9:蘇茅藍

 休日明けの月曜日、放課後。


 夕空の下に広がる池袋の市街。高層ビル群の表裏が茜色の日向と黒い日陰のコントラストで彩られており、見ていてノスタルジックな気持ちを煽られる。


 しかし、そんな微かな感傷に浸るルカの前を歩く武士姿の男は、一顧だにせずズンズンと草鞋を進ませていた。


 歩道を歩む大きな羽織袴の背中に、不安げな視線を送る。


「……ねえ、やっぱり考え直さない?」

「否」


 即座に否定された。


 けれどもルカは懲りずに説得を再開する。


「「条件」に該当する武術家は他にもいるんだし、そっちを当たればいいんじゃないかしら?」

「否。今から尋ねる相手こそ、その「条件」に合致する武術家の中で最強の実力を有していると見える。その者を敗北させれば、ソレガシ達の「策」は達成されるかもしれない」

「でも!」


 ルカはなおも食い下がる。


 前へ前へと向かい続ける弥太郎の前方へ回り込み、その無表情な顔を見上げて詰め寄るように言った。


「だからって、無茶にもほどがあるわよっ。よりによって――『道王拳社』の『閃電踪せんでんそう』と戦うだなんて!」









 ――話は今朝のホームルーム前にさかのぼる。


 支倉刀哉が去った後、ルカと弥太郎は警察を呼び、路地裏に転がった惨殺死体を見せた。凶悪犯罪と接する機会が多い警官すらそのむごたらしさには眉を露骨にひそめた。けれどさすがはプロ。初動捜査特権として現場にやってきた鑑識ともども現場検証をてきぱきと開始した。


 それから一日を跨いで今日。弥太郎は刀哉を再起不能にするという目的のために動き出した。


 再戦の時に刀を抜くかどうかはひとまず置いておき、まずは再会するべく居場所を特定しなければならなかった。


 けれども、簡単な話ではない。この広い東京都内でたった一人の人間を探そうというのだから。


 それゆえに、こちらから探すよりも、向こう側から・・・・・・来させる・・・・方がはるかに有効だ。


 そこで考えた。


 弥太郎の武術家としてのネームバリューを強めれば良いのではないか、と。


 刀哉が斬りたがっているのは、強い者だ。特に、名の知れた武術家である。


 ならば、弥太郎がその「名の知れた屈強な武術家」として名を轟かせればよい。


 そうすれば刀哉は自分の元へ来てくれるかもしれない。それだけでなく、自分に狙いを集中させることによって、斬殺される人間の数も減らせるかもしれない。


 そういうわけで弥太郎は刀哉の居場所を探すため、情報を欲した。


 そのために真っ先に尋ねた人物は、ルカの悪友のたちばな女神ごっですだった。


what? どうしたのルカ、いきなり頼み事だなんて」


 朝のホームルーム前、そう尋ねられたゴッデスは青い瞳を見開いて反応した。ルカが改まって依頼をしてきたのが意外だった様子。


 日米ハーフの青い瞳は、次にルカの隣に立つ武士姿の男へと向いた。またしても驚きでまぶたを広げ、


「あーっ!もしかしてキミ、噂のSamurai武士君じゃない!?初めましてー!あたしはゴッデス!ルカの親友でClassmateクラスメートだよー!よろしく!」

「ルカどのの御同輩でござったか。ソレガシは佐伯弥太郎にそうろう。ルカどのにはお世話になっておりまする。よろしくお願い致す」


 弥太郎がそう自己紹介すると、ゴッデスは一瞬時間が止まったように硬直してから、大喜びで武士の手を握った。


「キャー!ソレガシ!?ソーロー!?So cool!!」


 繋がれた手をブンブン振って興奮を示す。武士姿の中国人は目をぱちくりさせて黙っていた。


 ゴッデスは日本文化が大好きなのだ。それはアメリカ人の母親の影響であった。彼女の母親は大の忍者好きで、忍術使いの大家である父をガンガン口説き、結婚にこぎつけたそうな。


