10:閃電踪

 門人たちは再び把式場練習場の隅に寄り集まり、中央で向かい合う弥太郎と茅藍を遠巻きから見ていた。


 先ほどの茅紅と同じ光景。違う点があるとすれば、それはこれから試合を行うメンツが異なるということだけだった。


「きゅふふふ、楽しみだわぁ。一体どんな技を使って、どうやってアタシを追い詰めてくれるのかしらねぇ。あー楽しみ」


 茅藍は内から湧き上がる高揚感を押し殺しながら、目の前の武士を熱い眼差しで見つめていた。


 対し、弥太郎は静かな態度を崩すことなく答えて曰く、


「ご期待に添えるかどうかはわからぬ。ソレガシのやるべきことは、ただ勝利へ向かって突き進む事のみ」

「またまたぁ。そんなの、「飯は腹に入ればみんな同じ」って言ってるようなものだよー?せっかくの戦いなんだから、もっと過程を楽しまなくちゃ」

「申し訳ないが、この戦いは本来ソレガシの望むところに非ず。目的のために仕方なく行うに過ぎぬ。ゆえにそなたを楽しませられるか否かについては、過度な期待をしないで頂けると助かる」

「固いわねー。ま、いいけど。――どのみちぶっ潰すだけだし」


 スッと、茅藍の表情が刃物のような冷たく剣呑な笑みへと変わる。


 他の門人同様、端から二人を見ていたルカは、その笑みを見て緊張を抱く。


 とうとう始まってしまった。『閃電踪せんでんそう』と名高い、蘇茅藍との一戦が。


 彼女の動きの異常さは、ネットにアップされている動画を通して知っている。そんなルカとしては、この戦いを是非とも止めたかった。


 しかし、弥太郎は止めてもきっと勝負を捨てないはずだ。ブレーキの壊れた車のように、走り出したら止まらない。


 弥太郎から預かり受けた刀をぎゅっと握りしめる。もはやルカにできるのは、その暴走車の暴走っぷりを傍観することのみだった。


 やがて、その「暴走」は始まった。


「――道王拳社関門弟子、蘇茅藍」

「――穂高勁水流、佐伯弥太郎」


 互いに名乗りを終えた瞬間、茅藍の姿が突然消失――したと思った時にはすでに弥太郎の懐へともぐりこんでいた。十数メートルも離れた間隔から一瞬で肉薄して見せたのだ。


 速度の勢いに任せて打ち出されたその拳を、弥太郎は身の捻りで躱しつつ、


「ハイッ!!」


 同時に掌打を放って迎え撃とうとする。回避と攻撃を同じタイミングで行う「交叉法こうさほう」と呼ばれる技術だ。


 だが茅藍は、やってきた掌の側面に自身の前腕部を滑らせて受け流す。そこからほとんどを作ることなくもう片方の手で拳打を放った。


 弥太郎は片腕で拳打を弾くパリィ。さらにそこから体ごと急接近し、体当たりを仕掛けようとする。


 しかし次の瞬間、茅藍は電撃のような速度で後方へ下がった。一秒どころか半秒もかからずに両者の間に数十メートルの距離が生まれた。


 ……それを見たルカは、不思議と驚かなかった。


 いや、驚く余裕さえ存在しなかったと言った方が正しいか。


 『閃電踪』とあだ名されるほどの彼女の俊足。知った気でいたつもりだったが、実際に目にしてみると余計にその異常さが際立っていた。やはり映像と生では印象が違う。


 『軽身功けいしんこう』という、中国武術の軽業かるわざの一種だ。脚部や体幹の緻密な操作と、特殊な「氣」の練りを組み合わせることによって、人間離れした軽やかさを見せつける技術。茅藍はそれを非常に高いレベルで修めているからこそ、あの馬鹿げた速度を誇れるのだ。


 今の進退に用いた歩法は『八歩趕蝉歩はっぽかんぜんほ』という、軽身功を用いた歩法だ。中国拳法の一派「蟷螂拳とうろうけん」に組み込まれており、相手との間合いを急速に縮めたり広げたりするのに使う。これを使いこなせば、相手に触れられることなく一方的に攻撃し続けられるのだ。


 戦いは続く。


 茅藍が再び稲光のような速力を体に与え、直進。そのまま衝突――かと思いきや進行方向を少し横へずらし、すれ違いざまに鋭い回し蹴り。


「ぐぅっ!」


 弥太郎は両腕のガードが間に合ったが、蹴りの勢いで少しだけよろける。


 そのよろけた瞬間を狙い、いつのまにか背後へ回り込んでいた茅藍が衝捶しょうすい――中国拳法の中段突きの一つ――で打った。ボウリング玉が矢のごとき速度で飛んできたようなその勁力に弥太郎は一瞬息が止まり、前のめりに流された。明らかに女が出していい力ではない。理にかなった体術から生まれる強大なエネルギーが込められていた。


