Scene25 緑色のイルミネーション
❶
「どうでしたか、熊本は?」
真砂子は店員が運んできたカルボナーラをフォークに絡めながら聞いてきた。
「それが、予想以上に、良かったんだ」
ダウンジャケットを椅子の背もたれに掛けた彼女は、薄いピンクのカーディガン姿になっている。
「びっくりするほど姫路によく似てるんだ」
真砂子は手を止めて、顔をこちらに向ける。京都に行ったときよりも濃いめのメイクをしている。
「まず、熊本駅と姫路駅がそっくりだった。建物の感じも、周辺の風景も。町並みにも共通点がたくさんあったね。中心に熊本城があって、そこから街が拓けている。大きな商店街だってある。規模も雰囲気も、この『みゆき通り』とすごくよく似ていた。とにかく行く先々で姫路を感じることができたんだ。いったい、何なんだろうと思ったね。夕薫も全く同じことを言ってたよ。ひょっとして、何かがつながっているのかもしれない」
「へえ」
真砂子は目を輝かせて反応する。だが、その目元はくたびれている。
「学校の方はどうでしたか?」
「良い学校だったよ。静かで、生徒はみな真面目で、品があった。伝統校なんだけど校舎が改装されたばかりらしくてとてもきれいで、外国人の先生もいたね。活気を感じたよ」
「そうですか、それは良かったです。夕薫ちゃんも安心したでしょうね」
真砂子は薄く笑い、小さく開いた口にパスタを入れた。
「上級生が付き添ってくれてね、試験会場まで案内してくれたんだ。そのうちの1人はスペインからの留学生で、夕薫もカルチャーショックを受けてた。自分よりも日本語がうまいって」
「試験の手応えは?」
「こればかりはよく分からないけど、あの子なりにはよくできたみたいだね。姫路学院の問題よりも解きやすかったみたいだ。特に数学がよかったって言ってたよ。山野先生の御指導のおかげだな」
僕がそう言うと真砂子は「そんなこと、ないです。夕薫ちゃんが優秀なんです」と応え、水の入ったグラスに唇を浸した。
「結果はいつ頃出るんですか?」
「おそらくもうすぐだ。ただ、もし不合格になっても、第2希望の高校もある。中学校から事情が説明してあるらしく、そこはどうやら大丈夫だという話だ。いずれにしても、なんとかなるだろう」
「第1希望に合格するでしょうけどね」
真砂子は言う。僕はパンにバターを載せて、口に入れる。
「それより、姫路を離れるのが、そろそろつらくなってきたよ」
「大丈夫ですよ。熊本に行ってしまえば、すぐに気持ちが切り替わりますよ」
「姫路を離れるというより、君と会えなくなることがつらいんだよ」
真砂子はまっすぐに僕の顔を見て「私も橋田さんと会えなくなるのがすごくつらいです」と声を震わせ、今にも泣き出しそうな表情に切り替わる。
外には仕事帰りのサラリーマンたちの姿がある。年度末を控え、様々なところで宴会をしている。
「ところで、俺たちにとっての野宮神社って、別れの場所なんだろうか、それとも縁結びの場所なんだろうか?」
僕はそう言った後、フォークとスプーンを置く。
「あれからずっと同じことばかり考えてるんだ。頭がおかしいんだろうか?」
「いいえ、橋田さんらしくていいと思います」
「そうかな? あんまり褒められている気もしないね」
「もちろん褒め言葉ですよ。人から本当に信頼されるのは、橋田さんみたいな方だと心からそう思います」
「君はいつも僕を持ち上げすぎる」
「私も同じことを考えてましたよ。私、本当に好きな人ができたら、いつかはあそこに行きたいってずっと思っていたんです。六条御息所にお礼参りするつもりで。そして、その時には必ず、1人じゃ行くまいって、意地を張っていました。そしたらまさか橋田さんと再会することになって、しかも2人であそこに行く機会に恵まれました。だから私は、恋愛成就の想いを込めて神様にお参りしましたよ」
真砂子の表情にゆとりが戻ってきた。
「あ、そういえば、榊、覚えてくださってますか?」
「君が野宮神社で折ったやつ?」
「そうです。あれも、ちゃんとリビングに生けてありますよ。可愛いガラスの花瓶に入れて」
神妙な心持ちで聞いていると、彼女は話を中断し、「今の話、
「鬱陶しくなんかないよ」
僕は即答する。