 まあ、それはそれとして。


「ゴッデス、もういいでしょ。本題に入らせてよ」

「ねえねえ?もしかしてルカとこの武士くんって付き合ってるの?どこまで行ったの?A?B?C?それとも天元突破してZまで行っちゃったとかぁ!?きゃ〜〜!!」

「お馬鹿!付き合ってなんかないわよ!それにZってどんなレベルよ!?想像つかないっつーの!」


 ムキになって反論するルカを片手で制すると、ゴッデスは改まった語気で訊いてきた。


「それで?何をResearch調査して欲しいのカナ?浮気調査から迷子犬探しまでひと通り調べてあげるヨ?」

「いや、浮気の心配するような相手もいなければ犬も飼ってないけど……そうじゃなくて、最近この辺りで多発してる連続辻斬り事件のことよ」

「辻斬り? ああ、そういえば今朝も新しい情報が入ってきたねー」


 そこで一度言葉を止めると、ゴッデスはスカートのポケットからスマートフォンを取り出す。メモ帳を開き、そこから幾度もタップとスワイプを繰り返してメモ帳を展開すると、読み上げるように言った。


「えーっと、Casualty被害者の名前はヴォルフガング=バッハマン。ここ最近日本の裏社会で急速にBecome勢力 stronger拡大を進めている新興武闘派マフィア『群狼』の創設者にしてトップ。それと同時に『滅手ヴァニッシャー』というNickname通り名で有名な中国拳法の使い手で、その通り名の由来となった、相手の肉体の外部と内部を同時に破壊する『滅手』という得意技を持つ。ちなみに新宿歌舞伎町に足しげく通っている傾向があり。その行先は風俗営業が盛んな区画で――」

「もういい。もういいわ。それより、調べてほしい事っていうのは、その辻斬りの被害に遭ったっていう人の中で、死んだり一生後を引くような傷を負わずに生き残った人とか、逆に返り討ちにしてみせた人の事よ。そういう人物っていないの?」


 今現在知りたい情報はまさにソレだった。


 名を上げる、と一言で言っても、一人一人チマチマと武術家を倒していたら余計な時間を食ってしまう。そうしている間にも、次のまた次のと犠牲者が増えてしまう可能性があった。


 そこで考えたのが、「刀哉が倒せなかった相手を倒そう」というアイデアだった。


 穂高の剣は強力無比。ソレを退いたり、あるいは返り討ちにするような者がいれば、その人物はかなりの強さを有していることになる。オマケに、どういう形であれ「刀哉が勝てなかった」相手なのだ。刀哉はきっと関心を持つに違いない。


 ちなみに、弥太郎は最初にルカの父である水越宗一に勝負を挑もうと考えかけたが、ルカに「絶対ダメ!!」と怒鳴られた。力の差があり過ぎて自殺と変わらないからだ。


「ちょっと待って……」


 ゴッデスは手元のスマートフォンを幾度かいじくると、次のように言った。


「いるね。それも三人」


 軽いニュアンスで投げ込まれた発言。


「一人目は三大道場の一つ『荷川取にかどりじゅく』のStudent門下生にして最上級の強さを持つ内弟子、菅原義之すがわら よしゆき。軽い切り傷を腕に一回負ったくらいでそれ以外は大したことないよ。んで二人目は蘇茅紅そ みょうこう。東京随一の中国武術道場『道王拳社』の内弟子にして、柔拳法の天才。この子も軽いながらも右手をちょびっと斬られてるねー」


 あっという間に列挙された情報の数々。どれも東京では名の知れた猛者ばかりだった。


 ルカは感嘆の念を抱いた。


「すごいわね、あんた……毎度思うんだけど、どっからそういう情報仕入れてるのよ?」

「ふふん、あたしを誰だと思ってるのかな?現代のNinjaだよ。兄貴なんて売れっ子の私立探偵やってるんだから」


 誇らしげにその豊かな胸をたゆん、と張るゴッデス。ルカはなんだか女として挑発された気分になってイラッときた。


 再び手元のディスプレイへ視線を戻す日米ハーフの少女。


「んで、Last最後 parsonの一人はその蘇茅紅の姉の蘇茅藍そ みょうらんWouうわ、こりゃすごいわー。一回も斬られていないどころか相手に何発かやり返してるねー。Cops警官が途中で介入してきたから勝負は中断されてるみたいだけど。さて、この蘇茅藍がどういう人物なのかは……分かるよネ?」