 勢いに流される弥太郎の横合いを、茅藍が瞬時に取る。しかし弥太郎はすぐさま体勢を立て直し、二発目の衝捶を身のねじりで躱した。ねじったことで生じた遠心力をキープしつつ回転、振り向きざま腕刀を横薙ぎ。


 対し、茅藍は斜め下へ身を沈めた。空気を切って鋭く走る弥太郎の腕の下をくぐりつつ相手の懐へもぐりこみ、掌底を激突させた。


 弥太郎は間一髪のところで膝を持ち上げ、膝蓋骨で掌底を受けた。その一撃が内包していた勁によって大きく跳ね飛ばされる。受け身を取り、スムーズに立ち上がった。


「きゅっふふふふふふ、やっるぅー。たいていの相手は最初の『八歩趕蝉歩』でKOなんだけどねぇ……これは久しぶりに本気だせそうかも」


 捕食前の肉食動物よろしく舌なめずりする茅藍。戦う事への本能的喜びがよく現れている。

 それに対して、弥太郎は常に冷静だった。

 まさに二人は対極。陰と陽。


 ――茅藍は師からあらゆる武術を学んだが、一番得意なのは蟷螂拳だった。


 中国山東省の名拳、蟷螂拳。カマキリとサルの動きを参考にした迅速かつ緻密な体術によって、息もつかせぬ連続攻撃を繰り出す。


漏與補ろうとほ」――それこそが蟷螂拳の終わりなき連撃を支えている骨子に他ならない。


 どれほどの達人名人であっても、常に隙がないなどということはあり得ない。必ずどこかに「隙」が存在する。その「隙」を『漏』と呼び、それを埋める攻撃することを『補』と呼ぶ。


『漏與補』とは、自分から何らかのアクションを仕掛けることによって『漏』の出現を促し、そこを攻撃で『補』すること。まさしく先ほどまでの茅藍の攻めは、この『漏與補』を完全に踏襲したものだった。


 迅速果敢な手法に加えて、馬鹿げたスピード。「速さ」を追求し尽くした武が今、目の前にあった。


 またしても茅藍が動き出した。弥太郎はその五体に生まれたわずかな初動から、彼女が真っ直ぐ突き進んでくると"先読み”する。


 その読み通り、一直線に残像を引いて懐へ侵入してきた。


 弥太郎は踊るように反時計回りしながらそんな茅藍の横へ移動し、維持した遠心力に乗せる形で腕を薙いだ。相手の動きを読み、その動作の中で最も隙の多い箇所を叩く「せん」だ。


 鞭と化した右腕が茅藍の背後から迫る。


 が、茅藍もまた弥太郎と同じくらいの先読みが可能な、高位の武術家だった。背後からやってきた腕刀を見もせずに屈んで避ける。そこから寄り足で距離を縮め、力強い震脚を伴った肘打ちへと繋げてきた。


 対し、弥太郎は――


「イッ!!」


 気合。それと同時に身を沈め、左右に伸ばした両掌を急降下させた。


 直撃する寸前まで来ていた茅藍の頂肘ちょうちゅうは、弥太郎の掌に上から押され、威力を殺された。おまけに腕にかかった重みで体勢をがくんと前かがみに崩される。


 弥太郎はその一瞬の隙を突く形で掌底を鋭く伸ばす。


 しかし、直撃寸前の茅藍の口元に見えたのは――にやりとした笑み。


「あらよっと!」


 彼女は自ら前のめりに倒れ込み、やってきた弥太郎の一撃の下をくぐる。そのまましゃがみこんで円弧の軌道で片足を振り、袴に包まれた足を蹴り払おうとした。掃腿そうたいという中国拳法の蹴り技だ。


 が、それを読んでいた弥太郎の足が跳び上がり、茅藍の払い蹴りを跨いだ。その後すぐに着地。今なおしゃがんだ状態の茅藍を蹴飛ばそうとした。


 が、それを読んでいた茅藍は斜め前に素早く移動。弥太郎の蹴りの軌道から外れ、そこからさらに掃腿。敵の足をまたも狙う。


 が、それを読んでいた弥太郎の片足がまたも跳ね、茅藍の蹴りを回避。


 が、それを読んでいた茅藍がしゃがんだ状態から跳ねるように立ち上がり、その勢いを利用して虚空を浮いた弥太郎へと前蹴りを放った。


 が、それを読んでいた弥太郎はその蹴りを足裏で受ける。女の蹴りとは思えないほどの重々しい衝撃が足の骨を振動させ、五体を跳ね飛ばした。受け身をとって着地し、前方から電光のように押し迫ってきた茅藍の正拳突きを片手で掬い上げるように持ち上げていなし、気合いとともに拳を放つ。


