閑話3:化け物
ネオンやLEDの煌めきに照らされる夜の新宿駅東口付近の交差点には、右へ左へ前へ後ろへと幾人も人が通っていた。
その中に、一際目立つ姿の白人が歩を進めていた。
長身で細身だが程よく鍛えられた肉体。ブレザーの裾が膝まで伸びたグレーのスーツ。顔の輪郭はシャープだが貧弱そうではない。鋭い翡翠色の瞳をしており、左目には上から下へ傷跡が走っていた。肩甲骨まで伸びた銀色の髪は所々ハリネズミのようにささくれ立っていて、狼を彷彿とさせる。
ヴォルフガング=バッハマン。現在破竹の勢いで勢力を拡大している新興マフィア『
彼の足は、真っ直ぐに歌舞伎町へと進んでいた。
歌舞伎町を界隈にしている極道組織の一部を消し去ったことで、歌舞伎町の4分の1は『群狼』の縄張りと化した。その場所で得たみかじめ料などを活動費として、ヴォルフガング子飼いの組織はさらに力を付けつつあった。
しかしながら、力だけでは満足できない。力という熱を冷ます潤いが欲しかった。
週末になるとヴォルフガングが歌舞伎町へ女を漁りに行くのは、そのためだった。
売春禁止法によって、本番行為ありの風俗店は今でも日本では禁止されている。しかし少し深く潜ってみれば、売春窟などすぐに見つかる。連中は法の目を逃れるべく様々な小細工を弄しているのだ。
ヴォルフガングのお気に入りは、多い頻度で通っている売春宿のアジア系の女だった。抜群のスタイルと不幸そうな美貌が男に湿っぽい劣情を煽る。その店では一番高い娼婦である。今の自分ならば、彼女を毎週抱けるための金は
力と
交差点から出てビル群の間を通り、大通りへ出る。大きな道路を隔てて向こう側にはギラギラと輝く新宿歌舞伎町の威容。
ヴォルフガングが信号を渡ろうとした瞬間、手前へ向かって歩いてきた白髪頭の男と肩がぶつかる。
一瞬苛立ちが湧くが、無視して通り越そうとする。
だがその白髪頭は横歩きでこちらの行く手を塞いだ。
「……何の真似だテメェ。死にてえのか?」
翡翠色の瞳を剣呑に輝かせ、白髪頭の男を射抜く。堅気の人間ならば大抵この眼光一発ですくみあがるものだ。
けれど、その男は少しも震えなかった。
それどころか、ニヤリと笑いさえした。
「――『群狼』の首領、ヴォルフガング=バッハマンとお見受けする。この俺と立ち合ってはもらえないか」
その発言に、ヴォルフガングは眉を深くひそめながら、
「テメェ……堅気じゃねぇな。血の匂いがしやがる」
「分かっているなら話は早い。どうかな、俺と本物の斬り合いを演じてみたくはないか」
「失せろ。テメェみてぇなイカレポンチと遊んでられるほど俺は暇じゃねぇんだよ」
「なら……こういうのはどうかな?」
すると、白髪頭は羽織っていたマントのような長い黒コートを少し開き、細い隙間から中を見せた。
暗闇の奥で光る青い瞳と目が合った。
「っ……バーンズ……!?」
ヴォルフガングはギョッとする。
自分の側近の一人であるイギリス人男性の生首が、白髪頭の懐に収まっていた。
「で、どうする? これでもまだ大物ぶって通り過ぎるか? なら貴様に用はない。そんな腰抜けを斬ったところで些事である」
夜闇の中で、白髪の男の瞳がヌラリと光る。
組織の者に手を出されて黙っていたのでは『群狼』の
マフィアの世界はナメられたら終い。そんなルールをこの男は知っている。
知った上で、こうしている。
ならば、そのあからさまな挑発に乗ってやるのが礼儀というもの。
「……面白ぇ。人の来ねえ場所連れてけや。地獄を見せてやるよ」
そうして案内されたのは、ビル群の間に通う路地裏の行き止まりだった。光で照らされた表通りと違って闇が沈殿している。光源は空に浮かぶ満月のみ。
新宿駅西口まで歩かされ、白髪頭はようやくそこで止まった。それに合わせてヴォルフガングも立ち止まる。
「へぇ、良いチョイスじゃねぇか。ここならテメェの体を思う存分削り取れるってもんだ」
ヴォルフガングは戦意と殺意に満ちた緑眼を烱々と輝かせる。透き通った殺意を宿す瞳には、上から降りる月光を浴びた白髪の立ち姿。
