Scene22 それが恋というもの 

 桂駅で京都線の列車に乗り換えても乗客はまばらで、僕たちはちょうど2人がけのシートにはまるように腰を下ろす。

「ひとつ、聞いてもいい?」

 真砂子は顔だけこちらに向ける。

「さっき、来る時の新幹線の中で、君が岡山で働いていた話をしたよね」

「しましたっけ、そんな話?」

があって仕事を辞めて、姫路に来たって」

 真砂子は含み笑いを浮かべている。

「いいんだ 答えたくなければ、パスしても構わない」

「べつに、たいしたでもないですよ」


 阪急列車の車内は総じて静かだ。大声でしゃべったり、立ち歩いたりする人もいない。窓から差し込む日差しが、木目調の壁に反射し、列車が揺れるたびにその光の角度も微妙に変わる。

「大学を出て、岡山で、かれこれ10年近く働きましたね。私なりに一生懸命だったけど、今思えば、たくさんの人を不快にして、迷惑を掛けてきたような気がして、嫌になったりもします」

「みんな同じようなもんだよ。若気わかげの至りだ」

 真砂子は薄っぺらいシートに背をもたれ、誰も座っていない優先席に目を遣る。それから、意味ありげな沈黙を挟んでから、こう言う。

「この話は、ほんとうに誰にもしてないんですけど、実は、岡山の会社で働いているとき、すごく好きな人がいたんです」

 窓から漏れる陽光が、一瞬、真砂子の横顔を青白く照らし出す。それを見て、わけもなくぞっとする。

「すごく年が上で、家族もある人でした」

 その青白い横顔の上を、住宅が作る影が次々と横切る。

「上司で、バリバリ仕事ができて、部下に対する配慮も感動的な人でした。見た目はあんまりイケてない感じだったんですけど、ずっと憧れていましたね。そのうち、残業の後とか、食事に連れて行ってもらうようになったりして、どんどん勘違いしてきて、ぬかるみにはまっていったんです」

「なるほど」

 不自然に語尾が上がる。

「最初は尊敬だったんです。でも、尊敬って、好きになることへの第一歩なんですね」

 その上司の姿がだんだん浮かび上がってくるようだ。

「でも、やっぱりよくないことをしたら、最後には必ずバチが当たるんですよ。ある時、三宮を歩いてたら、街中でばったり出くわしたんです。奥さんと、それから高校生くらいかなあ、娘さんと一緒でした。向こうは私を見た後、すぐに気づかないふりをしてそそくさとデパートの中に消えて行ったけど、私の頭のど真ん中には激痛が走って、とにかく何が何だか分からなくなって、涙が勝手に出てきて、その夜、メールをしました。すごく長いメールでした。今思えば、ほんとうに情けないです」


 列車は高槻を通過する。来るとき新幹線の窓から見えた工場群が遠くにちらほら見え隠れする。

「どうせ、結ばれることはないって分かってたんです。でも、それで良かったんです。会いたいときにちょくちょく会える関係が続いていけば、私は十分でした。だけど、ああやって家族と一緒の所を見ると、ものすごく現実を思い知らされて、とにかく惨めで、自分のやってきたことが本当に愚かだという事実を鏡で見せられたような気分になりました。だから、会社にも行けなくなったんです」

「君は悪くないよ」

 真砂子は冷め切った笑いを浮かべながら、スローモーションで首を横に振る。

「私も悪いし、あの人も悪いです。今思えば、それが恋なんだと思います。んです。人間って、自分の思うがままに生きようとすると、そのうちダメになっていくものなんだって、その時、つくづく悟りました」


 列車は緩やかにカーブする。真砂子の肩が僕に寄りかかってくる。体勢が元に戻ったとき、今度はガード下をくぐる。その影が、一瞬車内を暗くする。

「それからしばらく、外にも出られない日々が続きました。あぁ、このまま私は死ぬのかな、って漠然と考えたりもしました。それが、たまたまその時、仲が良かった会社の同期が、京都のある大学の先生の講演会に誘ってくれたんです。『源氏物語』についてのお話でした。ほんの気晴らしのつもりで参加したのに、すべてが心にしみる内容で、もう一度生きる気力みたいなのがふつふつと湧き起こってきたんです。その先生の著書を家に帰って読んでいると、物語にどんどんはまっていきました。六条御息所を知ったのもあの本でした。光源氏の妻に嫉妬し、やがては惨めになって、伊勢に下ってゆく。その姿にすごく共感して、岡山を離れる決心がついたんです」

 

 真砂子は僕と夕薫を見て、惨めな思いをしているというのだろうか?

 たまらなくなって真砂子の手の上に手を乗せる。すると少しタイムラグを置いてから、彼女も握り返してくる。そうして泣き顔とも笑顔ともつかぬ表情のまま少し上の方をぼんやりと眺めている。

 岡山での話は、急ブレーキでもかけられたかのように、そこでぴたりと終わった。

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