 が、それを読んでいた茅藍はやってきた拳の側面へ腕を滑らせて軌道をずらしてから、その腕を掴み、後足へ体重を移す勢いを用いて引っ張り込もうとしてくる。


 が、それを読んでいた弥太郎は「イッ!!」という一喝ですぐさま「氣」を練り込み、地中深くへ杭を打ったように安定した重心を生み出した。引っ張り込まれず、その場に盤石にとどまった。




 ――幾度も繰り広げられた「後の先」の取り合い合戦はそこで一度止まった。




 引き合いに負けた茅藍は一瞬だがその場所に”居着いた”。重心をコントロールできずによろけるという、地味だが致命的な隙だ。


 弥太郎は盤石な重心を保つ足を前へと鋭くスライドさせ、それに掌の動きを同調させる。特殊な「氣」の練りによって一時的に数百キロも増加させた体重を拡大させる勢いを込めた一撃『延金のべがね』だ。


 しかし、直撃寸前で重心の安定を取り戻した茅藍は弥太郎の掌打の射程外へと風のように離れた。


「すごいじゃない……アタシとここまで読み合いへし合いを演じられる子なんて久しぶりだわ。きゅふふ、なんだか下腹部がうずうずしてきちゃう……」


 興奮気味にそう語る茅藍の顔には、まだ笑顔。


 この戦いを楽しんでいる。


 戦闘狂を通り越して、戦うために生まれてきたような生き物に見える。


 一方、弥太郎は全く笑えなかった。


 彼女は並の者なら致命的な隙となりえる場面を何度も作った。しかしそのことごとくを脱してこちらの攻撃をヒットさせず、なおかつ一矢報いようとしてさえいた。


 ……弥太郎は最初、ある程度は手加減しようと考えていた。本来、この戦いは目的のために仕方なく行うための不本意なものなのだ。なるべく相手に怪我が出ぬよう戦いたいなどと本気で考えていた。


 けれど、もう手加減などと言っている場合ではない。


 完膚なきまでに叩き潰すつもりでかからなければ、逆にこちらが酷い目に遭いかねない。


 弥太郎は本格的に覚悟を決めた。


 その内面の変化を察しているのかいないのか、茅藍は口端を歪めた。


「ふうん。なんか吹っ切れたって顔してるわ。いいねぇ、ステキ。これでまた一段と楽しめそう。これでアタシも本気を出せそうだわぁ。きゅっふ、きゅふふふふ」


 彼女の台詞を聞いて、弥太郎は一瞬ながら背筋が凍った。――あれでもまだ手を抜いていたと……?


 刹那、




「ごはっ!?」




 鉄球が高速で直撃したような衝撃と痛覚が襲う。


 吹っ飛ばされ、受身を取ってすぐさま立ち上がる。


 正拳突きを終えた姿勢の茅藍を見て、ようやく殴られたことを悟った。


 打たれた痛みよりも、今の彼女の動きに対する戦慄の方が何倍も大きかった。


 ――まったく見えなかった。


 今までより明らかに速度が違う。さっきまでは速くとも多少は目で追うことができていたのだ。しかし今のは、まったく目で捕えられなかった。


 まるで、物理的な接触ができる稲光に殴られたような気分だった。




 これが――『閃電踪』。すなわち、「稲妻が刻んだ足跡」。




 そんな彼女の通り名が伊達ではないことが今、証明された。


 しかしそれに驚いている暇はない。茅藍が再び動き出したからだ。


 消えた、


 と思った瞬間には、右上腕部に重々しい痛み。茅藍の回し蹴りだ。


「ぐっ……!」


 左へたたらを踏みつつも、重心の安定を取り戻す弥太郎。


 敵の立っている方向を見る……が、またもその姿は消えていた――と視認した瞬間には真後ろから衝撃をぶつけられた。


 前向きに吹っ飛ばされる弥太郎の目の前に霞のように茅藍が現れ、横歩きに踏み込んで肘鉄。が、直撃と同時に息を大きく吸い込んで体の内圧を高め、エアバッグよろしく威力を相殺させた。穂高勁水流に伝わる呼吸法の一種だ。


 防御に成功したが、それは束の間の安心に過ぎない。すぐさま茅藍は弥太郎の左斜め前まで一瞬で足を進め、拳で突き込んできた。弥太郎はそれを手で外側へ払う。すると今度はもう片方の手で掌底を繰り出してくるが、弥太郎もまたさっきとは違うもう片方の手で外側へ払う。


