8:抜けない刀
弥太郎とルカがメイド喫茶「しゅがーろーず」を後にしたのは、午後6時半ほどだった。
すでに日は没しきり、人の作ったたくさんの光源が夜の新宿を照らしていた。
新宿駅から西に離れた場所に立ち並ぶビル群の間を、二人は並んで歩いていた。
「いやー、それにしてもあの店のプリンは絶品でござったなぁ。頰が落っこちる味というのはああいうものを言うのでござろうな。ソレガシ、我慢出来ずに何度もおかわりをしてしまったでござる」
ホクホク顔で足を進ませる弥太郎にルカは嬉々として同意を示す。
「でしょっ?「しゅがーろーず」の調理師は以前高級レストランの料理長をやっていた人なの。だからウチは料理面でも評価が高いのよ。特にスイーツ系は格別で、女性客まで足を運ぶほどなんだから」
ルカの就業シフトは六時までなので、同じ時間に店を出た弥太郎の後をついて行くことにしたのだ。その時に同僚たちからは彼氏なのかとニヤニヤ顔で勘繰られたが、それを苦笑で否定しつつ店を出た。
弥太郎のおかわりの回数を思い出して微笑ましくなる一方、少し複雑な気分となる。
「いや、料理が美味しいって言ってもらえるのは大変結構なんだけど……メイドの身としてはご奉仕姿勢を評価してもらいたいのよね……」
「ご奉仕? ああ、珍妙な格好と踊りだったでござるよ」
「……それ、褒めてるの? 貶してるの?」
「無論、褒めているでござる。特に「美味しくなる魔法」とかいう
ルカは肩をすくめる。どうやら武士に萌え文化は理解できないようだ。
気を取り直し、話題を別の方向へそらす。
「そういえば、弥太郎くんは今日どうしてこの辺に来たの? 何か買いたいものでもあった?」
「うむ。実は……実は…………」
最初は意気揚々と答えようとしていた弥太郎だが、徐々に声が弱まっていく。
表情もまた、笑顔から落胆に変わっていく。
やがて、地に膝をついて、嘆くように言った。
「なんという事だ……ソレガシともあろう者が、あのような店の甘味に我を忘れて目的を見失うなど……なんという……」
「あのような店」という言い回しに少しイラッとしたルカだが、一応何事かを尋ねてみることにした。
「何? やっぱり何か用事があったの?」
「う、うむ……実は、人を探していたでござるよ」
「知り合い?」
悪気無くそう訊いたが、弥太郎はその質問をぶつけられた途端にまたしても表情を変えた。落胆の表情から、静かに怒りをたずさえたような表情に。
ルカは慌てて、
「あ、いいのよ。無理に答えなくても」
「いや、構いませぬ。答えるでござる。探している人物は——ソレガシの兄だった男でござるよ」
「兄? 君、兄弟がいたの?」
ルカは一瞬、ここにいる弥太郎と同じように武士姿をした男を想像した。
「血の繋がりはありませぬ。ソレガシが師に養子として引き取られる前から、すでに師の義理の息子であった者でござる」
「引き取られた……? 君、本当のご両親は? もしかして、亡くなったの?」
——これ以上は踏み込んではいけない。理性が警鐘を鳴らす。
けれど、ルカは気になってしまった。
どういう生い立ちを送ると、この男のような人物が出来上がるのだろう。それを知りたかったからかもしれない。
弥太郎は少し寂しそうに微笑むと、ふるふると頭を左右に振りながら次のように答えた。
「分かりませぬ」
「え?」
「ソレガシの本当の両親が今何をしているのか、そもそも生死さえも分からないのでござるよ」
「どういうこと、それ……生き別れたとか、捨てられたとか、そんな感じ?」
「いや。むしろ、
どういう意味だろう——その言い回しに引っかかりを覚えた。
弥太郎は一呼吸置くと、ルカの想像をはるかに上回るヘビーな答えを発した。
「ソレガシは本当の両親に——
「え……」
言葉を失った。
今、何て言った?
売られた、って……?