 不敵に微笑むゴッデスに、ルカは重々しく頷きを見せたのだった。






 そこから、放課後である今現在に至る。


 弥太郎は事もあろうに、あの・・蘇茅藍に勝負を挑もうなどと考えているのだ。


 蘇茅藍。


 道王拳社トップレベルの実力を持つ四人の門弟『四天王』の一人にして、その中でも突き抜けた強さを誇る武術家。


 身体を羽根のように軽く操ることで驚異的な身体能力とスピードを発揮する『軽身功けいしんこう』を十八番おはことしており、付いたあだ名は『閃電踪』。


 ちなみにかなりの戦闘狂らしく、一時期「暇つぶし」と称して道場をいくつか破って看板をコレクションしたことがあるという。


 ルカが止めたがるのも当然だった。


 夕日の下、弥太郎は決意に満ちた眼差しをルカの瞳へ向け、言った。


「否。その蘇茅藍とやらが、我々の考えた「策」を行う上で理想的な存在。その者を倒せば、支倉刀哉の注意をソレガシ一人に集中させることが可能やも知れぬ」


 刀哉と戦って生き残ったのは三人。蘇茅藍はその中で唯一無傷であり、かつ一矢報いている。これほどの人物を倒せたとなれば、刀哉は注目せずにはいられないはずだ。まさしく理想的な相手である。


「それは……そうかもしれないけど」


 それでもルカは乗り気ではなかった。


 いくら弥太郎が強くとも、相手はあの『閃電踪』だ。ボロボロに返り討ちにあうのは気分が悪い。できることなら、行かせたくは無かった。


 けれども、弥太郎は覚悟を決めている。何が何でも身内の暴挙を食い止めようと頑張っている。その覚悟を無駄にはしたくないと思った。


 それに彼の左手には、一たいの竹刀袋がにぎられている。中にあるのは竹刀ではなく日本刀である。


 言うまでもなく、昨夜刀哉から受け取ったものだ。


 殺人現場に駆け付けた警官に届けてもよかったのだが、思うところ・・・・・があったため目につかない場所に隠し、警官が去った後で取り出して持って帰った。


「思うところ」とは、刀哉との再戦時の懸念だ。


 弥太郎が刀哉相手に素手で勝つのは至難の業だろう。勝つ確率を上げるためには、穂高の剣を抜く必要がどうしても出てくる可能性がある。抜くか抜かないかは今決めなくても、抜くべき刀は持っておく必要があると考えたのだ。


 そうだ。弥太郎も心の中で確信しているのだ。刀を抜かなければいけない展開になるのはほぼ確実であると。それゆえに、少しでも抜けるように努力している。


 それを分かっていたからこそ、結局ルカは最後の最後で折れてしまうのだ。


「……分かったわ。でも、あんまり無茶な事はしてはダメよ。先輩命令」

「承知」


 弥太郎は表情を和らげ、口元に笑みを作りつつ頷いた。


 どう見ても功を焦って我を忘れた顔つきではない。冷静に今の選択をしていることが確信できた。これならば、ひとまず問題はないだろう。


 隣合わせになって歩道を進む、武士姿の少年とブレザー制服の少女。


 二人の間にはわずかな距離があったが、後方へ細長く伸び広がった二つの影は末端部が重なり合っていた。







「道場破り大歓迎!!」といううたい文句の武術道場が、この東京にはいくつか存在する。


 道場破りとの戦いに負ければ、道場主は看板を取り下げ、道場も奪われてしまう。これが中華武術界であれば、プラスアルファでお金もいくらか支払わなければいけないそうだ。


 そんな道場破りをあえて容認することには、いくつかの非物質的メリットがある。


 一つ――門下生集めに役に立つ。厄介者でしかない道場破りをあえて招き入れる姿勢は、「自分の流派に自信あり」という無言の証明となる。そうすることで「あ、この道場って強いんだ」と第三者に思わせ、入門意欲を刺激する。


 一つ――経験値稼ぎに使える。武術家が強くなるためには、どうしても実戦経験が必要となる。この場合、その経験を得るための糧として道場破りの存在を利用するという考えだ。


