのやりとりを見ながら、一歩引いたところに立っている。
国道から1本入っただけで、潮の香りが漂い、庶民的な路地が続くようになる。魚屋と釣具屋が目立つが、その間には荒物屋があり、まんじゅう屋があり、仏具店もある。わざわざ神戸まで出なくても、この街の中だけで生活が完結できそうだ。姫路も人情の街だが、ここはまた別の味わいの生活感がある。
「ところで、どこに行くんですか?」
夕薫は聞く。
「今日はね、ミニ『源氏物語』ツアーをしようと思ってるのよ。物語に出てくる場所を訪ねてみようかなって」
「へえ~、千年以上も前の話に出た場所がまだ残ってるんですか?」
「そうよ。『源氏物語』はフィクションだけど、物語の舞台だと想定されるところは人々に語り継がれながら、今なお残ってるの」
「へえ」
「で、最初に行くのは?」
僕は尋ねる。
「光源氏と明石入道の邸宅跡に行きます。都から流された光源氏が、明石入道に導かれてここにたどり着いたって話を、以前しましたよね」
「え」と夕薫は声を出す。
「そんな話したんですか? いつ?」
「いやいや、ちょっと先生と雑談することがあってね、その時に、話が逸れて、ほんのちょろっとそういう話題になったんだ」
僕が弁明すると、夕薫は「へえ、そうなんや」と返す。
「ごめんなさいね、私、『源氏物語』が常に頭に入ってるから、ついつい余計な話をしちゃうのよ」と真砂子も火消しにかかる。
それから『源氏物語』の話はいったん休止になる。
❷
観光スポットにもなっている「魚の棚商店街」を過ぎると、少しずつ商店が消え、たちまち日本の漁村の風景に様変わりする。
「私、この辺りの感じが好きなんです」
真砂子は言う。
「うちもです」と夕薫は同調する。「都会もいいけど、こんなのんびりとした所もいいですよね。なんとなく、島根のじいちゃん
「あ、そうか、お父さんの実家は、海に近かったわね」
「お盆の祭りとか、けっこう盛り上がりますよ。近所の人たちが市場に集結して、焼き鳥焼いたり、盆踊りを踊ったりするんですけど、くじの景品がやばいんですよ。巨大な鯛とか、ハマチとか、ジュースも1ケース丸々もらったりとか、とにかく人の割には景品が豪華で、しかも何回ひいてもオッケーなんです」
「すごいわねえ。私も行ってみたいなあ。くじをひかせてもらえるかなあ?」
「そりゃ、先生みたいな人が行ったら、漁協のおっちゃんらは大喜びでしょう。両手に持ちきれへんくらい、いっぱいモノをもらえますよ」
僕は2人の会話に耳を傾けながら少し後ろを歩く。2人の前に煙のような雲を浮かべた空が、大きく広がっている。
「昔から、この明石は、ずいぶんと栄えていたみたいですね。豊富な海の幸で、港は賑わっていたようです。橋田さんの実家のお祭りみたいだったのかもしれません」
「へえ」と夕薫が声を上げる。
「近畿の『畿』っていう漢字は何を表してるか知ってる?」
真砂子の問いに夕薫は考えるが、すぐに、わからないです、と答える。
「都を表してるのよ」
「なるほど、都に近いから近畿、っていうわけか。さっすが先生。っていうか、ぶっちゃけ、山野先生って国語の先生より詳しいですよね」
夕薫はいかにも中学生という雰囲気を見せる。
「平安時代は京都の辺りから須磨までは
「なるほどね」
夕薫は声を上げる。
真砂子はやはりプロだなと思う。自分の世界に夕薫を惹きつけている。
「だから、須磨に流離して心が折れそうになっていた光源氏は、この明石に来てびっくりするの。なんて賑わいがあるんだろうって。しかも明石入道の家ときたら、都の光源氏の
目の前には、色褪せしたアスファルトの路地が冬の日差しに照らされている。潮の香りをたっぷりと含んだ風が吹く中、真砂子は足を止め、右手を差し出す。
「そして、ここが明石入道の邸宅だったとされる場所よ」
真砂子が示した先は白い塀に囲まれ、中には大きな寺がある。門には「法寫山 善楽寺 円珠院 戒光院」と彫られた立派な石柱が立っている。いかにも由緒ある構えだ。
僕たちは真砂子を先頭に門の敷居をまたぐ。境内は手入れが行き届き、丸石が敷かれた参道は土すら上がっていない。
野宮神社と比べても各段に明るい。ここへ来て人生を好転させた光源氏の陰に、ひっそりと伊勢に下ることになった六条御息所の不遇が、かえって、強調されるようだ。
「あ、見て見て、『明石入道の碑』って書いてあるやん」
夕薫は声を上げ、石塔の元に駆け寄る。
「ここが明石入道の邸宅跡とされる場所ね。光源氏や明石の君も、この地を訪れてるのね」
真砂子は回想するように言う。僕も石塔の前に立ち、平安時代の明石の空に想いを馳せる。磯の香りと人々の賑わいが間近に聞こえてくる。
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