考える暇など与えず、弥太郎は続けた。
「表現に誇張や脚色はない。文字通りの意味に
「そんな……嘘でしょ……」
人身売買。
マイルドな口調で言ってこそいるが、弥太郎が受けた仕打ちというのはまさにソレだった。
犯罪組織が増加した今の日本において、麻薬売買、売春斡旋、人身売買などといった悪質な犯罪の多発が社会問題化している。大抵の被害者、加害者は食うに困った者である。
しかしながらルカは、人身売買などは別世界の事のように思っているフシがあった。
なのでこうして被害者が目の前に現れると、流石の荒事慣れしたルカでもなにを言えばいいか分からなくなる。
——って、あれ?
「10万……
「いかにも。ソレガシが6才まで生まれ育った国の通貨、人民元でござる」
「ちょっと待って。ってことは弥太郎くんって……」
「中国人でござる」
更なる衝撃の事実に、ルカは顎が外れそうになった。どう見ても純日本人って感じなのに、意外過ぎた。いい変化球を投げてくるものだ。
「もっとも、すでに中国語より日本語の方が堪能になってしまったゆえ、日本人と変わらないとソレガシは思っているでござるが」
「それも……師匠に教わったことなの?」
「いかにも」
誇らしげに首肯すると、弥太郎は次のように問うた。
「ルカどのは「
脈絡のない質問に、ルカはまごつきながらも回答した。
「え?え……えっと、一人っ子政策の影響で中国に増加した無戸籍児、だったかしら」
「いかにも。ソレガシはそれと同じく、戸籍を持たぬまま育ったのでござる」
人口増加抑制策である一人っ子政策によって一家族に一人の子供しか産むことを許されなかった時代、二人目以降を産んだら高い罰金を支払わなければならなかった。
都市部はともかく、農村部ではそれは困った問題だった。何せ老後の面倒を見てもらうには男子が必要だったからだ。そこで女児が生まれてしまったら、それ以降男子を産めなくなる。産めば罰金確定だ。富裕層にとってはなんでもない額だが、貧しい農村部にとってその罰金は痛い額だった。
――が、それは政府の書類に記録されてしまったらの話。たとえ一人以上産んでも、出生届を出さなければ産まれたことにはならない。
そのルールの抜け道を利用する形で、二人目以上を出生させてしまうケースが次々と発生。大量の無戸籍児が生まれてしまった。
戸籍が無いということは、社会的に存在しないのと同義。普通の人が当たり前のように受けられる公的保証制度の恩恵を受けられなくなってしまう。人として尊重されるべき権利の一切が尊重されなくなってしまうのだ。
そういった生い立ちを抱える子供たちこそが「黒孩子」。
社会的立場が無いに等しい彼らに、タチの悪いゴキブリが寄ってくるのは自明の理だった。彼らの多くは組織に売られて人身売買の商品にされたりなど、酷い末路をたどったという。
……けれども、それはもう昔の話だ。
「ち、ちょっと待って。確か一人っ子政策って、働き手の減少を鑑みてもう廃止されたはずよね?」
「いかにも。ソレガシの両親はソレガシを産んだ後、
話が繋がった。
ルカは恐る恐る口にした。
「つまり……売るために?」
「いかにも。貧しい家が一気に大金を稼ぐには、自分で産んだ子供を金に変えるくらいしかなかったのでござるよ」
そう。弥太郎の両親は売るために出生届を出さず、無戸籍児にしたのだ。
戸籍を持たない者は社会に存在していないも同然。もっと酷い言い方をすれば、社会から人間扱いされないのだ。犯罪の被害にあったとしても、警察は助けてくれない。
どうだろう?カモにする上でこれほど都合のいい存在がいるだろうか?