 こうしたメリットを上手い事利用し、自分たちの実力を世に知らしめ、知名度と勢力を急上昇させた道場も少なからずある。


 ――今、弥太郎とルカの眼前にそびえる「その道場」も、そうやって『東京三大道場』の仲間入りを果たしたのだ。


 仲暮高校があるのは池袋駅南口方面だ。その真逆の池袋駅北口から真っ直ぐ進んだ先にある閑静な通りに、「その道場」は鎮座していた。


 横浜中華街などにあるような朱色の牌楼はいろうを超えて真っ直ぐ進んだ先には、大人二人分ほどの高さを持つ大理石の石版が立っており、その表面には中国書道的な書体で大きく『道王拳社』と刻まれている。石版の位置は敷地のど真ん中。そのさらに背後には巨大な中華風の建造物がどっしりと威容を顕示していた。


「ほぉー、これはかなり壮大でござるな」

「……ふんだっ、英武館ウチの方が立派だもん」


 実家に勝るとも劣らないその道場の立派さに、ルカは対抗心を隠し切れなかった。


 ――道王拳社。『東京三大道場』の一つにして、世界屈指の中国武術道場。


 この国が「武術の国」となるよりも昔、中国武術は冷遇されていた。


 型稽古や約束組手などが主要な中国武術は、自由組手主体のフルコンタクト制格闘技が最強扱いされていた当時の時代に馴染めなかった。あらゆる中国武術家がそういった格闘技と試合をし、悲惨な負けっぷりを世間に晒していた。


 無論、単にその武術家の実力不足であることも理由の一端に入るだろう。けれど、中国武術の抱えるいくつかの事情にも起因していた。


 一つ目は、ルールの介入による弱体化だ。ルールに支配されたフルコンタクト試合では、満足に武術の技を使うことができなかったのだ。武術は拳や蹴りだけではなく、あらゆる攻撃法がバリエーション豊かに存在する。だがルールによってその大部分を封じ込まれ、相手と同じ土俵で戦わなければいけなかった。もしそうなれば、普段からフルコンタクト試合のために稽古している人間に勝てるはずがない。サッカー選手に野球をしろと言っているようなものだ。


 さらにもう一つは、正しい伝承を受けた者の少なさ。正統な中国武術は文化大革命によって大部分が失伝している。そのため、昔ながらの実戦的な武術を知る者が極端に少なかったのだ。そして、そういった人々はフルコンタクト競技を見下しているきらいがあり、歯牙にもかけなかった。そうやって公式試合から遠ざかる姿勢が、人々の中国武術に対する不信感をさらに煽った。


 試合ができない中国武術は、フルコンタクト最強神話が支配する当時では「踊り」「体操」と揶揄されてきた。


 ――けれども、そんな惨状を憂いた「とある達人」の手によって、中国武術は一躍最強武術の仲間入りを果たしたのだ。


 名を、劉乾坤りゅう けんこん


 劉は突然東京に現れ、中国武術が持つ真の力を大勢の人間に見せつけた。あらゆる挑戦者を拒まず受け入れ、その全てを一撃で沈めてみせたのだ。そんな彼の元へ弟子が次々と集まっていき、道王拳社が誕生した。


 先に説明した通り、道王拳社は道場破りの来訪を拒まず受け入れている。それどころか道場破りの受付窓口があるほどだ。


 今や、『東京三大道場』の仲間入りをしている。門人の総数は他の二つよりやや劣るが、個々のレベルは道王拳社が一番高い。


 今はまだ道場の外にいる。が、それでも震脚による強い踏み込みの音がいくつも響いてくる。現在は夕方の五時であり、この時間は普通に練習をしているのだ。


 牌楼をくぐり、敷地を過ぎ、二人は正面玄関から巨大な道場の中へと足を踏み入れた。


 両開きの扉を超え、両壁に窓口を備えた横広の玄関に入る。外履きが綺麗にそろえてある三和土たたきの段差を超えた先に、さっそく一人立っていた。


「――えーっと、どちら様ですか?」


 その人物は弥太郎とルカを見て、きょとんとした。


 紅顔可憐な美少女がそこにはいた。枝毛一つ無いツーサイドアップの長い髪に、精巧な人形のように整った顔立ち。中華服をアレンジして作られた道王拳社の道着を身にまとうその体躯は華奢で背が低いが、ひ弱でないことがなんとなく雰囲気で伝わってくる。


