丸腰の剣豪(グランドフェンサー)
新免ムニムニ斎筆達
0:悩める少女、時代錯誤な乗客
春の冷たさをもつ道場の空気には、振動がほとんど無かった。
窓の外からかすかに小鳥のさえずりが聞こえるが、それも微々たる振動であった。
ここまで静かなのは、この広大な空間に誰もいないからなのだろうか?
否。
二人いた。長身の少女と、それと向かい合う短身痩躯の男が。
前者は、凛とした美しさを持った少女だった。細身でかつ出るところはそれなりに出たバランスの良い肢体。長い黒髪を後頭部で一束にまとめたポニーテールで、強さと端麗さを兼ね備えた顔立ち。大人になりかけた少女といった風貌であった。
後者は、少女より頭一つ分ほど小柄な壮年の男。笑い皺がかすかに刻まれたその顔は、温厚な性格を示唆している。けれども彼の娘である少女は知っている。普段は落ち着き払っているが、怒ると雷撃のごとく凄まじい迫力があることを。滅多に怒らないが。
一見すると正反対な特徴と性質を持った二人に共通している要素は二つ。
一つは、両者ともに白黒の道着姿であること。
一つは、両者とも同じ武術を体得していること。
半身の構えとなり、互いの出方を静かに伺う二人。
二人は微動だにしない。
そう。全く動いていない。
にもかかわらず、少女の額には汗の雫がいくつも浮かび上がっていた。
確かに外見上は止まったままだ。だが少女の内面では「氣」が緻密かつ活発に練られており、自らの構えを強固に形作っていた。
汗が一滴、また一滴と頰を滑って顎先に到り、畳に落ちる。
少女は潰されそうなほどのプレッシャーを感じながら、目の前の男を見据えていた。
彼の構えは驚くほどに自然体。まるで普段箸を使う手つきのように、ぎこちなさが皆無。
それでいて——付け入る隙が全く無い。
素人目から見れば、手が構えられた前以外ガラ空きに見えるだろう。
しかし、素人ではない少女には分かる。彼の間合いに入ればたちまち重力の「中心」を掴み取られ、簡単に投げ飛ばされてしまうと。
少女はゴクリと喉を鳴らす。
これが、東京一の柔術家の構え。
現在、世界中の武術がひしめき合い、世界有数の「武術の街」と化している東京。その中で一番になるということは、そのまま世界で一、二を争う実力者という意味につながる。本人は「武術の世界は広大無辺。私より強い者などたくさんいるさ」と謙遜しているが。
そんな達人中の達人とのマンツーマン指導を、自分は毎日受けているのだ。こんなこと、一国の指導者でもなかなか叶わないことである。
少女は、それを幸運と捉えている。
しかし、幸運ばかりに甘んじているわけにはいかなかった。
自分はあの化け物の領域に、一歩でも近づかなければならない。そうしないといけない理由がある。
あの怪物になりたいとすら思った。
そう考えると、体内から静かに構えを形作っていた「氣」に、燃え上がるような変化が起こった。
「——っ」
体の支えである膝の力を急激に抜き去り、刹那の自由落下状態を作る。すかさず前膝を鋭く前へ突き出すことで、垂直に落ちる体重の落下軌道を強引に前向きに変え、ほとんど前触れを作らずトップスピードで加速した。——水越流合氣柔術の運足『
一瞬で自動二輪を上回る速度を叩き出した少女の運足は、視界の中心に映っている男の姿をグワッ!と急激にズームアップさせた。
疾風のような疾さで行われる重心の移動に、手の動きを伴わせる。
踏みとどまると同時に鋭く放たれた掌底は、空気の壁を破るだけで終わった。並みの武術家なら回避が間に合わずに直撃するであろう風のような当身を、男はさらりと身をひねって躱したのだ。
だがもちろん想定内。これで終わらせるつもりはなかった。
少女は一気呵成に当身を連続させた。掌底、正拳、肘鉄、果てには前蹴りを、稲妻のように次々走らせた。
疾風怒濤の勢いで打ち込まれる打撃のことごとくを、男は先程と同様に難なく避けていく。
しかし少女も負けじとばかりに打ち続ける。当たるまで延々と攻め続けるつもりだ。
水越流合氣柔術は投げ技や極め技だけではない。あらゆる状況に備えて、当身技も数多く取り入れられている。投げ技に用いる歩法が、そのまま当身にも使えるようになっているのだ。重心を高速でぶつける水越流の当身は、熟練者ならばヘビー級プロボクサーのストレートにも匹敵する威力を持つ。
が、どれほど打撃技の使用に寛容であっても、水越流合氣柔術は「柔術」。その看板技はやはり「投げ」である。
少女の右掌が疾る。男は体を左へズラし、直進してきた掌を紙一重で回避。
けれども、その反応は狙い通りの動きであった。真っ直ぐの打撃を、彼ならばそのように避けると考えていた。
事前に考えておいた対抗策を、電撃的な速度で実行に移した。少女は突き伸ばした右手でそのまま男の右手首を掴み、そこから投げに——入ろうとした時には、すでに世界が反転していた。子供の頃、股の下から逆さまに風景を見ていた事があるが、その時とデジャヴした。
瞬間、背中から畳へと叩きつけられた。
「っはっ——」
したたかな衝撃が身に染み、体内の空気が否応無く絞り出された。
ケホケホと幾度も咳き込む少女。
それを見下ろし、男は厳粛な一言。
「
早朝の四時に起床し、さっさと白黒の道着に着替えて道場へ足を運ぶ。一足先に同じ道着姿で待っている父と軽く朝の挨拶を交わした所から、朝稽古は始まる。
六時まで散々しごき回された後はシャワーで身を清め、朝食を摂り、身支度その他を整えた上で七時半に登校開始。池袋にある高校へ着くまでに要するのは約二十分。予鈴は八時二五分なので、電車の遅延さえなければ余裕のある時間である。