「そうだ。テメェの名前教えろや。オレたちを『群狼』と知りつつちょっかいを出した蛮勇に免じて、申し訳程度に墓標でも作ってやるからよ」
「支倉刀哉。これが今から貴様の首をはねる者の名だ」
白髪頭は静かに名乗り、中に隠してある生首ごとコートを脱ぎ捨てる。
露わになったのはコートと同じくらい黒い小袖と袴。腰に差した二本の刀。
白髪、着物姿、刀――そのキーワードからヴォルフガングは答えを導き出した。
「なるほどなぁ。テメェが連続辻斬りとかいうイカれたサイコ野郎か」
「いかにも。そういうわけで、手合わせ願おうか『
「手合わせ? ナマ抜かすな。これはオレ主導の虐殺ゲームだ。これからテメェの体を
言うや、ヴォルフガングは構えを取った。大腿部が地面と平行になるほど腰を落として半身となる、狼が飛びかかる寸前のような構え。
それに答えるかのように支倉刀哉も刀の一本を抜いた。
互いに構えたまま止まる。
体は動かない。
視線も動かない。
けれども二人の意識は目まぐるしく動いている。
互いに互いの最初の一手を読み合っているのだ。
一流の武術家同士の戦いは、読み合い潰し合いになることが多い。全身を覆う随意筋の微細な動き、重心の動き、呼吸、服に生まれる皺などの些細な情報から一手先の動きを予測して、機先を制してソレを潰す。さらにそこからまた次の一手を読んで潰してまた読んで潰して読んで潰して読んで潰して……そんな途方もないイタチごっこが延々と繰り返される。
けれどどんな名人達人であれ、ずっと隙を見せないなんてことは不可能である。そのほんの僅かな「隙」をイタチごっこの中から探り当て、そこを叩く。これこそ一流同士の戦いだ。
刀哉もヴォルフガングも、相手の体を細部まで見ながら「先読み」を行っていた。しかしながら二人とも驚くほど微動だにしない。これではいつまでも始まらない。
そうなると、次に行うべきことは変わってくる。相手が構えに疲れるのを待つか、あえてこちらから攻めて相手の動きを誘うかだ。
ヴォルフガングは早く刀哉をいたぶりたくて仕方がなく、若干気持ちの
「――シ!!」
地球を蹴り抜くつもりで瞬発。山のように重心を低くした五体に突風のような速力を宿らせ、敵に急迫した。激甚な踏み込みを交えた重々しい掌打を鋭く伸ばす。
やはりというべきか、刀哉はその一撃をサラリと身をひねって躱した。そこから流れるように左手に握った刀で突いてきた。
ヴォルフガングは頭を軽く横へ動かし、顔に向かってやってきた剣尖を避けた。だが次の瞬間刀身の軌道がかくん、と角度をつけて変化。刃がヴォルフガングの首を刎ねんと急接近する。
白刃は
ヴォルフガングは革靴のヒールで大地を踏み切った。限界まで屈曲させた軸足のバネが解放。急激に立ち上がる勢いを込めた掌撃を叩き込む。
「おっと……」
刀哉はヴォルフガングの掌に自身の右前腕を擦らせ、その摩擦によって威力を軽減させた。けれども勢いは殺しきれずに後ろへ押し流された。その際に薙ぎ払われた刀の一太刀をヴォルフガングはボクシングの「スウェー」の要領で上半身を引っ込めて躱す。
再び向かい合って立った状態へ戻る。
ここまでのやりとりでかかった時間は――僅か一秒弱。
「良い反応だな。少しは骨がありそうだ」
「吐かしやがる。得物がねェと粋がる事も出来ねぇエテ公風情が」
そう言って
ヴォルフガングの基本武術は中国拳法だ。特に体ごと突っ込んで強烈な発勁を叩き込む八極拳や形意拳などの技を戦術の根幹としている。
クソ溜め同然なスラム街暮らしの幼少期、中国拳法道場をこっそり覗いて盗んだ拳である。盗み見は中国拳法の世界では最大のタブーの一つだが、成り上がるためにヴォルフガングは手段を選ばなかった。
ヴォルフガングは己の肉体一つで数え切れないほどの修羅場をくぐってきた。自身もそれに矜持があった。だからこそ目の前の男を「武器を持たないと喧嘩もできないサル」と嘲った。
そんな嘲笑を、その