 その人物を、ルカは見たことがあった。情報源ソースはネットだ。


 道王拳社四天王の一人にして蘇茅藍の、蘇茅紅だ。


 そう。「弟」なのだ。こんな見た目なのに、男なのだ。


 その美少女姿の美少年は、手に持っていたタブレットPCを見ながら、


「も、もしかして、今日の道場破りの方ですか? えーっと、もう五時だから、天外通穿てんがいつうせん流空手の――」

「あ、あー、えっと、違うのよ。私たちは道場破りじゃないわ」


 ルカは慌てて否定した。


 道王拳社の道場破りはファミレスの席と同じく、完全予約制となっているのだ。そんなでたらめさに内心で呆れていた。


 茅紅は唇に人差し指を当てて可愛らしく考えながら、


「えーっと……では、道王拳社に何かご用でしょうか? 入門ですか?」

「違うわ。実は――」


 あなたの姉に用があるのよ。


 そう言おうとした瞬間、背後から暴風のような一喝が轟いた。


「――たぁのもぉっ!!!」


 思わず心臓が跳ね上がる。後ろを見ると、そこにはルカよりも頭一つ分ほど巨大な男が立っていた。筋骨隆々の肉体に、ナイフさえ通らなそうな分厚い道着を纏っている。顔は並のヤクザよりずっと強面だった。


「天外通穿流空手館、内田伸五郎うちだ しんごろう! 参上つかまつった! 道王拳社の者よ、約束通り看板をいただきにきたぞ!」


 内田と名乗ったその男は、居丈高な態度で言い放った。


「おい、そこの女! 今すぐに館長の劉乾坤を出せぃ!」

「ボ、ボクは男です。そ、それに劉老師を出すことはできません」

「なんだと!? ならば誰がこの俺と立ち合うというのだ!」


 茅紅はおずおずと挙手。


「えっと……ボ、ボクがお相手を致します。い、一応ボクはこの道王拳社池袋本部の門面徒弟もんめんとていですので……」


 門面徒弟とは、中国武術用語の一つである。道場破りと最初に戦う門弟を意味する。


 内田はその言葉を聞くや、その岩石のような顔を憤怒の赤で染め上げ、


「ふざけるなぁ!! 貴様のような小娘と戦えと!?」

「で、ですからボクは男ですってば」

「やかましい!! とっとと劉乾坤を呼べ!! 貴様なんぞに用はないわぁ!!」


 ヒートアップする内田に、ルカが横槍を入れた。このままでは自分と弥太郎の用事にも差し障ると思ったからだ。


「あー、そこの人? その子は一応道王拳社四天王の一人よ。滅茶苦茶強いはずだわ」

「だからどうした!? 口を挟むな娘!」


 あからさまに反抗心を表す大男に、ルカは落ち着き払って言い聞かせた。


「こうは考えられない? その子と戦って勝てなかったら、その師である劉乾坤には到底敵わないって」

「……つまり、この小娘を退けることが、劉乾坤に挑む前提条件だと?」


 少し怒りの熱が抜けた顔で、内田は言う。「で、ですからボクは男ですってば」


 ……いや、少し考えれば分かることでしょうに。鈍いわね。


 ルカは呆れながらも頷いた。


 途端、内田は深呼吸をして心を落ち着けた。完全にクールダウンした表情に、不敵な笑みを作った。


「よかろう、小娘。まずは貴様から相手するとしよう。広い所へ連れて行けぃ」

「で、ですからボクは男……もういいです」


 しゅんと沈んだリアクションをとりつつ、茅紅は頷いた。






 道王拳社池袋本部の把式場練習場は、仲暮高校の体育館二つ分の広さがある大スペースだった。『浩然之気』という文字が書かれた巨大な額縁を飾る奥の壁から、長方形状に広がりを見せている。


 さきほどまで、そこで多くの門人たちが各々の修練を行っていたが、今はそれを中断し、全員広間の隅に下がって中央に視線を集中させていた。ルカと弥太郎もその中に混じっている。