 それらのやり取りによって、互いに両腕を開いて胴体をさらけ出した状態となる。


 弥太郎は最初、がら空きになった胸に向かって頭突きでも打ってくるものだとばかり思っていた。だからこそ、それを想定した対策を脳内で迅速に組み上げて待っていた。


 しかし、その予想は大いに外れた。


 茅藍の体が予備動作を省いてフワリ、と跳び上がり、その片足が弥太郎の顎を下から蹴り上げた。


「ごぉっ……!?」


 顎関節がズレそうなほどの衝撃が襲い、頭が揺れる。


 さらに追い打ちとばかりに、虚空を舞った茅藍から靴裏で踏むような蹴りを叩き込まれた。


 後方へ押しやられるが、倒れぬように足を踏んばらせたおかげでどうにかバランスを取り戻――した瞬間に左から重い一撃。


 今度は右から。

 後ろから。

 前から。

 斜め前後から。

 暗闇に幾度も走る稲妻のように移動し続ける茅藍から、容赦のないタコ殴りを受け続ける弥太郎。


 門人たちは、その様子を歓喜半分、畏怖半分で眺めていた。


「あ……ああ……」


 ルカはというと、ただただ絶望的な気分だった。


 初めて弥太郎がやられっぱなしとなる光景を見て、心の底から冷え込んでいた。寒くも無いのに手が冷えてくる。


 やはり、『閃電踪』に挑むなんて無茶だったのだ。


 自分はどうあっても、弥太郎を止めておくべきだったのだ。


 こんなもの、もう試合ではない。ただの一方的ななぶりだ。


 早く、早くやめさせなければ。


 ――が、弥太郎とて、やられてばかりではなかった。


「……舐めるなッ」


 終わらない打撃の嵐の中、弥太郎はスッと全身を脱力させた。それはもう、全身から骨が引っこ抜かれたような感じで徹底的に力を抜き去った。


 前方から茅藍の拳が衝突。こんにゃくのように脱力しきった柔らかな五体は拳打の衝撃を受けるや、その勢いを利用してギュルン! と回転。その遠心力に乗せて腕を振り、茅藍の背中に叩き込んだ。


「えぁっ――!?」


 咳き込むような呻きとともに、『閃電踪』と呼ばれる女は紙のように弾き飛ばされる。把式場の床をごろごろと転がった。


 ――穂高勁水流『風車かざぐるま』。受けた打撃力を利用して回転し、その遠心力を用いて反撃する。相手の力を打ち返すカウンターだ。


 弥太郎は回転を止め、構えを取って敵に備える。両拳を左右へ広げて腰を落とした『十文字の構え』だ。


 構えた拳を通して、その延長線上にいる蘇茅藍を睨む。


「きゅふっ…………きゅふふふふ…………!!」


 しゃがみこんだ姿勢のまま、その女は、わらっていた。


 最初は噛み殺したような笑い声だったが、すぐにそれは把式場全体に響き渡るほどのけたたましい哄笑こうしょうへと変わった。


「きゅっふふふふふ……あはっ…………あっっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!! 最っ高!! 君最っ高ぉ!! アタシに膝を付かせる武術家なんて久しくいなかったよぉ!! あはっ、あは、あは、あは、あは、あはっ、あはははははははははははははははは!!」


 狂ったような笑い方に、全員が肝を冷やした。


 炯々と輝く彼女の瞳には、弥太郎しか映っていない。目を見ただけで、並々ならぬ執着心が簡単に読み取れる。


「いいよね!? 君にならもっと速く・・・・・動いても・・・・いいよね・・・・!? もっと速く速く速く速く速く速く速く速く速く速く速く速く速く速く速く速くクァイ快快快快快快快快快快快快快快快快快快快快快快快快快快快――――!!!」


 茅藍は雷と化した。


 消えた――と感知する間もなく腹部へ重さが衝突。


 吹っ飛ぶ弥太郎。しかし今度は真後ろから不可視の強打を受け、元来た方向へ弾かれる。


 全身のあちこちから衝撃が襲いかかる。


 今度はさっきまでと違い、速すぎて攻撃の種類さえ視認できない。


 終わりの見えない暴力の台風。


 あっという間に満身創痍の有様となる弥太郎。血のしずくが数滴床に落ちて赤い水玉模様を刻む。


 しかし、転んでもただで起き上がるつもりは無かった。


 幾度も殴られたことによって、茅藍が狙ってくる箇所のパターンが分かってきた。どれほど隠そうとしても、その人物がどういう部位をどういうタイミングでどのように殴ってくるのかが、「クセ」として大なり小なり現れるものだ。砂漠の中に放り込まれた砂金のような「クセ」を発見するほどの眼力を、レベルの高い武術家は備えているのである。