ルカはそんな恐ろしい考えを抱いた弥太郎の生みの親に対して戦慄し、怒りを燃やした。もし目の前にその親がいたら、本気でぶん殴ってやりたいと思った。
「ソレガシがその事に気がついたのは、売人に売り渡される直前の事であった。だから逃げた。けれども組織の者に追われてあっという間に追い詰められ、もはやこれまでと思ったその時、あの方が現れた」
「あの方っていうのは……もしかして君の師匠?」
弥太郎が急に上機嫌となる。
「いかにも。我が師にして義父、
それらを語る弥太郎の表情には、尽きんばかりの希望で満ちている。
「恩人、なのね」
「うむ。父上がいたからこそ、今のソレガシが存在するでござる。身罷られた今でも、父上には感謝の言葉もありませぬ」
義理の父親との出会いは奇跡だったに違いない。もしその人物が現れなかったら組織とやらに捕まって、酷い末路を辿っていたことだろう。仮に逃げ切れたとしても、その後世界の残酷さに揉まれて心のねじ曲がった人間に成長していたと思う。
そう考えると、この武士姿の変人が出来上がったことも素敵に思えてくるから卑怯だ。
「父上の没後、ソレガシと義理の兄は児童養護施設へ引き取られた。その後すぐに別々の里親にもらわれ、今に至るというわけでござるよ」
兄——その単語から、この会話の原点を思い出した。
「話を戻すけど、弥太郎くんはお兄さんを探していたんだったわよね?久しぶりに挨拶でもしにいくの?」
「否」
弥太郎は強い語気で即答した。まるでルカの言葉を刀で斬り捨てるように。
弥太郎を見る。
先程までの笑みが、嘘のように険しい表情となっていた。
「ソレガシがその
弥太郎がその先を口にしようとした瞬間、
ズバガァン!! という轟音が響いた。
「きゃっ!?」
ルカは思わず肩を震わせた。
まるで雷でも落ちたような凄まじい衝撃音。
その音は止んだ今でも虚空に残響しており、往来する人の何人かの足を止めていた。
「な、何今の? 銃声?」
そう呟くルカを尻目に、弥太郎は表情を硬直させていた。
その謎の轟音に、聞き覚えがあったからだ。
弥太郎の脳裏には――幼い頃、師の「教え」に背いて好奇心から穂高の剣術をこっそりと使い、そのあまりの威力に腰を抜かした記憶が浮かんでいた。
「この音……もしや『
音から穂高勁水流の一技法を連想させた弥太郎は、音のした方角目指して走り出した。
「ちょっ、弥太郎くん!?どこ行くのよ!?」
ルカもまた、そんな弥太郎に走ってついて行くのだった。
弥太郎の足は思いのほか速く、短距離走学年二位の成績を誇るルカでも追いすがるのがやっとであった。
歩いている大勢の人の間を巧妙に縫って進んでいく二人。この辺りは武術の熟練者である二人にとってはそう難しくなかった。どんな武術であれ歩法や体捌きを大切にするからだ。
周囲の情景を見る余裕もなく、ただ前を走る武士の背中だけを捉えながら夜の街を走り続ける。
息切れが出始めたのとちょうど同じタイミングで、周囲の情景に明確な変化が訪れる。周囲を照らす照明の光が皆無となり、暗闇となった。
否、天上に輝く満月のほのかな月明かりだけが照らしていた。
ようやく、弥太郎の足が止まる。ルカもそれに合わせて停止。
「ど、どうしたのよ、弥太郎くんっ」
多少の息切れを交えつつ問う。
だが、吸った空気には妙な匂いが宿っていた。
——むせ返るような金属臭。
咳き込みそうになりながら一歩前へ踏み出した。ぬちゃ、という粘度がある液体の感触。
ルカの革靴が、水溜まりの中に浸かっていた。
否、水ではない。月光でうっすらながら分かる。
「え……」
一瞬、思考がストップする。
再起動した頭で、これまでの情報を手繰り寄せる。
鉄臭い匂い、
やや粘り気のある液体、
その色は赤、
答え——血液。
「ひっ……!?」
喉の奥から細い悲鳴。現実感の無さに数瞬の間、立ちくらみのような症状に襲われる。
ギリッ、と歯軋りする音。
それを出した者が弥太郎であることは、その憤怒に燃える横顔を見て分かった。
その視線をなぞっていくと、闇の中にたたずむ一人の人物へ目がとまった。
撫で肩気味な細身の体格で、その上下には真っ黒な小袖と袴を着ていた。生え際まで真っ白な頭髪には、ところどころに血の赤が付着していた。
極め付けに、その左手には日本刀。緩い反りを持った片刃は月光を反射して血塗れな己が身を主張していた。
切っ先から滴り落ちる赤い雫を見て確信した。この男だ。この男がこの血溜まりを作ったのだ、と。
では、何を斬った?