「素手で相手をしても問題無いが、あいにく剣で人を斬らないと意味がないんだ。長年抑圧されてきた技をようやく振りかざせるんだ、ソレを使わないと勿体ないだろう?」
「ふん、だったら好きなだけチャンバラごっこでもしてんだなぁ…………地獄でよォ!!」
ヴォルフガングは再度矢のように飛び出す。間合いへ刀哉を入れた瞬間に片膝を抱え込み、靴裏を真っ直ぐ放った。
刀哉は胴体へやってきた蹴りを紙一重で躱しつつ、ヴォルフガングの蹴り足めがけて切り上げを放つ。
刀身が下腿に接触する刹那、ヴォルフガングは稲妻のような速さで蹴り足を引いた。刀哉の斬撃が下から上へ振り抜かれた瞬間に、浮かせた蹴り足で一気に敵の懐へ踏み込んだ。前腕部を前にした
重心がおぼつかなくなったところでヴォルフガングはさらに接近。
左掌の上に右掌を重ね合わせ、
「ハァッ!!」
裂帛の気合いを交え、その重ね合わせた両掌を前へ押し出すように放った。
だが直撃まで紙一重に迫った瞬間に刀哉は重心の安定を取り戻し、鋭く腰を切る。両掌が当たるはずだった刀哉の体の位置が横へズレる。延長線上には行き止まりの壁。
足がコンクリートにめり込むほどの震脚とともに両掌が壁面に直撃。途端、ズボンッ!!という爆発音をこもらせたような轟音が響いた。
通り過ぎる拍子にやって来た刀哉の横薙ぎの斬撃を、ヴォルフガングは大きく腰を反らせて避ける。
互いに間合いを離し、そこで一度静止する。
刀哉がヴォルフガングの後ろにある壁面を見ながら感心したような口調で呟いた。
「ほう? それが噂に名高い『滅手』か」
ヴォルフガングはニヤリと笑う。先ほど両掌を打ち込んだ箇所には――ぽっかりと綺麗な半球状の穴が出来上がっていた。まるで、半球状にその箇所がごっそり「消滅」したかのような穴だった。
否。「消滅」ではない。打った箇所の「深層部」と「表層部」を同時に粉微塵にしたのだ。その証拠に、穴の下には
『滅手』。ヴォルフガングの通り名にして看板技。
中国拳法には『
ヴォルフガングは長い年月をかけてその『沈墜勁』を徹底的に鍛え上げ、爆発的な攻撃力を手に入れた。コンクリートさえ穿つほどの踏み込みは十数トンにも及び、その重さを高速で衝突させる発勁はあらゆるモノを跡形も無く破壊する。
――『滅手』は、その破壊的な打撃に特殊な「氣」の練りを加えた技。
右掌では「相手の体内を貫く」
これを手に入れるまでに、ヴォルフガングは長い年月を費やした。特に右手に用いる「貫く」意識を養うのに時間がかかった。右手に持ったナイフでぶら下がった豚肉を刺す練習を何度も行い、「貫く」という意識を徹底的に脳と右手に覚えこませたのだ。
「今度はコイツでテメェの体を一欠片残さず削り取って、缶詰めのミートパティみてぇにしてやるよ」
ヴォルフガングは思い浮かべる。四肢を削り取られた刀哉が、泣き喚きながらイモムシのように身をくねらせて逃げる有様を。
嗜虐心が湧き上がる。オレの「群れ」を虚仮にしやがったこのクソ野郎を早く挽き肉にしてやりてぇ。それでもって袋詰めにしてブタに食わせてやる。そうすりゃ気分は爽快だ。
そう。ヴォルフガングは己の勝利を疑っていなかった。
けれど、刀哉はなおも笑みを崩していなかった。
その様子に、ヴォルフガングは内心で気圧される。
「良い、良い。流石は一組織をまとめ上げているだけはある。そこいらのエセ武術家とは違うな。これは俺も「奥の手」を見せなければ失礼というもの」
――奥の手、だと。
負け惜しみか。
一瞬そう考えた。
しかし刀哉の表情、瞳には虚飾の色は見られなかった。
それを見て確信する。
何かが起こる、と。
刀哉はおもむろに刀身を真上に立てる。天地と垂直の関係となった刃が月光を受けて冷たく輝く。
「
さらに、妙な声を出し始めた。
その声は端から端まで小刻みに震えている。それは恐れおののいているようにも、燃える戦意に声を震わせているようにも聞こえた。
声だけではない。もう一つ「ピリリリィィィィィィ……」という、鈴虫の鳴き声のような甲高い音が聴こえてきた。音源は天に突き立てられた刀身だった。月光によって白く光るその姿が、まるで蜃気楼のようにおぼろげに揺らいで見えた。