 次に衝撃が来るであろう方向へ向けて、弥太郎は機先を制した。


「ハイッ!!」


 気合のかけ声で術氣を引き出しつつ、虚空へ向かって掌底を突き伸ばす。


 手ごたえ。


「ぐぅっ――!!」


 その潰れたような呻きとともに、何も無かった虚空に突然茅藍の姿が現れた。


 敵が弾き飛ばされる。


 二人の距離が大きく離れる――ことはなかった。弥太郎が飛ぶ茅藍へ駆け足で追いすがっていたからだ。


 呼吸を整え、イメージで「氣」を練り込み、必倒の一撃を打ち込む準備をする。


 が、そんな王道じみた手が簡単に通用する相手でもなく。


 茅藍は吹っ飛ぶ勢いに逆らうのをやめ、自分から床へ転がった。勢いが減るまで後転を続けてから、接近してきた弥太郎の足を自身の両足で挟みこむ。そこから腰をねじる力を使い、てこの原理で挟んだ足を傾かせた。弥太郎の重心がぐらつき、前のめりに倒れた。


 二人同時に床を転がり、二人同時に立ち上がる。


「あっはははは!! 楽しいねぇ、侍クンっ!!」


 茅藍はまたも何かに酔いしれたような笑みを浮かべ、過程が全く見えないほどの速度で敵へと向かう。


 弥太郎もまた、そんな神速の魔女へ果敢に立ち向かう。


 またしても、怒涛の打ち合いが始まった。


 茅藍が細かい一撃を途轍もない手数で叩き込み、ときおり弥太郎が凄まじい一撃を浴びせてごっそりと相手の体力を削り取る。そんなルーチンが二人の間には生まれていた。


 ――そんな二人の戦いを、ルカは痛々しそうに見つめていた。


 心に抱いているのは、どうしようもないほどの危機感。


 このままでは、弥太郎が危ない。


 聞きしに勝る戦闘狂である『閃電踪』が、途中で戦いをやめるとは思えない。


 弥太郎もまた、彼女に勝つことを「必要な事」だと腹をくくっているため、手を引くとは思えない。


 茅紅をはじめとする周囲の門弟たちも、自分と同様に痛ましそうにその一戦を見つめていたが、誰一人として動くことなく傍観者に徹していた。きっと、誰も茅藍を止めることができないのだろう。


 かくいう自分も、あの戦いの中に割って入れるとは到底思えなかった。


 二人のどちらかが倒れるか、あるいは死ぬまで、戦いは終わらないだろう。


「や、弥太郎くん!! もういいわよ! やめて!! これ以上傷つくことに何の意味があるっていうのよ!?」


 聞こえない。


「き、君には大事な目的があるんでしょ!? こんな戦いで倒れたらそれこそ本末転倒よ!」


 聞こえない。


 いくら叫んでも、多分無駄だろう。


 きっと、弥太郎は闘争によって生まれる脳内麻薬に溺れてはいない。むしろ、常に冷静だろう。


 冷静だからこそ、自分の「やるべきこと」をもっとも大事な事だと理解している。


 けれど、だからこそ揺るがない。止まらない。


 誰か、誰か、誰か――


「誰か――あの二人を止めてぇ!!!」


 悲痛な叫びを上げた瞬間、一陣の追い風が横切った。




 死闘を繰り広げる二人の間に新たな「人影」が突然割って入り、左右に腕を伸ばした。




 二人の呻き声が重複する。


 その「人影」が双方へ打ち込んだ掌打によって、「人影」を中心に二人の距離が大きく切り離された。


 両者が同じタイミングで床に倒れたのに合わせて、背中を見せていた「人影」がこちらを振り向いた。


 一言で形容するなら、「老紳士」だった。無駄な贅肉ひとつ無いスマートな体躯に、白い詰襟の中華服と灰色のスラックスを身奇麗にまとっている。皺が少しついた顔の目元にはサングラスをかけているが、うっすら見えるその下の眼差しは刃物のように鋭く、その無駄の無いたたずまいも相まって「只者ではない」という冷たい剣呑さをかもし出している。