その答えは、白髪男の足元に
持ち主から切り離された片手と両脚。
「——っ!!」
それを見ただけでも心臓が止まりそうになったルカが、白髪男の先にある光景に普通の反応など出来るはずもなかった。
そこには、変わり果てた「持ち主」の姿があった。
白髪男の足先から行き止まりの壁までの地面には、巨大な
それを視認した瞬間、ルカの心の中で何かプツン、と切れた。
「うっ…………ぅおえぇえっ」
うずくまり、道の端に胃の中身を吐き戻した。今朝食べたアンパンの粒餡がうっすら混じっているな、などとぼんやり考えながら。
弥太郎はというと、そのショッキングな有様に不快感を示していなかった。
白髪男に対する燃えるような怒りが、それを上書きしていたからだ。
「支倉……刀哉……!」
怒気によって震えた声で、弥太郎は口にした。
すると、それに反応して白髪頭が振り返った。顔立ちは二十歳に届くか届かないかという優男。しかしその瞳に宿る冷たく剣呑な眼光は、その若さで発していいものではなかった。
その男は弥太郎を認めると、まるで歩いている途中に友達と出くわしたような軽い口調で言った。
「なんだ、弥太郎じゃないか。東京に来ていたのか」
弥太郎の拳がギリギリと握力を強める。
「よくもヌケヌケと……!そこの者は貴様がやったのか? その剣で!」
「そうだよ。最初は良い斬り合いだったが、『鈴虫』を使ったらあっけなく終わった。もう少し骨があるかと期待していたが、見込み違いだったみたいだ。あんな斬り合いは些事、些事、些事だ」
弥太郎は驚愕。再びかんばせを怒りに染め上げ、
「『鈴虫』だと!?あのような技を人間相手に使ったのかっ!!」
「むしろ人間以外に使うべき対象があるか教えて欲しいものだ。穂高勁水流は剣術。剣術は人を殺すための技。決して戦車や鉄筋を斬るための見世物ではない」
「穂高勁水流」という固有名詞が出た事で、吐ききってボーッとしていたルカの意識が明瞭化する。口に付いた吐瀉物を手の甲で拭ってから、
「穂高……? ちょっと待って、その男ってまさか……」
もしこの白髪男がルカの想像通りの人間だとしたら、噂をすれば影にも程があるというもの。
次に弥太郎の発した言葉によって、その想像は真実へと変貌することとなる。
「……いかにも。この男こそソレガシの義兄だった人物、そして開祖の課した禁を破って穂高の剣を悪用した卑劣漢——支倉刀哉」
その白髪男、支倉刀哉は薄ら笑いを浮かべる。
「ご挨拶だな、弥太郎。久しぶりに合間見えた義兄弟だというのに」
「吐かせィ!! 今の貴様は昔の「兄上」に非ず! 欲望のまま恣意的に凶刃を振るう「鬼」だ! 貴様に我が義兄を名乗る資格も、穂高を名乗る資格も存在せぬわっ!!」
「言いたい放題じゃないか。けどなぁ、お前こそ東京に来て少し浮ついたんじゃないか?良い女をコマしたじゃあないか。もう抱いたのか?ん?」
煽るような刀哉の言動を無視し、弥太郎は鋭く言い放った。
「教えてやる。ソレガシが
疾駆。
穂高勁水流特有のしなやかなフットワークは刀哉との間隔をほぼ一瞬で潰した。両者の間合いの先端が重なる。
血塗れの刃が横一線に疾る。だが弥太郎は柔軟な股関節を生かして深く腰を沈めていたため、その刃の真下をくぐれた。そのまま刀哉の間合いのさらに奥深くへと侵入。
屈曲させた軸足のバネを解放。草鞋を履いた足底から上半身めがけて弾けるように力が昇り、その動きに合わせて右掌を矢のごとく伸ばす。
伸びてきた右掌底を体の捻りだけで躱す刀哉。それから弥太郎の右手首へ刃を当て、それを素早く手前へ引き寄せて動脈を切り裂こうとする。