「でも、橋田さんは熊本に行くことを確定させちゃいました。もちろん、夕薫ちゃんのことは、ほんとうに良かったって、心からそう思ってます。そうじゃなくて、タイミングなんです。野宮神社に行った直後に橋田さんとの離別が確定したから、ああ、あそこは私たちにとっては別れの場所だったんだなって思っている、それが残念なだけなんです」
真砂子は再び表情を曇らせる。
店内の掛時計は19時になろうとしている。夕薫には、今日は遅くなるから自分で作って食べておいてくれと言ってある。
「正直、野宮神社を別れの場所にはしたくない」
「私だって、同じです」
その目には涙がにじんでいる。それは、バンジージャンプをためらう人のように、落ちそうで、落ちない。
「俺はいったい、どうすればいんだろう?」
「私、熊本について行っちゃだめですか?」
彼女の黒い瞳を凝視する。今の言葉は、僕が彼女に最も言ってほしい言葉だ。だが僕には夕薫がいる。そして真砂子は夕薫にとって恩師だ。熊本に行くことをやっとのことで承諾した夕薫に真砂子のことを話すのはハードルが高い。僕にとっては、姫路城の天守閣よりも高い。
「べつに一緒に住んでくださいって言ってるわけじゃないんです。ただ、橋田さんの近くにいたいんです。だめですか?」
「そこまで言ってくれて、うれしいよ。でも、それじゃ君に迷惑がかかりすぎる」
「私は自分でちゃんと考えた末に選択してます。もし橋田さんが鬱陶しいからやめてくれっていわれれば、引き下がります。でも、そうでなければ、私も熊本に行きたい」
「たとえば仕事はどうするの?」
「学習塾を探します。今の職場に相談すれば、すぐ見つかるはずです。業界にはネットワークがあります。経験のある講師を雇いたいというのはどこも同じですから」
熊本は火の国だという。僕の頭の中もぐらぐらと燃えている。
これまで僕は、モラルの中で生きてきた。モラルから逸脱した人間の行く末がどうなるかを、何度か目撃もしてきた。まともな職業人でありたいなら、それはベースの部分だと思う。しかし、その価値観が、頭の中で燃える。
❸
食事を終え、真砂子のアパートへ向かう途中、
姫路城を西に進み、ザ・モール姫路の緑色の看板が見えるところに真砂子のアパートはあった。4階建ての、瀟洒な佇まいだ。エレベーターで3階に上がり、一番奥が真砂子の部屋だった。
「私以外、人が入らないんで、散らかってますよ」
真砂子はそう言いながらドアを開け、明かりをつける。同時に、ライトグレーで統一された清潔感のある部屋の全貌が明らかになる。花のような上品な香りも立ちこめている。
僕は後ろから彼女を抱きしめ、リビングになだれ込みながらダウンジャケットとカーディガンを脱がそうとする。
「ちょっと、待ってください」
真砂子は部屋の照明を夜間灯だけにし、暖房のスイッチを入れる。
改めて、僕は彼女のカーディガンのボタンを外す。その時、高校時代の山野真砂子の姿を強烈に思い出す。あの頃の僕は、彼女の生の身体を想像することも、たぶん、ほとんどなかったと思う。
服を脱がせた後、背中からブラジャーを外し、真砂子を裸にする。
すらりと筋の通った背中に口づけをしながら、尻まで下りていく。あの時、セーラー服の中に隠れていた身体を一つ一つ、時間をかけてたしかめる。
「先輩、大好きです」
真砂子は何度もそう言った。
「俺もだよ」
紛れもない、本心だ。
レースのカーテンには、ザ・モール姫路の緑色のイルミネーションが涙のようににじんでいる。
❹
ずっと待っておりました。
わたくしは、これを待っていたのです。
わたくしは、どうしても、どうしても、あなたさまがほしうございました。
あ、あな……
わたくしも、ほんとうに愛しているのです。
できれば永遠にこのまま結ばれていたいのです。
でも、これ以上のことは、求められません。
もう、あんなに苦しい時間を過ごす気力が、わたくしには残っておりません。
それにしても、ほんとうに素敵でございます。
わたくしは、もう十分でございます。
ああ、もっとください。あなたさまの魂を、永遠にわたくしの中に宿してくださいませ……
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