「……これは何の騒ぎだ? 茅紅」


 その老紳士が低い声で問うや、茅紅含む全ての門人たちが右拳左手の拱手きょうしゅを行って頭を下げた。


 理由は明白だ。




 この人物こそが道王拳社の創設者にして総師範――劉乾坤なのだから。




「こ、これは劉老師……! えーっと、これはその……」


 茅紅がおろおろしながら、どう説明したものかと必死に頭を働かせる。


 劉乾坤はふう、と嘆息してから静かに言った。


「……いや、愚問だな。お前は率先して私の言いつけを破ることはしない子だ。となると、この騒ぎの原因は……」


 そこまで言いかけたところで、劉とルカの視線がぶつかった。するとそのサングラスの下にある鋭い瞳をかすかに見開いて、


「これはこれは、誰かと思えば水越老師せんせいの娘さんではないか。久しぶりだね。私のことを覚えているかい」

「え、ええ。もちろんですわ。お久しぶりです、劉大師」


 ルカはそう言って頭を下げた。


 一回見ただけで劉乾坤だと理解したのは、一度会ったことがあるからだ。父の水越宗一が彼と友人で、その縁で顔を合わせたのだ。随分前のことであるが。


 劉は周囲を見回すと、


「いろいろ積もる話もあるかもしれないが……まずはこの騒ぎの理由を知る方が先だろうね」









「なるほど……つまり君はその「辻斬り」とやらの関心を引くために茅藍を倒し、名を上げるつもりであったと。そういうことなのだね、佐伯弥太郎君」

「いかにも」


 劉の質問に、アザだらけとなった弥太郎はコクリと無言で頷く。


 ルカはそんなやり取りをする二人を、ハラハラしながら見守っていた。


 現在、弥太郎たちは道王拳社の応接室にいた。中華テーブルを中心に置いて、部屋の周囲に書画や仙人の木像などの置物が並んでいる。棚もいくつかあり、中には茶葉や茶器が収まっている。電気ケトルもある。


 中華テーブルの周りに弥太郎、ルカ、劉が三角州の位置関係で座していた。劉の傍らには、イタズラがバレた子供のような苦笑を見せる茅藍が立っていた。


「ど、どうぞ……阿里山ありさん茶です」


 トレイを持った茅紅が、おっかなびっくりな手つきで三人の手元へ茶碗を置く。中には黄緑色の茶が入っており、ほんわりと立つ湯気が芳醇な香りを運んでくる。


「かたじけない」「あ、ありがとう」弥太郎とルカは一言礼を言ってから、茶をすする。香ばしい香りと苦味がうまいことマッチしてなかなかの美味である。


 まあ、それはそれとして。


 問題は、同じ席に座している劉乾坤である。


 現代の中国武術界で最高峰の達人と呼ばれる人物は、座り姿勢もまた隙がなかった。椅子の座面全てに座らず、半分までにしか尻を乗せないその座り方は、常に足の力を使える状態にするためのものだ。後ろから椅子を引かれても、彼は尻餅をつかず中腰のまま立っていることだろう。


 その達人は、その口を再び開いた。


「……佐伯君、君は我が門の関門弟子に勝負を挑んだのだ。下手をすると我が一門そのものをまるごと敵に回すことになりかねないと、そこまで想像した上で今回の騒ぎを起こしたのかね?」


 サングラスの下にある劉の瞳が光った気がした。


 二人の間に位置を置かれたルカは気が気ではなかった。


 弥太郎の眼前には、喧嘩を打った相手の師が座っている。弟子に手を出された以上、劉が弥太郎に対して良き感情を持っていないのは明白。下手に刺激するような発言をすれば、どうなるか分かったものではない。


 これから発する弥太郎の発言次第で、状況が吉にもなれば凶にもなる。


 それを踏まえているのかいないのか、弥太郎は次のように発した。


「無論。その可能性も考えた上で尋ねたのだ。ゆえにたとえどのような仕打ちを受けたとしても、ソレガシは言い訳せぬ」

「そうか……そこまでの覚悟をしたうえでの選択というわけか」


 そこで区切ると、劉は目を閉じて黙想する。


 しばらくしてからゆっくり開眼し、驚くべき言葉を口にした。




「分かった。君の目的のために、できる限りでならば協力するとしよう」




 弥太郎は目を大きく見張る。


「……何を言っているでござるか。ソレガシは貴公らの門派に泥を塗るような真似をしたのですぞ。それを助けるなど……」

「そうだね。確かに君の行った戦いが、その辻斬りのように「通り魔じみた不当な暴力」であったなら、協力する義理など微塵も無かっただろうさ。しかし、先ほどの戦いは「私闘」であり、我が門と敵対する意図ではなかったのだろう?」


 もちろん、と首肯する武士。


「それに、君はその辻斬りを成敗しようという目的で動いている。ならばむしろ、我々との利害は一致するといえる。軽傷とはいえ、我が関門弟子を傷つけられたのだ。そして、これ以降私の弟子に何も起こらないという保障もない。その辻斬りは我々にとっても目の上のタンコブだ。だから君に協力する。だがその方法は、さっきの茅藍との試合を再開させるというものではない。あんな聞かん坊でも、私の大事な家族だ。それを率先して傷つけさせる気にはなれん」


「えーそんなー!」とあからさまに不満そうな声を出す茅藍。


 中国武術界では、師と関門弟子はたとえ血縁関係でなくとも「家族」扱いとなる。師弟であり家族でもあるため、互いが互いを尊重する間柄になるという儒教的側面を持ち合わせているのだ。