その引き斬りより一瞬先に、弥太郎が急激に全身を横回転させた。遠心力によって刀哉の刃から右腕が離れ、ぐるりと円周して戻って来る形で敵の側頭部へ迫った。その腕刀は鞭の速度で刀哉の頭を殴り抜かんとする。
弥太郎の視界の中で、刀哉の顔が一気に大きくなった。腕の外側をなぞるようにして歩を進め、弥太郎の腕刀を右手で受け止めた。遠心力を利用した打撃は内側ほど力が弱いのだ。
そこから左手に握った刀で胴を斬りつけようとする動きをいち早く察知した弥太郎は、刀哉の刀の柄尻を草鞋の裏で踏むように蹴りつけた。敵が後方へ吹っ飛び、両者の距離が広がる。
ぐちゃ、と刀哉が血溜まりに着地し、一笑する。
「相変わらず無手を貫いているようだな。そんなのでは窮屈だろう?お前も刀を抜いて暴れてみろぉ。そんなオマケみたいな技を振り回すよりよっぽど気持ちがいいぞ?」
「ふざけるな!穂高の剣をみだりに抜くことは父上の教えに反する!無双の剣は抜かぬ事に意味があるのだ!」
「今の言葉、そのまま返してやる。——ふざけるな」
軽佻浮薄な語気が一変、憎悪で研ぎ澄まされたものとなる。
弥太郎はそのドス黒い気迫に圧され、半歩足を退く。
「亡き父、花菱賢之助は武術家としては超一流だった。が、思想家としては四流以下だ。どんな敵をも容易く断つ無双の剣を鞘に縛り付け、収蔵品として腐らせる事を"良し"とする「士道」など、タチの悪い呪縛に同じ。そのようなもの、些事中の些事」
「貴様っ……父上のみならず、その生き様さえも愚弄するかぁっ!!」
溢れる怒りを抑えきれずに発する。空気を伝播して壁がビリビリと振動した。
その怒声をそよ風のように受け流し、刀哉は撫で肩をすくめる。
「お前は自分を本気で殺そうとしている者に対し、ニコニコ笑いながら命を差し出す愚か者なのか?敵を必ずバラバラに出来る最強の剣を腰に差しておきながら、抜かないどころか柄にさえ触りたがらない腰抜けか?」
そこまで言うや、刀哉は腰に差したもう一本の刀を鞘ごと引き抜き、弥太郎へ投げてよこした。
武士が鞘を掴み取ると、白髪の鬼は言い放つ。
「いいか?俺は今から、本気でお前を殺しにかかる。お前はその刀を抜き、それを全力で食い止めてみせろ。剣を抜いた穂高相手に素手で挑む事がいかに愚かなのか、お前も知っていよう?」
弥太郎は切歯する。
悔しいが、この男の言う通りだ。
穂高の剣を破れるのは、同じ穂高の剣のみ。もし無手で向かっていけば、自分は確実に殺される。
普通に考えれば、ここは剣を抜いて戦いに出るべきなのだ。
まして自分の目的は、この男を再起不能になるまで痛めつけて二度と穂高の技を使えぬ身体にすることのはず。ならばなおさら、この受け取った刀を抜くべきなのだ。
しかし。
柄を握る弥太郎の手は震えていた。
斬り合う事が怖いわけではない。
相手を傷つける事が怖いのだ。
穂高の剣の威力は、弥太郎も良く知っていた。だからこそ、その剣を人に使う事の恐ろしさを痛感している。
そんな義弟の心理を読んだ刀哉は、心底落胆したと言わんばかりにため息を吐いた。
「冗談だ。今のお前など、殺すに値しない。斬れる剣を持ちながらそれを抜こうともしない、その覚悟もないお前などな。このあたりで失礼させてもらおう」
刀を振って血を払い落とす。壁面に赤い線がぴちゃり、と描かれた。
納刀し、ゆっくりと歩み寄ってくる。
弥太郎の隣まで来たかと思うと、そのまま通り過ぎていく。まるで弥太郎など最初から存在していないかのように。
弥太郎は動けなかった。ルカも動けなかった。すぐ眼前まで迫った殺人鬼を前に、身体が微動だにしなかった。
金縛りから脱したように、弥太郎は義兄の方を振り返る。