 中央にて向かい合って立つ、大小の人物。


 内田伸五郎。蘇茅紅。


「ふん、貴様をさっさと叩き潰して、劉乾坤の息の根を止めに行ってくれる」

「えーっと、おてやわらかにお願いします……」


 戦意をたぎらせる内田。おどおどしながら頭を下げる茅紅。


 始まってしまった道場破りとの試合。普通の道場であるならば、門下生たちの緊張は並々ならぬものだっただろう。


 しかし、この道王拳社は「普通」じゃない。門人たちの態度は、まるで他人のケンカをはやし立てる野次馬のようだった。それが、蘇茅紅という武術家の実力を裏付けていた。


 やがて両者は名乗りを上げた。


「天外通穿流空手、内田伸五郎」

「ど、道王拳社関門かんもん弟子、蘇茅紅です」


 内田は日本式に一礼。茅紅は中国式に右拳左掌の拱手きょうしゅ――拳をもう片方の手で包む挨拶――を行った。


 互いに戦闘態勢となる。


 先に動いたのは内田だった。滑るような運足で、遠くに離れた茅紅との間隔を一瞬で詰めた。筋肉ダルマのような見た目に反し、その足さばきには優れた理合いがこもっていた。「氣」がよく練れている。


 無骨な拳が真っ直ぐ放たれる。


 その拳がすぐ目の前まで来た瞬間、まごついていた茅紅の顔つきが――刃のように引き締まった。


 その変化に内田がぎょっとするが、もう遅かった。伸ばされた拳に相手の細い手がツタのように絡みつき、込められた威力を「溶かした」。


 化勁かけい。相手の力を必要最小限の力で無力化し、受け流す技。太極拳などで使われる。


 その技で勢いを・・・奪い取られた・・・・・・内田は、バランスを崩して”死に体”となった。


 さらけ出されたその胴体めがけて、茅紅の拳が稲妻のように走った。


「ふっ!!」


 斜め下へと身を沈め、練習場の床全体を震わせるほどの力で踏み込んだ。鋭い直進のちからと、強い沈下によって起こる一瞬の重量倍加のちから。それらを一つに集約させた正拳突きが肉厚の腹部へ刺さるようにぶち当たった。形意拳の基本技『崩拳ほうけん』。


 茅紅よりはるかに大柄な内田の体が、風に吹かれた紙よろしく軽々と飛んだ。


 床に落ちた後も滅茶苦茶な転がり方を続け、数十メートル離れたところでようやく止まった。


 そのまま動かなくなる内田。


 茅紅は駆け寄り、その体のあちこちをペタペタ触って回ると、突然大声で叫んだ。


「ああああ――――!! またやっちゃったぁ!!」


 パニックになるが、それは一瞬の事だった。門弟たちの方へ振り返って冷静にお願いした。


「だ、誰か、この人を医務室に運んであげてくださいっ。そ、その後は気功治療を施してから、打たれた箇所に雲南白薬うんなんびゃくやくを塗ってくださいっ。あ、あと、お代は後できちんと頂くように!」

「「「シィ!!」」」


 すると、門弟の中の数人がてきぱきと動きだし、気絶した内田を運んで行ってしまった。


 内田の姿が見えなくなると、隅っこに集まっていた門人たちが三々五々に散り、再び各々の練習に戻った。


 ――それらの様子を、弥太郎とルカは呆然と見つめていた。


「……すごい場所でござるな」

「そう……ね」


 両者ともに驚きを隠せなかった。


 中国武術の世界における弟子には、二種類が存在する。


 ただ普通に技術を教わるだけの「学生」。


 師から才能または情熱を認められ、流派における秘伝の技や練法を学ぶことを許された「関門弟子」。


 茅紅含む『道王拳社四天王』は、その関門弟子の中で最強の力を持った四人組のことである。


 ――その実力の一端を今、目の当たりにした。


 内田伸五郎は決して弱くはない。むしろ、今のルカでは勝てるか分からないほどに実力があったはずだ。技からにじみ出る練度を目にすれば分かる。


 けれども、茅紅はそれ以上に強かった。


 この道場一の柔拳使いといわれるだけあって、非常に高度な化勁だった。水越流と同じく相手の力を受け流して支配するタイプの技だが、悔しいかなルカよりもその技巧は上だった。