 劉はイタズラ好きな子供を冷静にたしなめるような口調で、


「当然だろう。先ほどの戦いを見たが、お前は完全に闘争心に呑まれていた。一度手を出すと歯止めが利かなくなるのはお前の悪い癖だ。意を発散するだけでなく、心の内側に押し込んで律することも練功の一環であると心得よ」

「うう……せっかく面白くなるところだったのにぃ」


 がくんと頭を垂らして落ち込みを見せる。


 あの暴れ者の戦闘マニアが借りてきた猫のようにおとなしい。やはり師の言いつけこそ最強の武器だとルカは思った。


「では、いかように協力いただけるのでござろうか」


 弥太郎がそう問うと、劉はサングラスを指で整えて言った。




「――「我々」のネットワークを使い、君の武名をでっちあげる」




 その発言に、ルカが挙手しつつ不明な点を訊いた。


「「我々」というのは、道王拳社の門下生の事ですか?」

「それもあるが、それだけではない。この東京に住む在日中国人のことも指す」


 劉は手元の阿里山茶を一口飲んでから、さらに言葉を連ねる。


「この東京には、今やシンガポール並みに多くの人種が入り混じっている。けれども、現在日本に住む人種の割合にも大小がある。そしてその割合の中でもっとも多くを占めているのが、我々中国人なのだよ。なにせ、元が十数億人だからね」

「そうでござるか……しかし、その事がソレガシに力を貸すこととどのような関係があるのでござるか?」

「中国人というのは、人間関係やコネクションを大切にする人種だ。戦乱が絶えなかった大昔は、幅広い繋がりを作って相互扶助を行い、皆で力を合わせて厳しい時代を生き残ってきた。その考え方は、論語を捨てて毛沢東語録を読まされた今の中国人にも遺伝子レベルで残っている。この東京でもそうだ。凶悪化した犯罪が絶えない今の不安定な日本で上手く生きていくため、我らは「繋がり」を重んじている。中国人同士が集まってコミュニティーを作り、そのコミュニティーは他のコミュニティーと繋がり、それがどこまでも広がっていく……」


 劉が言わんとしていることが、ようやく理解できた。


 ルカはやや机に身を乗り出し、踏み込むように述べる。


「つまり、その「繋がり」を利用して、嘘のウワサを流そうと?」

「その通りだ。人数の多さと、コミュニティー間の繋がりネットワーク、これらを利用すれば噂話など水面に落ちたインクのようにすぐ広まる。佐伯君――君がうちの茅藍を叩きのめしたというデマを流せば、辻斬りの耳にもすぐ入る。手前味噌だけど、私はそうすることができるだけの発言力と影響力を持っているんだよ」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 言葉をいったん止めるよう両手を挙げて促すルカ。


 劉はサングラスの中の瞳を彼女へ向け、


「何かね?」

「……本当にそれ、やっていいんですか? そんなことをすれば、道王拳社の名に傷がつくんじゃ……」

「構わないさ」


 豪胆な即答に、ルカは言葉を失った。


「確かに真実でないとしても、茅藍がやられたという噂は普通に考えれば我らのメンツに傷がつくと感じるだろう。でも、それがどうした・・・・・・・というんだい・・・・・・。我々は名声を求めて武術を学んでいるのではない。ただ愚直に功夫を高めるために修業をしているのだ。たとえその嘘のウワサで名声が失墜したとしても、また実力で立て直せば良い話」


 この台詞を虚勢や偽りなく言える人物が、果たして彼以外にどれほどいるだろうか。


 ルカは『東京三大道場』の一つ、道王拳社を束ねる人物のすごさの片鱗を見た気がした。


「で、でも蘇茅藍さん本人は納得しないんじゃ――」

「あーいいよいいよ。気にしないから。べつにちやほやされたいから鍛えたわけでもないしぃ? それに武術家としての名声なんてそこそこでいいんだよ。名を上げすぎると逆にビビって誰も挑んでこなくなっちゃうし。それならアタシが侍くんに負けたことにして、周囲の奴に「蘇茅藍が弱体化した」っていう解釈をさせれば、少しは挑んでくる相手も増えるってもんよね」


 茅藍もあっけらかんとした態度で了承。東京で名を轟かせているからこそ口にできる言葉だった。


 少し考えてから、ルカがやや緊張の面もちでまた質問する。


「けど、無償で協力してくださるのかしら? 劉老師、武術界だけでなく、日本の中華社会でも大きな影響力を持つ貴方の御力を一部ながら振るうのですから、何かしらの見返りが要るのでは?」