「ま、待て! まだ勝負は――」
「その刀はお前に預けておく。安心しろ。それで人を斬ったことはない。
刀哉は曲がり角の奥へと消えて行った。
弥太郎は脱力し、膝を付いた。
――今、自分は「安心」している。
この刀を抜かずに済んだことに。
兄と斬り合いを演じずに済んだことに。
兄が何もせずに立ち去ってくれたことに。
それが、たまらなく情けなかった。
どうしてあの時、剣を抜けなかった? あの時こそ、穂高の剣を抜くべき時であったはずなのに。
父からの教えに準じたから? 否、それは言い訳だ。
相手を斬る覚悟が無かっただけだ。
自分はかつて、一度だけ父の教えに背いて穂高の剣を抜いたことがあった。それは幼さゆえの好奇心からなる軽挙であった。
しかし、自分より大きな岩の塊が断ち割れるという破壊力を見た瞬間、後悔と恐怖を抱いた。このようなものを人間相手に用いたら……想像しただけで怖気が走った。父や開祖が抜刀を戒めた理由を垣間見た気がした。
穂高の剣は抜いてはならぬ。改めてそう思った。
けれども、その穂高の剣技によって殺戮が行われている。
穂高を止められるのは穂高のみ。それを痛感している自分は、あの時剣を抜くべきだったのだ。そうすることで、これ以上犠牲者が増えることを阻止できるから。
それなのに――――抜けなかった。
終わりの無い自己嫌悪の円環。その黒い感情のまま、刀哉から渡された刀を地面に叩きつけようとした瞬間、自分のモノではない別の手が鞘を掴んで止めた。
「……ルカ、どの」
「刀を投げろ、ってお父様に教わったの?」
厳しいながらも、諭すような優しい口調でそう言った。
それを聞いた途端、弥太郎の総身を支配していた黒い熱がスッと冷えた。
「弥太郎くん、君はあの時剣を抜けなかった事を悔やんでるのよね」
「いかにも……」
「悔やむ必要なんかないわ。むしろ誇るべきよ。もし私だったら、あの場でブチ切れて剣を抜いていたかもしれない。でも、君は何があっても抜かない姿勢を貫いていた。たとえどんな強い剣技を使ってこられても、君は無手を貫くつもりだった。違う?」
「……それは、そうでござるが」
「なら、胸を張りなさい。君の武士道が飾りじゃなく、本物だっていう証なんだから」
ルカの一言一言が、心の深層へ沁み入っていく。
やがて気力が少し戻った弥太郎は、スッと立ち上がった。まだぎこちない感じがするが、微笑んで見せた。
「かたじけない、ルカどの。ソレガシ、もう大丈夫でござるよ」
ルカもまた口元を緩めて頷きを返した。しかし、すぐに表情をキリッと引き締め、
「それよりも弥太郎くん、あの男が……」
「いかにも」
曖昧な形での問いに、武士は迷わず頷いた。
「あの男こそ、ソレガシの義理の兄だった支倉刀哉。昔、父上の下でともに穂高勁水流を学んだ兄弟子でもあるでござる。以前は誠実で心優しく、ソレガシも随分とよくしてもらったが、今ではあのような人を斬ることを至上の喜びとする狂人となり下がった。ソレガシはあの男を止めるために、この東京へやってきたのでござる」
人を斬ることが至上の喜び――そのフレーズから、ルカは最近この東京で相次いでいるとある連続猟奇殺人事件を連想させた。
「まさか、最近横行してる「連続辻斬り事件」の犯人は……!」
「いかにも。あの支倉刀哉でござる」
今日は驚いてばかりな気がした。
昨日、警官は弥太郎が辻斬りではないかと疑った。彼自身が辻斬りだったわけではないが、その関係者だったのだ。何たる偶然か。
