Scene24 レモンの涙

「今思ってることを、話してくれないか?」

 商店街の総菜屋で買った酢豚を食べながら切り出したとき、夕薫は僕の顔を凝視しながら口を真一文字に結び、花がしおれるようにゆっくりとうつむいて、箸を置いた。 

「つらいに決まっとるやん」

 眉間にしわを寄せ、睨むような目つきでテーブルを見ている。頬には涙が伝わっている。レモンを絞り出したかのような涙だ。

 たしかにつらいかもしれないがどうしても熊本に行かなければならないんだ、という大人の事情を僕は話そうとする。

 だが、その直前で、真砂子の助言が脳裏をかすめる。


「一番まずいやり方は、有無を言わさず強引に熊本に連れて行くということだと思うんです。夕薫ちゃんの願いを叶えることはできないかもしれないけど、それでもしっかりと話し合うことが大切だと思います」


「せっかく一生懸命勉強して合格したんやし、友だちだっておる。みんなええ子ばかりで、これまでいっぱい遊んで、やさしくしてくれた。友だちと別れるのが、しんどいんや」

 その時、夕薫のスマホがテーブル全体を震わせる。夕薫は画面を見ることすらなく、ジャージのポケットに無造作に突っ込む。

「うち、これまでいっぱいつらい思いしてきたやん。でも、友だちのおかげで助けられてきたんよ。で、今度は、そんな友だちともお別れせなあかんの?」

「ごめんな」

 僕が頭を下げると、夕薫はやおら立ち上がり、いつものように自分の部屋へと消えた。ドアがバタンと閉まる音が消えたとき、僕の心もぐっしょりと濡れていることに気づく。


 夕食を片付けた後、ダイニングテーブルでバラエティ番組を見ながらスマホを握っている僕の前に、長風呂から出てきた夕薫が静かに腰を下ろす。さっきの涙はさっぱりと流れている。

 夕薫は書類をテーブルの上に置く。「熊本敬真高校」と書かれた募集要項だ。

「さっき先生が、この学校なら今からでも間に合うって言ってきた。帰って父さんに見せるようにって」

 僕は書類と夕薫の顔を交互に見る。

「熊本県内でもトップレベルの私立らしくて、1人1人にタブレットが配られて、それを使って授業をするらしい。海外の姉妹校の生徒ともコミュニケーションできるし、成績優秀者にはオーストラリアに留学もできるらしい」

「それは、姫路学院にはない制度なんか?」

「姫路学院じゃ、さすがにタブレットは配られへん」

「それなら、そのタブレットを使って、姫路の友だちとも会話ができるんじゃないか?」

「そんなん、普通にスマホ使えばできるやんか」

 ため息を吐いた後ですぐにまじめな顔に戻る。

「父さんと話し合ってくれって、先生は言いよった」

「お前はどうなんだ?」

「今のまま宙ぶらりんも不安やから、とりあえずその高校に決めたい。入試もあるから、もしそこがええ学校なら、勉強もせなあかんし」

「ほんとうにいいのか?」

「良いも悪いも、しかたないやんか。うちだって、まだ父さんおらんと生きていけんのやし」

「ありがとな、ほんとうにありがとう」

「まだ完全に決めたわけじゃないから。そこんとこよろしく」

「わかった。それより、父さん、これまでお前の話あんまり聴いてやれなくて、悪かったな。もし、これかか何かあれば、遠慮なく言ってくれよ」

「どうしたん? 何かあったん? いつもと違う。先生みたい」

 僕ははっとさせられる。

「父さんに言われんでも、うちは分かっとるし」

 そう言って夕薫は募集要項を僕の前にスライドさせ、席を立ち、また自分の部屋へと消えていった。寝る前に「おやすみ」と言わなくなってから、もう2、3年は経つだろうか?

 

「すまないね、忙しいのに電話なんかして。昨日のお礼を言おうと思ってね」

 予想に反してすぐに真砂子が電話に出たものだから、気の利いた台詞が返せない。

「いえ、そんなに忙しくはないです。私の方こそ、お礼を言わなければならないです。それより、ちょうど私も今、橋田さんに電話しようと思っていたところなんですよ。なんか、偶然ですね」

 普段よりも低めの安定感のある声で真砂子は応えてきた。その声を聞いて僕の心も深く落ち着いた。

「それが、夕薫との話がうまくいってね、そのお礼もあるんだ」

「あー、よかったです」

 真砂子は腹の底から吐き出すように言う。

「君がアドバイスしてくれたとおりだった。あの子は俺の気持ちをよく分かってくれてたよ」

「頭が良いですからね」

 その話しぶりは疲れているようにも聞こえる。僕たちは無言を共有する。

「今日は、今から、授業?」

「そうですね、公立受験対策の授業があるんですけど、数学は20時からなんで、今の時間はけっこうゆっくりしています」

 本音を言うと、すぐにでも塾に足を運んで、真砂子に会いたい。

「そうか。授業前の貴重な時間、失礼したね」

 真砂子は、とんでもないです、と若干声を大きくした。そうして、電話を切ろうという空気が僕たちの間に流れた時、彼女はこう言ってきた。

「じゃあ、熊本へは、いつ旅立つことになるんですか?」

 声が遠くに感じられる。

「まず、来週中に向こうの高校に行って、面接とそれから試験を受けることになる。で、その後も、何回か行ったり来たりして、最終的に引っ越すのは、3月25日を考えている。夕薫のことがあるから少し早めに行っときたいんだ」

「さくさくと事が運ばれていきますね。なんか、寂しいです」

「いやいや、そんなことはない。俺だって、できることなら、姫路に残りたいんだから」

「3月25日の、何時くらいに新幹線に乗るんですか?」

「そうだな。昼前の便で行こうとは思っているけど、まだ、はっきりしないね」

「あの……」

 真砂子は、唾を飲み込んでから、こう続ける。

「もしよろしければ、橋田さんが熊本に行かれる前に、ご飯を食べに行ったりしたいです」

「でも、君は忙しいんじゃないのか?」

「3月8日の公立入試が終わってからは、時間ができます」

「君が良いのであれば、俺は構わないし、ぜひもう一度会いたいという思いはあるよ」

 真砂子は受話器に息を吹きかけた。

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