かと思えば、刀哉は敵へ向かって走り出した。
それほど離れていなかった距離はすぐに埋まる。
間合いと間合いがぶつかった途端、刀哉はそのおぼろげな刀身を疾らせた。狙いは、ヴォルフガングの右腕。
そこを斬り落とされたら、『滅手』は使えなくなる。
無論、
――馬鹿が。
ヴォルフガングは心の中で嘲った。
自分の武器を守るための対策はしておいて然るべきだろう。
スーツの下にある前腕部には、特殊鋼で出来たプロテクターが装着されている。スペースシャトルや人工衛星にも使われている非常に高い硬度を誇る金属だ。いかなる剣術の斬撃でもこのプロテクターを斬ることは出来ない。
さらにその鋼板の下には超低反発薄型ショックアブソーバーが敷かれている。ゆえに衝撃にも滅法強い。
その刃が腕に当たった所で無意味だ。斬れ味も、斬撃の重さも、スーツの下にある防具が全て受け止め
スッ。
という、
けれども、それが刀哉の放った一太刀の斬れ味を如実に物語っていた。
前腕部の、
どちゃ。
水気の多い落下音。
「っ……!!ぐ、ぐおぁぁっ…………!!」
途端、思い出したように訪れる激痛。流血。喪失感。悪寒。
分かれた右腕同士の断面からとめどなく血が流れ、革靴があっという間に血溜まりに浸かる。
「……!!」
だが、この程度で発狂していてはマフィアの頭は張れない。微かにだが落ち着きを取り戻したヴォルフガングは、見たくはないが斬られた自身の右腕の断面を見た。
プロテクターの金属の断面が、
刀哉はくつくつと
「穂高勁水流『
「っ!!っ……おおおおおお!!」
ヴォルフガングは憤激に任せて突っ込んだ。右手は無くなったが左手がある。削り取ることはできなくてなったが、挽肉になるまで殴り倒すことはできる。
しかし、そんな
刀哉が端から端へ剣を振った途端、大腿部から先の感覚が"消失"。
ヴォルフガングは宙を舞っていた。仰向けに落下しながら目にした――持ち主を失った両脚を。
背中から着地した瞬間、途切れた両脚にマグマに足を突っ込んだような激痛が襲ってきた。
「ぐああああああああああああ!!!」
ヴォルフガングは今度こそ本気の絶叫を上げた。
血溜まりを芝生のような気軽さで踏み進んでくる刀哉。
仰向けに倒れたヴォルフガングまで到達。
「残念だよ、ヴォルフガング=バッハマン。これで終わりだなんて。結局お前も些事で終わるのか。これなら『
失望するような言葉に堪えつつ、ヴォルフガングは残された左手をベルトのバックルに伸ばしていた。バックルは隠し銃となっていて、一発だけ9mm弾が入っている。その白い脳天を真っ赤に染めてやる。
だが手の甲に突き刺さった剣尖がそれを許さなかった。意外にもそれほど痛くはなかった。だがそれは手足を斬り飛ばされる痛みの方がよほど凄まじかったからだ。
「ヤクザは用意周到だからな。ほんの少しでも勝手な動きを許したら何をされるか分かったものではない」
「こ……この、化け物が……!!」
比喩に非ず。ヴォルフガングは本気でそう思っていた。
どんな銃弾も斬撃も通さなかったあのプロテクターをバターみたいに斬り裂く謎の剣技もそうだが、この男の恐ろしい点はそこではない。
人を斬ることに、余計な感情を差し挟まないのだ。
嗜虐に酔いしれるでもない、憤激に駆られるでもない、恐怖に震えるでもない。まるで服を着たり、歯を磨いたり、そんな日常動作を何気なく行うような感じで人を斬っている。
いったいどのような生い立ちを経たら、このような壊れた人間が出来上がるのだろうか。恐怖を通り越して興味すら湧いた。
しかし、そんな時間さえも今のヴォルフガングには残されていなかった。
刀哉は薄く笑い、刀を垂直に振り上げ、
「化け物で結構。最高の褒め言葉だ。では、さらばだ」
縦に一閃させた。
それが、ヴォルフガング=バッハマンという人間が見た最期の光景だった。
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