Scene23 忘れていた恋心
❶
西宮を過ぎた直後に、真砂子がふと言った。
「もうすぐ春の甲子園が始まりますね」
彼女はトレンチコートの
「私の教え子も甲子園に出たことがあるんですよ」
目の前はぐったりとつり革にもたれたサラリーマンたちが立っている。
「しかもベスト8とか、けっこういいところまで勝ち進んだんです。2回ほど応援に行ったなあ。そのうちの1回は、ちょうど私が数学を教えた子の打席で雷が鳴りはじめて、長いこと中断したんです。レアな体験でした」
「で、どうだった、その後ヒットを打った?」
「いえ、それが、よく覚えてないんです。さんざん待たされた後、ようやく彼がバッターボックスに立った姿だけは、はっきりと焼きついてるんですけど、結果がどうだったのか、思い出せないです。だめですね」
真砂子は苦笑いを浮かべる。
「そういえば、俺が高校生の時も、花園予選の前に応援してくれたよな」
僕はついにこの話題を持ち出す。真砂子は笑みを浮かべたまま、なつかしいですね、ドリカムの世界ですね、と小さく言う。
「結局花園には行けなかったけど、あの敗戦からはその後の人生に生きるいろんなことを学んだ気がするね」
「たとえばどんなことですか?」
「たとえば……そうだな、どんなに努力しても世の中には叶わないことがあるっていうこと、それから、どんなに苦い経験でも、時間が経てば必ず想い出に変わること、だからこそ、結果よりもプロセスの方が大事だということ、その他もろもろだな」
「素敵ですね」
真砂子は線香花火を思わせるささやかさで言う。
「やっぱり、高校時代の部活ってとっても大事だし、橋田さんの場合は、そういう経験を人生につなげてらっしゃるんですね」
「いやいや、そうたいしたことでもないよ」
真砂子がそんなふうに言うものだから、思わず恐縮してしまう。
「ところで君は、何部だったっけ?」
「最初は英語部に入っていました。でも、2年生になる前に辞めてしまって、その後は帰宅部でした。受験一本でしたね。だから、橋田さんみたいに、泥まみれになって、ラグビーに情熱を燃やしている人たちが、何というか、まぶしかったです」
「今はもうあの頃の面影はないけどね」
「橋田さん、覚えてないだろうな。私が初めて橋田さんと話をした時のこと」
彼女の言うとおり、覚えていない。激動の高校時代の記憶の中に完全に溶けてしまっている。真砂子は、それもむべなるかな、とでも言わんばかりの表情を浮かべる。
「忘れもしません、私が1年生の時の、運動会の練習の時でした」
場面を限定されたところで、記憶は蘇っては来ない。
「私、高校に入学したての頃は、どうも学校になじめなかったんです。実家は山の中にあったし、中学もすごく人数が少なかったから、北浦高校の人数の多さに圧倒されたんですね。だから、初めての運動会の練習の時は、もう人、人、人、っていう感じで、どうしようかと思ってたんですけど、橋田さんが声を掛けてくださったんです」
「俺は何て言った?」
「君はどこの中学校から来たのか、って聞いてきましたね。ちょうど応援合戦のダンスの隊形になっている時で、たまたま橋田さんは私の隣だったんです」
「たいして気の利いた言葉でもないな」
「いや、それが、私にとってはすごくうれしかったんですよ。そもそも、高校に入って、誰かから話しかけられることなんてほとんどなかったし、しかもラグビー部の先輩に声をかけられて、心の中では舞い上がっちゃいました」
どうしても思い出せない。もう永遠に蘇ってこないシーンだ。
「どうしてあの時橋田さんは、私に話しかけてきたんでしょう?」
だから、そう言われても僕には答えようがない。
「橋田さんは、つまらなそうにしている私に気を遣って、テンションを少しでも上げてやろうと思って、何気ない言葉をかけてくださったんですよ。そのことが、何よりもうれしかったです。あれ以来、放課後、図書室の窓からラグビーの練習をする橋田さんを追いかけていたんですよ。気づいてましたか?」
「練習に集中してたからね」と僕はとぼけた感じで言う。
「でしょうね。一度もこっちを見てくれなかったですもん」
実を言うと僕は、グラウンドを駆ける陸上部の女の子に恋をしていたのだ。もちろん、そんなことを今言うべきではないのは重々承知しているが。