「うへえ……」
今日もそんな雛形通りの朝を送ったルカは、最寄り駅である下板橋駅のホーム内にあるベンチにどっかり腰を下ろしていた。朝早く酷使した体を少しでも休めておきたかった。
線路飛び出し防止用のホームドアは、今の時代ほぼ全ての駅に設置されている。大きいとは言えないこの下板橋駅にもそれは当てはまる。
閉じられたホームドアの前に三々五々並ぶ人々をぼんやり眺める。
目の前の列は人種のるつぼであった。日本人だけでなく、白人、黒人、中東人、それらの間をとった混血……むしろ、純粋な日本人の方が相対的に見て少ない気さえする。その中にも、同じ東アジア人である中国人や韓国人なども混じっているかもしれないので、実際日本人はもっと少ない可能性があるが。
様々な人種が渦巻くアメリカのような光景だが、今の日本ではさして珍しくはない。
かつて日本は未曾有の国家危機を、ある「大改革」によって乗り切った。この光景は言わばその代償ともいえる。
そんな慣れきった場面からは意識を切り離し、今朝の稽古を振り返る。
——またしても、父から一本取ることは叶わなかった。
いや、あの父を投げ飛ばそうなどという考えは生意気を通り越してもはや恐れ多いとさえ言える。けれども、こう何度も負けが重なると流石に士気が揺らいでくる。
彼の合氣の技は入神の領域に達しており、いかなる大男や武術家も触れただけで軽々と投げ飛ばしてしまうその技巧は妖術もかくや。付いた通り名は『
彼は道場『
そんな父の一人娘であるルカもまた、幼少期から水越流の
——けれど一ヶ月前、父から「次はお前が英武館を継ぐのだ」と言われた時は、流石に寝耳に水であったが。
父には子飼いの内弟子が100人以上いる。その中には、ルカより強い者も何人かいる。
しかし、父はルカを次期館長に選んだ。
正直、ルカは困り果てていた。
英武館のような巨大な組織を、自分のような未熟者が引っ張っていけるのだろうか?
自分が館長になることで、父が築き上げてきた立派な道場の
不安は尽きない。
けれど、父は昔から一度決めた事を簡単には変えない人だ。説得は諦めるほかない。
自分は、あの怪物と同じにならなければいけないのだ。
そう考えるだけで、地球から冥王星を歩いて目指せと言われた気分になる。
「はぁ……マジどうしましょ」
ため息を禁じ得ない。
しかし、憂鬱な気分を強引に切り替える。武術の熟練者であるルカはメンタルの切り替えが上手かった。でなければいざという時に上手く「氣」が練れず、満足に技が使えない。まして今の世の中、武術を実戦に使う機会なんてそれほど珍しいわけでもないのだから。
ホームドアの前に列車が到着。重複した二枚のドアが同時に開き、列車の中に人が吸い込まれていく。ルカもその流れに乗った。
人がまばらな車内に足を踏み入れた瞬間、閉じられた反対側のドアの上にある液晶モニターが今日のトピックスを映しているのが見えた。『連続辻斬り事件 渋谷で六人目の死傷者』という標題を目にした瞬間、強引に晴れやかにした精神にまたも湿っぽいものが訪れた。それもすぐに振り払い、空いた座席を見繕って座る。
一息ついてから、ゆっくりと顔を上げる。
——反対側のシートに座る人物と目線が合った。
途端、ルカは大きく目を見開いた。
その人物の姿に対し、驚愕を隠せなかった。
ここで学校の王子様的イケメンと目が合い、そんな些細なキッカケで仲が急接近していくという展開は、ルカが極秘裏に乱読している少女漫画ではありがちなシチュエーションである。……ちょっぴり憧れていたりするのはさらに極秘。
けれど向かい側の席に座るその人物は、そんな王子様ではなかった。
いや、ルックスが悪いわけではない。むしろ、美形と呼ぶに相応しい男であった。真っ直ぐ通った高い鼻筋、鋭くも柔らかな輝きを持った眼差し、痩せこけて見えない程度に研ぎ澄まされたシャープな顔の輪郭は、本人の質実剛健な内面を表しているかのようだった。年齢は自分と同じくらいか、あるいは少し上か。
そう。そこまではまだマトモだ。
問題はその男が——あまりに時代錯誤な格好をしている事である。
撫で肩気味な中肉中背の体軀を覆っているのは、江戸時代の武士が着ていたであろう
当然、頭部には
体は江戸、頭は幕末の武士姿。
まるで時代劇の中の登場人物がテレビから飛び出してきたかのごとき姿。
コスプレか?と一瞬思ったが、彼からは着慣れなさを示す仕草が少しも感じられなかった。
ルカだけでなく、電車内の全ての人の視線が武士一人に集まっていた。むべなるかな。
しかし、視線と視線がぶつかっているのはルカ一人。
彼は、ニッコリと気さくに微笑みかけてくれた。
自分をしっかり認識してのリアクションにルカは思わずビクッとする。が、礼儀として笑みを作り返した。
俯いて、目を合わせないようにする。
何?何なのアレは?タイムスリッパー……なわけないか。なら何か重要な会合に出席するための礼服?でも、それなら髷まで結う必要あるのかしら?しかも草鞋よ草鞋。靴でいいじゃないのよ。
ルカはアレコレと考えを巡らせるが、謎が更なる謎を呼ぶだけだった。
だがその珍妙な出会いが、のちにルカの日常を大きく変える事になるのだが、それを知る術は今のルカには存在しなかった。
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