Scene27 最後のロング・ドライブ

 その日の空には少し雲がかかっていた。

 開店前のザ・モール姫路の駐車場に車を入れたとき、すでに真砂子はそこに立っていた。

「やばーい、マジで山野先生がおるやーん」

 後部座席の夕薫は、ベージュのトレンチコートを着た真砂子を見るやいなや騒ぎ始める。この子は何も気づいちゃいない。密かに胸をなで下ろす。

 真砂子も僕にではなく、夕薫に向かって大きく手を振る。僕と2人でいるときには見せない、はじけんばかりのリアクションだ。

 車を完全に停止させると、夕薫はドアを開け、犬のように外に飛び出る。

「先生――っ」

 2人は両手をつなぎ、ぴょんぴょん跳びはねる。

「先生、お久しぶりです! うちの父さんから聞いたと思うけど、熊本の高校に受かったんですよ」

「よかったね。でも、寂しくなるなあ、これから」

 真砂子はほぼ完璧な笑顔を浮かべてはいるが、僕にはその笑顔のジグソーパズルのピースがいくつか欠けていることがわかっている。

「先生、LINEしましょうよ」

「いいわよ」

 2人はスマホを出してアカウントを交換する。ものすごいスピード感だ。それを終えた後になって、真砂子は僕に挨拶をする。それから2人は揃って後部座席に乗り込む。ドアを閉める音がドスンと響く。


「重厚感のある車ですね」

 大手町の交差点を過ぎたところで真砂子が言う。

「なんていう車ですか?」

「パサートだよ。フォルクス・ワーゲンの車だ」

「へえ、外車なんですね、すごい」

「いやいや、中古で買ったんだ。会社の同僚の仲間がやってる店でね。ずいぶんと値引きしてもらったんだよ」

「でも、古い感じが全くしないですね」

「だって、ほとんど乗らないですもん、オブジェですよ」

 夕薫が割って入ってくる。

 日曜の朝とあって、国道2号線は至ってスムーズだ。姫路の道路は至る所でクラクションが鳴り響くことで有名だが、今日は総じて静かだ。姫路城も見えなくなり、ビジネスライクな建物が連なる風景を、パサートは快調に進む。

「普段はドライブに行くこととかないんですか?」

 真砂子は聞いてくる。ルームミラーを覗くと、真砂子と夕薫が並んでいる。

「ほとんど行かないね。休日も、移動するのはもっぱら電車かバスだな」

 そもそも、この車を買ったのは家族3人で移動できるようにということだった。まだ小さかった夕薫を連れて遠出するには、車の方が便利だったのだ。

「熊本へは持って行かれるんですか?」

「持って行きたいところだが、買い換えるよ。だいぶ年季が入っているし、燃費もいまいちでね。しかも最近は故障続きで大きな出費がかさむんだ。愛着があるから残念だけどね、心機一転だ」

「心機一転」

 真砂子は僕の言葉をそこだけ切り取る。

「いや、べつに深い意味はないから」

 僕は言う。

「じゃ、今日は、この車での最後のロング・ドライブですね」

 真砂子は噛みしめるように言う。


「山野先生と父さんが高校時代から知り合いやったことが信じられへんかったけど、だいぶ分かってきた。なんか、先輩と後輩って感じがするもん」

「そうか?」

「あ、でも、先輩は先生の方や。見た目は父さんの方がかなり先輩っぽいけど、先生の方が、性格が大人っぽい。気が利くし」

「おいおい、ふざけんな」と僕は言う。

「お父さんは、尊敬できる先輩だったよ」

 真砂子は今コンビニで買ったばかりのホットココアを軽く振り、ふたを開けて口をつける。

「どんな高校生やったんですか?」

「部活の姿が印象に残ってるなあ。放課後になると、ラグビージャージを着て、真っ先にグラウンドに出てボールを蹴ってたよ」

「へえ、今じゃこんなにメタボなのにな」

「おい夕薫、余計なことを言うなよ。俺が輝いていた頃の話が聞ける貴重なチャンスなんだから」

 おかしそうに笑う真砂子の姿が、バックミラーに映し出される。このまま夕薫の母親になってくれても違和感がない。

「そういえば、橋田さんは、大学に入ってラグビーをしようとは思わなかったんですか?」

「思わなかったね」

 即答すると、今度は夕薫が聞いてくる。

「なんで?」

「あんなにしんどいこと、大学に入ってまでしてたまるかよ。なにより、上下関係が嫌だったね」

「何言うとんの、いつも上下関係を大事にしろって、めっちゃ説教してくるくせして」

「いやいや、夕薫たちの上下関係とはわけが違うんだよ。殴られ、蹴られ、鼻血が出て歯が折れても、親たちは誰も疑わないんだよ。ラグビーでそうなったように見えて、むしろ、たくましく映ったりするんだ。だから、上級生からは容赦なくしごかれてたね。プレーがうまくいかないときなんかは、人格も完全否定されてた。人間にとって、自尊心が低下することが一番きついんだって、その時身にしみて分かったよ。大学入試でラストスパートが効いたのは、絶対ラグビーをしたくないっていう危機感があったからだ」

