Scene26 どうせなら、やって後悔したい

 夕薫を交えた3人で食事行こうと、僕が真砂子に提案したのは、熊本敬真高校の入学手続きを終えた後のことだった。

「それって、大丈夫なんですか?」

「何が?」

「何がって、そりゃ、夕薫ちゃん、びっくりするでしょう?」

 真砂子は僕を見ながら、カフェラテに口をつける。

「でも、このまま熊本に行くわけにもいかないよ」

「まあ、そう言っていただけるとすごくうれしいですけど」

「大丈夫だよ。あの子も今は時間をもてあましているし、1週間後には旅立つんだ。姫路で想い出を作っておこうって言えば、何の疑いもなく来るはずだ。しかも、あの子は君のことが好きなんだ」

 僕は専用の小さなカップをつまんで、エスプレッソをすする。

 この『PRINCESS ROAD CAFE』に来るのも、ひょっとしてこれが最後かもしれない。ひときわ苦いここのエスプレッソが、僕は好きだ。

「ひとつ聞いてもいいですか?」

 真砂子は真剣なまなざしをテーブルに落とす。

「3人で食事をする、意図って、何ですか?」

 僕は小さなカップを置く。

「意図は、夕薫のリアクションを見ることだ」

 真砂子もカフェラテの大きなカップを置く。

「大丈夫ですかね? なんか、私、夕薫ちゃんにとってすごく悪いことをしてるような気がするんですけど」

「大丈夫か大丈夫じゃないかっていわれると、それは、大丈夫だと思う」

 僕はもう1度エスプレッソを口にする。より苦みが増したように感じた瞬間、スムースジャズのBGMが、近くに寄り添ってくるような錯覚を感じる。

「逆に」と僕は言う。

「君の方は、大丈夫なのか?」

「何がですか?」

「何がって、ほんとうに、熊本に来るの?」

「行ってもいいですか?」

 捨てられた仔犬のような2つの瞳がこっちを向いている。

 僕は小さく、それでいて、たしかに頷く。ジャズは再び適正な距離感を取り戻す。

「ならば、どこかで夕薫と会っておかなければならないじゃないか。俺たちは1週間後には行ってしまうんだ。もう、時間はないよ」

 だが真砂子の表情は冴えない。

「何が引っかかってるのかな?」

「やっぱり、夕薫ちゃんに悪い気がします。夕薫ちゃんは、お母さんに帰ってきてほしいと思ってるんじゃないでしょうか?」

 僕には夕薫の心の中がはっきりとは見えない。しかも最近は、秋江のことをほとんど話さない。受験で精一杯だったのだ。

「それに、まだ正式に離婚されているわけじゃないですし」

「その点については大丈夫だよ。復縁する気なんてない。熊本に行って、落ち着いたら、きちんと決着をつけるよ。それとも、そこがどうしても引っかかるなら、いますぐにでも手続きをしても構わない」

「いえ、落ち着いてからにしてください」

 真砂子は言う。だが、険しい表情を浮かべたままだ。

「何でもそうですが、いざ、現実を目の前にすると、尻込みしてしまいますね」

「もちろん、無理は言わない。俺の人生に君を引き込むわけにもいかないから。でも、俺としては、君が熊本に行きたいといってくれるのは、心からうれしいよ」

「橋田さんって、ほんとうに、人を傷つけない方ですね」

 どういう意味だ、と聞いても、真砂子は首を振るだけだ。

「正直、私、今になって、すごく揺れています。橋田さんのことはすごく好きだけど、夕薫ちゃんのことと、奥さんのことがどうしても気になるんです」

「だから、妻のことは気にしなくていいんだ。全く」

「いえ、橋田さんはそう言ってくれるけど、夕薫ちゃんのことを考えると、奥さんのことを抜きにするわけにはいかないんです」

 僕たちは、引退した投手が観客のいないスタジアムのマウンドを呆然と眺めているかのような沈黙を共有する。

 真砂子はしばらく経ってから、静かに、強く言う。

「でも、1度きりの人生、何かをして後悔する方が、何もしないで後悔するよりも、後悔が少ないと思います。橋田さんは夕薫ちゃんのリアクションを見るためだって言われたけど、もっとカジュアルに、夕薫ちゃんの合格祝いに、単に3人で食事を楽しむというくらいのノリだったら、行けそうです」

「オッケー、そのコンセプトだ。じゃあ、どこへ行こうか?」

 真砂子は、今度はあまり考えることなく返してくる。

「明石とか、どうですか?」

「明石って、この間新幹線で通過した、あの明石?」

 真砂子はほんのかすかに頷く。

「俺はいいけど、明石のどこに行くの?」

「町並みを歩いてみたいんです。寒いでしょうけど、きっと晴れてるから、気持ちがいいと思うんです」

「なるほど」

「夕薫ちゃんはどんなものが好きですか?」

 それについて考えてみる。基本的に好き嫌いのない子ではあるが、真砂子と3人で食事をするとなると何を食べればいいのか、ちょっと思い浮かばない。

「行ってみて、あの子に決めさせたらどうだろう」

 僕がそう答えると、真砂子は、そうですね、それがいいですね、と返し、カフェラテのカップを手に取り、ゆっくりと口をつけ、噛みしめるようにしてそれを飲む。


 BGMはいつの間にか聞いたことのある曲に替わっている。だが曲のタイトルをなかなか思い出せない。この単調なリズム、心が静かに浮き立つメロディ、姫路に来る前によく聴いていた曲だ。

 必死に記憶をたどると、やっとのことで出てくる。

『Non―Stop To Brazil』だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る