 これからケンカを売ろうと考えている蘇茅藍は四天王最強。弟の茅紅をはるかにしのぐ力量を誇るという。考えただけで胃が痛くなってくる。


 ルカは気遣うような上目遣いで、言葉を使わず弥太郎に訴えた。「今ならまだ間に合う。勝負はやめにしてここから去らない?」と。


 その無言のメッセージを読み取った弥太郎は、その上で首を横に振った。


 ルカはあきらめたような溜息をつく。この男はきっと父と同じく、一度「こう」だと決めたらそれを滅多に撤回しないタイプだ。こうなったらどうにでもなりなさい。


 茅紅がとてとてと小走りで寄ってくる。足裏が床に磁石よろしく吸い付くような安定した歩行。優れた中国武術家によく見られる特徴だ。


「お、お見苦しい所を見せてしまいました。ごめんなさい。そ、それでご用件は何でしたっけ?」

「蘇茅藍という者と勝負がしたい」


 単刀直入すぎるその申し出に、把式場にいた門下生全員があからさまにざわついた。


 茅紅は小首をかわいらしく傾げ、


「えーっと、それは道場破りを予約・・する、という意味でしょうか?」

「否。看板を欲しているのではない。ただ単に、蘇茅藍との立ち合いを欲しているのみ」


 弥太郎の飾り気ない物言いに、女顔の四天王は曖昧な笑みを作り、


「えーっと、ごめんなさい。道場破りでない限り、四天王と戦うことは許されないのです。そ、それに姉様あねさまはその……かなりの戦闘マニアで、一度手を出したらなかなか止められなくなっちゃうのです」

「そこをなんとか。伏してお頼み申す」


 胴体が床と平行になるくらいにお辞儀をしつつ頼む弥太郎。


 茅紅は完全に弱り切っていた。けれどもどうにか相談に乗ってあげようと頭を働かせ、問うた。


「えーっと、どうしてそこまで姉様と立ち合いたいのでしょうか……?」

「それは……」


 弥太郎は返事に窮した。


 理由を言わないように、ルカに前もって釘を刺されていたからだ。


 刀哉に注目されるだけのネームバリューを得るために、蘇茅藍と戦う――その目的を言えば、必然的に刀哉のことを話さなければならなくなる。同時に、自分が刀哉と同じ穂高勁水流の門人であることも。


 今は道着の袖に隠れて見えないが、茅紅は刀哉と戦って、少しだが傷をつけられている。


 中国武術家は良くも悪くもメンツを重んじる。怪我の大小を問わず、身内を傷つけられて黙っていられるほどお人よしではない。もしも弥太郎と刀哉が同門だとバレた場合、身内を傷つけられたことで潰されたメンツを回復させるために全員でかかってくるかもしれない。