それより真砂子がなつかしい話をするものだから、記憶の中に母校の風景がだんだんと広がっていく。校舎、グラウンド、校庭を渡る潮風……
「時間が経つって、ほんとうに早いですね。高校生の時の記憶なんて、歴史の教科書に書かれてることみたいです。でも、今日こうやって橋田さんと2人で京都に行くことができて、私の歴史が変わりました。思い残すことがなくなりました」
電車はもうすぐ姫路に着く。そうすれば、僕たちは別々の家に帰る。僕はマンションに戻って夕薫と話をし、今月末から熊本に行くことに対する同意を得なければならない。それが実現すれば、真砂子とは会えなくなる。
横目で真砂子の様子をうかがう。彼女は苦笑いの残像を浮かべたまま、前を向いている。
その横顔は時折窓から漏れる陽光によってさっきから青白く照らされ、瞳もガラス玉のように力を失う瞬間がある。もしかすると真砂子は、歴史上の人物ではないかというあり得ない想像さえしてしまうほどだ。ほんとうは、僕の隣には誰もいない。僕はただ、高校時代の無邪気さに憧れるままに、真砂子の幻影と一緒に旅をしているにすぎない。
❷
次の停車駅は、姫路です、というアナウンスが流れたとき、空の低いところに傾きはじめたやわらかな夕陽が真砂子の頬に映っているのに気づく。京都で見た幻覚の名残なのか、こめかみがジンジンと痺れている。
タイムリミットが近付いてくる。このまま何もしないでいると、大きな後悔が残ることは目に見えている。かといって、僕には起こすべきアクションが見当たらない!
「やっぱり、姫路に戻ってくると、なんだかほっとしますね」
真砂子は僕を尻目にかけるかのように落ち着いてそう言い、彼女の手の上に置いていた僕の手をそっとかわし、足下のハンドバッグを持って膝に置く。
「楽しかったよ、ありがとう」
渇ききった口の中からかすれた声を絞り出すと、「私もです、ありがとうございました」と返ってくる。そのきっぱりとした言いぶりが、たまらなく寂しい。
「どうするの、これから、そのまま家に帰る?」
「ですね、橋田さんも、夕薫ちゃんが帰ってくる頃でしょう?」
「そうだな。大事な仕事が待っていた。まずはあの子の話にしっかり耳を傾けるということだったね」
妙に事務的になっている自分がいる。本心では、このまま帰宅することについて胸が塞がる思いなのだ。どうか真砂子の方から声を掛けてほしいと願う。「このまま帰るのはつらいから、もう少し一緒にいたいです」と。僕たちは嵐山の寺で深いキスをし、抱き合ったのだ!
だが、真砂子はこの期に及んで何も言わない。あの瞬間はデイドリームだったとでもいうのだろうか?
「ほんとうに、楽しかったです。ほんとうに、ありがとうございました」
姫路駅のバスセンターの前で、真砂子は僕から1歩離れて頭を下げた。俺も楽しかったよ、と気丈に振る舞うが、依然として城の巨石のような心残りを引きずっている。
真砂子は最後にふっと笑顔を浮かべた後で軽やかにきびすを返し、バスの乗り場へと足を踏み出していく。暗色のコートを身にまとったサラリーマンたちが彼女の周りをシャッフルするように往来している。その中で、ベージュのトレンチコートだけが、オレンジの陽光に映えている。
その時、彼女はくるりとこちらに体を向け、両手を口の前に持ってきてメガホンを作り、こう叫んだ。
「もし、熊本に行く前に、何かあれば、連絡してください」
僕は、もちろんだ、と応え、難破船から放り出された人のように、大きく両手を挙げる。
それでも1人でマンションに帰る間、心がキリキリと痛み、何度も呼吸が苦しくなった。もはや夕薫に熊本行きを説得することよりも、真砂子と別れなければならないことのほうがはるかにつらい。
今日、真砂子と京都に行ったことによって、恋心に火が付いてしまった。はたして今日の行動が良かったのかどうか、思わず考えてしまうほど苦しい。
恋心。
忘れていた恋心だ。
帰り道、商店街を歩きながら、あれっと思う。夕薫に熊本行きの話をすることが、怖くなくなっている。
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