「ソレガシは一ヶ月ほど前、刀哉と再会した。奴は「より強くなるために、より強い武術家と戦い、斬り殺してくる」と発言した。当然、止めに入った。しかし、その要求は完全に切り捨てられ、説得は叶わなんだ。東京で連続辻斬り事件とやらが起こったのは、それから一週間後でござる。動画サイトに投稿された事件現場動画に映っていた犯人の顔を見て、明らかに刀哉であると確信した。ゆえにソレガシは母上らに無理を言って、入学したばかりの学校をやめて、仲暮高校に編入したでござる」
入ったばかりの学校をやめて別の高校に編入するのは、とても面倒なはずだ。それをわざわざするという点は、何としても兄を止めようという弥太郎の意思の強さを表していた。
「このままでは、奴はさらに多くの者の命を奪うことだろう。その前にソレガシは何としてもあの男を再起不能にしなければなりませぬ。もう二度と穂高の技を使えぬほどに。それが父上から技と心を受け継いだ者としての使命であり責務でありますれば」
「そっか……」
ルカは不思議とすんなり納得できた。「再起不能にする」などという不穏当な言い回しに引っかかりを覚えなかったのは、今のこの惨状を見てしまったせいかもしれない。
「次こそは……次こそは止めてみせるでござる。この剣を、抜く事なく」
手にした刀を前に出し、そう静かに、しかし力強く誓った。
そんな武士の立ち姿は一見岩のように盤石そうに見えるが、よく見ると、なんだか独りぼっちで戦っているような儚さが感じられた。
それを見て、ルカの中にある気持ちが湧き上がった。
「私も……」
そう。「力になりたい」という気持ちが。
「私も協力するわ」
「否。危険すぎるっ」
即座に拒否した弥太郎の声色は、いつもより糾弾の意思で尖っていた。
けれどもルカは気にも留めない。
「戦うことだけが協力じゃないわよ。君、この東京に来て間もないんでしょう?知り合いやツテはあるの?まさか、この広大な東京の中であの男を探すために、あちこち一人で回るつもりじゃないわよね?」
「……む」
痛いところを突かれた、とばかりに瞳を閉じる。
「そういうところは、私が協力してあげるって言ってるの。私には情報通の友達もいるし、戦うことができなくても力になれると思うのだけど」
「それは……そうかもしれませぬが」
「それにね弥太郎くん、これは君のためだけにやることじゃないの。もしあいつを放置しておいたら、いつか私の父さんが狙われるかもしれない。そうなる前にあいつをこらしめて、しかるべき場所で裁きを受けさせたいのよ」
白状しよう。そんなものは詭弁だ。
無論、「正義感や周りを思いやって」という理由も嘘ではない。しかし、弥太郎の力になりたい、という思いの方が正直なところ大きかった。
人を真顔で斬り殺すような狂人にたった一人で立ち向かおうとしている弥太郎。その孤独で寂しい立ち姿を見て、ルカは初めて弥太郎に「歳下」を感じた。
……そう。簡単に言ってしまえば、無茶な弟を放っておけない姉の心境に似ていた。
弥太郎はしばし考え込むようにうつむくが、やがて頭を上げ、一礼してありがたそうに言った。
「——かたじけない。どうか、よろしくお願い致す」
弥太郎はまた顔を上げ、
「しかし、奴と戦うのだけはソレガシ一人に任せて欲しいでござる。言いにくい事ではありますが、奴の相手はルカどのでは荷が重く感じます故に」
「うぐ……わ、分かったわよ」
遠回しに「足手まといだ」と言われて少し傷ついたが、首肯する。
「して、ルカどの、まずは何をすべきだと思うでござるか?」
「そうね。まずは——」
ルカは転がっている惨殺死体に目を向け……ようとしてやめ、咳払いしてから言った。
「警察に連絡するべきね」
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