「そんなことがあったんですね、あの頃の北浦高校で」

「あの高校は落ち着いたいい学校だったけど、ラグビー部だけは別世界だったんだ。というか、どこの学校に行っても格闘技系の部活はそんな感じになるみたいだな」

「うちらには絶対分からん世界やな」

 夕薫は無関心に言い、ミントのガムを真砂子に渡す。真砂子は礼を言って受け取り、ガムを口にした後、大人の女性の表情で窓の外に目を遣る。


「ところで、何しに行くんですか、明石に?」

 加古川で姫路バイパスに合流した時、夕薫は素朴な疑問を投げかける。

「山野先生のお勧めなんだよね」

「そうなのよ、私、明石が好きなの」

「どのへんが? うち、行ったことないです」

「まず、太陽が降り注いでる感じが好きね」

 その言葉の通り、姫路では曇っていた空が明るくなっている。自動車専用道路に入ってからは、パサートの低くうなるようなエンジン音がシートを心地よく震わせる。

「これまでいろんなところに行ったけど、独特の空気が流れてるのよね、明石は」

「さすが、先生、コメントもシブいですね」

 夕薫は言う。

「昔から私は、静かな場所が好きだったのよ」

「へえ――、意外」

「それに、ほら私『源氏物語』にハマってるでしょ」

「出た。よく授業で話してくれてたやつ」

「ちょっと待て、数学の授業と『源氏物語』がどうつながるんだい?」

 僕が口を挟むと、真砂子が弁明する。

「ちょっとした雑談ですよ。塾の授業は学校よりも時間が長いし、生徒は学校が終わってから来るので、時には息抜きも必要なんです」

「先生、けっこう、マニアックですよね。光源氏とか紫の上みたいな主役よりも、脇役っぽい人の話が多かったですよね」

「そんなに詳しく話さなくてもいいのよ、夕薫ちゃん。恥ずかしいから」

 真砂子は夕薫の口元に手を近づけて制そうとしたが、夕薫はやめない。

「光源氏をたぶらかすフェロモン満点のおばあちゃんの話とか、背中は美人だけど鼻が異様にでかい女君の話とか、光源氏のマッサージをするためだけに近くに仕えた女性とか、光源氏のことがすごく好きだったけど、妻と一緒の場面に出くわしてしまってめっちゃヘコまされた女の人とか」

「もういいのよ、夕薫ちゃん、それくらいにしとうよ」

 真砂子は本気で止めにかかる。

「いいじゃないか、おもしろいよ、なかなか」

 僕はハンドルを握りながらフォローする。

「中学生には刺激が強かったかもしれないですね」

 真砂子が自省するように言うと、夕薫は「全然」と答える。

「そんなん、ググればいくらでも出てくるし、ネットの中にはもっとエグい話がいっぱいありますよ。その点『源氏物語』は純粋に面白いし、すごいきれいな話やし、高校に入ったら、絶対読んでみようと思ってますよ。大学入試の勉強にもなるし。そう思うのも、全部、先生の雑談おかげです」

「おいおい、お前、そんなやばいサイト開いとんのか?」

「べつに好きで見とうわけやないし。勝手にそっちにつながることもあるし、友だちの中でそういうのが異様に好きな子もおるんよ」

「中学生の間でもネット社会が広がってるんですよね。でもさ、夕薫ちゃん、どんなに時代が変わろうとも人々に読み継がれる物語って、偉大だよね」

 夕薫は、ですね、と同調する。

「で、明石も『源氏物語』に出てくるんでしたっけ?」

「あれ? その話、授業でしなかったっけ? 須磨と明石はとっても重要な場面として描かれてるから、機会があったら行った方がいいよって何度か言ったと思うけど、ひょっとして、忘れちゃったの?」

 夕薫はしばらく記憶をたどった後で、「数学に集中してたから、覚えてないですね」と開き直る。

 そんなやりとりを見て、心の底が温かくなるのを感じずにはいられない。

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