 しかし、この武士姿の男はその言いつけをあっさりと破った。


「ソレガシは、かつて共に穂高勁水流を学んだ支倉刀哉という男を引き寄せるだけの武名を得るために、蘇茅藍との戦いを求める」

「ちょっ――おバカ! 言うなって言ったじゃない!」


 ルカが口を塞ごうとしたが、すでに遅かった。


 茅紅は支倉刀哉という名を聞いてはっきりと驚きを表した。自分を斬りつけた者の名前が出たこともそうだが、その兄弟弟子が目の前に現れたことに驚愕したのだろう。


 周囲の門人たちの表情にも変化が起きていた。しかし彼らの表情は驚きなどという甘いものではなかった。猜疑心や敵意だ。


 恐れていたことが起こってしまった。


 ルカは弥太郎を糾弾する。


「弥太郎くん! 君ねぇ!?」

「すまぬルカどの。けれども、無理を押し通そうというのだ。こちらもきちんと理由を話さねば筋が通らぬというもの」

「っ……それは、そうかもしれないけど」


 道理は感じつつも、現状の危うさからは目を背けられなかった。


 門人たちからは、今にも飛び掛かってきそうなほどの殺気が濃密に感じられる。


 ビンに詰められた爆竹のようにくすぶっていた殺気が、爆発するまでにそう時間はかからなかった。


「貴様あの男の仲間か!」「この野郎! 性懲りも無く!」「よくも蘇師兄しけいに傷を負わせてくれたな!」「タダでここから出さんぞ!」「腹をくくれっ!」


 敵意をはじけさせた門人たちが戦闘態勢を取る。


 ルカもつられて構えを取ってしまう。


 弥太郎は少しも立ち方を変えていない。しかしその額には苦心しているようなシワが寄っていた。


 どうしたものかと必死で考えを巡らせていると、それに水を差すような形で呑気な声が割って入った。




「なになに? 何の騒ぎなの? なんかお祭りみたいなこと?」




 緊張感の欠片もない、若い女の声だった。


 全員の視線がそちらへ向いた。練習場と玄関口を繋ぐ出入り口の方だった。


 そこにはやはり女が一人いた。見た感じ大学生くらいの美しい女だ。猫をおもわせる鋭角的ながらも愛嬌のある眼差しに、女流ロックミュージシャンを思わせる荒いスタイリングのショートヘアが特徴的だった。突出した部分は無いがバランスの良い細見な肢体を七分袖のセーターシャツとぴっちりしたジーンズが包んでいる。


 その女の顔は、どことなく茅紅に似ている気がした。


「あ、姉様っ」


 茅紅はそう呼びつつ、軽く一礼。


 その他の門人は右拳を左手で包む拱手を行い、その女性に向かって一斉に頭を下げた。


「あー、そういう堅っ苦しい挨拶はいいから。それよりも、どうしたのかな? なんか楽しい事ならあたしも混ぜてちょ」


 その女性は茶目っ気たっぷりに舌を出す。


 茅紅は「姉様」と彼女を呼んだ。


 すなわち、この女性が件の蘇茅藍。


 茅藍はようやく弥太郎たちに気づいたようで、目を向けて言った。


「あら? お客さんが来てたんだねぃ。どういう用件で来たのかな? 入門希望者? それとも道場破り?」

「そなたに勝負を申込みに」


 どこまでも馬鹿正直な武士である。


「勝負」という単語に茅藍は目をギラリと光らせた。


「……へぇ? それって道場破りってことでオーケーなのかな? 侍クン」

「否。先ほども申したが、看板などいらぬ。欲しいのは蘇茅藍とやら、そなたからの勝利である。ソレガシは穂高勁水流、佐伯弥太郎。そなたに一騎打ちを申し込む」


 剣尖を突き付けるような静かな気迫をもって、宣言する。 


 一方、茅藍は目の輝きをさらに強く、剣呑なものにする。


「穂高って……たしか辻斬りが使ってた流儀だよね。ということは君、あの男の兄弟弟子か何かかな?」

「いかにも」

「ふうん……」


 茅藍はそれを聞いて、新しいオモチャを見つけたような笑みをうかべた。


 その表情のまま弥太郎の周囲をゆっくりと周回し、全身を品定めする。


 二、三周すると、茅藍は武士の眼前でピタリと足を止め、拳銃をかたどったような手の人差し指を向けて威勢よく言った。


「いいよ。勝負しよっか。なかなか功夫ゴンフーがあるみたいだし、退屈せずに済みそうだもん」


 弟の茅紅は慌てた顔で姉に詰め寄り、


「だ、ダメですよ姉様! あ、姉様は以前他所様よそさまの道場を破りまくったせいで、劉老師から私闘を止められてるんですから!」

「ダイジョブダイジョブ。ちょっと技術交流するだけだから。それにアンタを傷つけた奴の同門をこのまま何もせずに帰したら、それこそ道王拳社のメンツに関わるってもんデショ。だよねぇ、みんな!?」


 その呼びかけに、門人たちが各々の返事で肯定を表した。


 茅藍はそれを満足げに確認すると、再び弥太郎へ視線を移した。


「というわけなんで侍くん、アタシは君を逃がすわけにはいかなくなっちゃった。仕方がないから立ち合いましょ。そう、これは仕方がないこと・・・・・・・なの」


 その眼差しには、お祭りごとの始まりが待ち遠しくてうずうずしているような、そんな血沸き肉躍る興奮の色が見え隠れしている。


 きっと、「メンツを守るため」というのは体のいい口実だ。禁止されている自身の私闘を正当化するために、多数派の意見を作り上げたのだろう。


 ――聞きしに勝る戦闘狂のようだ。


 そんな茅藍が、ルカの目には得体のしれない未知の生物のように映った。


 けれど弥太郎は少しも臆せず、彼女の提案を頷きで了承した。


「構わぬ。もとよりそのつもりでここへ足を運んだのだ。願ったり叶ったりと言えよう」


 二人の勝負が決まった。

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