3:最低な再会

 春は朝方は少々冷えるが、昼になると心地良い陽気となる。特に正午の日差しを直接浴びると、夏始めみたいに暑くなってくる。


 そんな昼休み。

 ルカは屋上で一人、稽古に励んでいた。


 一ヶ月前までは友達と昼食を食べていたが、英武館次期館長という立場に立ってからはこうして昼休みも修行に使うようになっている。

 否。昼休みだけではない。暇さえあれば、それを稽古時間に費やしている。


 少しでも、父に近づかねばならない。英武館門下の誰よりも強くなり、館長と呼ばれるに相応しい武術家にならねばならない。

 その気持ちは、使命感と焦りを等量含んでいた。


 それに突き動かされるままに行っている修行、それは——「構え」だった。


 右足を前に出した半身の立ち方。人体の急所が集まる正中線の延長上に構えられた両手は、見えない刀を正眼に握っているような形を取っていた。


 水越流合氣柔術の基本となる構えだ。

 これは水越流に限らず、全ての合氣系武術で大切にされている。

 微動だにせず、この構えを維持し続ける。それこそが合氣において重要な『中心力』を養う最高のトレーニングだ。


 人間含む全ての生物には、必ず『中心』が存在する。それはいわば、肉体という一つの建築物を支える大黒柱。合氣は体術を用いて相手と自身の『中心』と一体化させ、支配し、操り、投げ飛ばす。

 けれど言うは易し。それを実行するには体術の反復練習と、この構えによる自身の『中心力』の養成が必要なのだ。


 ルカは構えたまま動かない。けれども内面では「氣」の練りが絶えず行われている。顎先から逐一滴り落ちる汗が水溜りを作っており、修行の過酷さを示唆していた。


「氣」とは、別に神秘のエネルギー的なオカルティックな代物ではない。

 イメージ、意識、思いによって生まれる力——それこそが「氣」の正体である。

 人間の意思には、確かに力が存在する。例えば、ヨガは体操とイメージを組み合わせてやる事で高い健康効果を生み出す。中国拳法では槍を練習して「貫く」という意識を養うことで、徒手空拳の衝撃が相手の体内へ浸透するようになる。


 ルカの中で働く「氣」は今、体の中心を垂直に貫く柱の形を取っていた。長年に渡って鍛えられたルカの構えは、例え100キロを超える大男に突進されても微動だにしないだろう。

 けれども父、宗一はもっと凄い。門下生50人が同時に押しかかってもビクともしないのだ。それどころか押し合った状態から50人の『中心』を支配し、総崩しにしてみせた。


「ふーぅ……」


 ルカは呼吸を整える。


 一瞬緩んだ思考に、様々な雑念が入り込んできた。


『その人ね——Samurai武士の格好をしているらしいの』


 武士姿の転校生。

 まさか今朝電車で会ったあの男が、件の転校生なのだろうか。

 いや、それは考えるまでもない事だ。武士姿で歩き回る人間を、自分は彼以外知らない。

 きっと彼だ。そんな確信が心にあった。


 けれど、今の自分には瑣末さまつなことだ。自分は化け物じみた父に少しでも近づくべく、修行に熱を入れなければならない。些事などに構ってはいられない。


 しばらく立ち続け、昼休み終了十分前になったところで、ルカは構えを解いた。


「ふーーーーっ……」


 大きくため息を吐く。給水タンクへ背中を預けると、支えを失ったように尻餅をついた。


 疲れた。しかし普通に体を動かした事では得られない、心地よい疲労感だった。


 ちなみに今のルカは制服ではなくジャージ姿だ。制服のまま汗をかきたくなかったからである。

 上も下も、まるで水をかぶったように汗が染み付いていた。

 こんな有様ではとても教室には戻れない。


 なので、ルカは服を脱ぎ始めた。

 まず上下衣を脱ぎ去り、下着姿となる。

 その下着さえも脱ぐ。

 生まれたままの姿が、正午の太陽の下に晒された。

 白絹のような素肌と、均整の取れた体の輪郭。露わになった柔肌に付いた汗を、タオルでポンポン叩くように拭っていく。

 ぬぐい終わったら全身まんべんなくスプレーをかけ、鞄に入った替えのブラとショーツを手足に通す。


 ——大胆な行為であることは重々自覚している。


 けれど女としては、汗まみれの体を放置しておくことは耐えがたい。

 それに屋上は基本的に立ち入り禁止なので、誰も入って来ない。フェンスの下に気を配ってさえいれば、服を脱いでも見られる心配は無い。


 そう。誰も入って来ないはずだった。


 しかし、この学校に来て間もない転校生に限っては、そうとは限らない。


 校内と屋上を繋ぐ鉄扉が軋む音で、その事にようやく気付いた。


「え……」


 新しい下着姿のルカは思わず声を漏らす。


 鉄扉がゆっくりと開き、ヌッと屋上へ草鞋を履いた足が踏み入り、やがてその主も姿を現した。

 撫で肩気味の細身。群青色の羽織袴。端正かつ意志の強そうな面構え。オールバックにして後頭部に結った総髪のまげ


 服は江戸で髷は幕末の武士。


 朝、電車で目が合ったのと全く同じ人物だった。

 唯一違う点といえば、草鞋ではなく学校指定の上履きを履いている点だろうか。


「なるほど、屋上に通じていたか。確か、校則では立ち入り禁止扱いであったな。早々に立ち去るとし…………ん?」


 武士はこちらに気づき、振り向いた。

 電車の時と同じように、二人の目が合った。


 なるほど、やはり件の転校生は彼だったのか。

 ……などとしみじみ考えている場合ではない。


 ルカの頰が見る見る赤く染まる。

 それと並走するように、武士の顔も「しまった」と言わんばかりに苦々しくなっていく。


 やがて。




「きゃぁぁぁぁ—————!!!」




 ルカは下着姿の我が身をかき抱き、耳を貫くような悲鳴を発した。


 武士は左右をキョロキョロしながら、どうしていいかわからないとばかりにまごついている。


「バカスケベ変態痴漢変質者ぁぁぁ————!!!何棒立ちしてんのよ!?さっさと出て行きなさいよバカバカバカバカぁぁぁぁぁ!!!」


 ここは屋外なので「出て行け」という言い方は変だと思ったが、そんなことを気にする余裕は今は皆無だった。


「こ、心得た。申し訳ない」


 武士は逐一頭を下げつつ、そそくさと元来た鉄扉へと戻っていった。

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