「いや、特に何も求めはしないさ。さっきも言ったが、これは利害の一致から行おうとしていること。辻斬り事件は我々も無関係とは言えない。以降もまた弟子が狙われる危険性がある。それを彼は率先して成敗してくれると言うんだ、乗らぬ手は無いと思うよ?」


 そこで一度発言を止めると、劉はおとがいに手を当てて考える仕草をしばらく見せてから、


「うむ……そうだな、強いて求めるとすれば…………佐伯弥太郎君、君の武術について少し話を聞きたいくらいかな」

「穂高勁水流でござるか?」


 頷く老紳士。


「先ほどの茅藍との戦い、一部ながら見させてもらった。大したものだ。その若さであそこまでの功夫を培うとは。もしかすると、あのまま続いていたらウチの茅藍は本当に負けていたかもしれないね」

「とんでもない。ソレガシもあれ以上長引いたなら限界に達していたでしょう」

「謙虚だな。……話をもどそう。その戦いの最中に君が見せた技だが、その所々に――我々の武術と似たような要素が多々見受けられた」


 ルカは微かに驚きを挺した。穂高勁水流に、中国武術と似た要素が?


 弥太郎は別段隠すことでもないとばかりに、あっさり明かした。


「当然でありましょう。何せ我が穂高勁水流剣術は――中国の武術から生まれたのですから」

「え……そ、そうだったの?」


 またも驚いたルカに、弥太郎は頷いた。


「開祖の穂高弥太郎は見知らぬ異人から学んだ武術を改良して穂高勁水流を作った、と以前申したが、その「異人」とは中国人なのでござるよ。江戸時代に日本へやってきた中国の武術家は、実はけっこう多い。彼らの武術が日本武術へ影響を与えた例も少なくはありませぬ。穂高勁水流もそういった武術の一つにそうろう


 劉は、「やはり」と言わんばかりに口端を緩めた。


「君は起伏が激しくしなやかな体術を用いて、腕をまるで鞭のように操る技を多く使っていた。あれは通背拳つうはいけん、もしくは劈掛拳ひかけんから生まれた動作なのだろう? それに君のその撫で肩、徹底的な脱力を要する中国武術の使い手にありがちな特徴だ」


 通背拳、劈掛拳。いずれも中国武術の一派だ。


 これらの二派で共通している部分は、腕の力を抜き去り、それを鞭のように操る武術であるというところだ。


「それだけではない。君が打撃を行う時に発するあの強いかけ声。内側から外側へ打つ時には「ハイ」と、重心を深く落とす時には「イ」の発音で気合いをかけていた。あれは少林拳の打撃で用いる発声法に酷似している。発声によってそれに応じた「氣」を練り上げ、打撃の威力を底上げする。君の発声もその類のモノではないかね?」

「……どれも正解でござるよ。さすがは噂に名高き劉乾坤。見事な慧眼」

「いやいや。外れて恥をかいたらどうしようかとひやひやしていたさ」


 軽く笑う劉。


 しかしサングラスの下にある目は笑っていないように見える。未だに弥太郎へ注意を向け続けているようにも感じた。


 いや、弥太郎を見ているようでいて、実際はその奥底にある「何か」を見透かしているような感じがした。


 ――やはり、底が知れない人物だ。


 弥太郎は掌の中でひそかに汗をかいた。


 それを袴で拭いてから、改まった態度で立ち上がった。テーブルに立てかけておいた刀の入った竹刀袋を左手に持つ。


「では劉どの、ご協力感謝いたす。どうか、お願い致す」

「任せておきたまえ。では茅紅、彼らを出口までお送りしてあげなさい」


 師の命を受け、茅紅は「わ、分かりました」と返事をする。


 彼の先導で、ルカと一緒に応接室を出ようとした瞬間、


「佐伯君、最後に言っておきたいことがある」


 劉に呼び止められた。


 弥太郎は扉をくぐる直前で立ち止まり、椅子に座る老紳士へ目を向ける。


 彼は、先ほどのような見透かした眼差しを向けながら言った。


「剣をむやみに抜かないことはもちろん大事だ。けれど、世の中には徹底的に叩きのめさないとケリがつかない者もいる。その時、今その手に持つ剣を鞘走らせることをためらってはいけない。それを惜しんだ時間だけ、君は大切なものを失うことになるのだから」


 まるで、「刀哉に剣を抜きたくない」という思いを読んだみたいな言い回しだ。


 ギリッ、と刀の鞘を強く握った。


「……肝に銘じておきましょう」


 弥太郎は一応そう言うだけ言ってから、再度きびすを返し部屋を後にした。


「侍くーん。また今度殴り合おうねぇー!」


 ……続いて聞こえてきた茅藍の声に、弥太郎は「できればもう二度と御免こうむりたい」と心の中で思ったのだった。


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丸腰の剣豪(グランドフェンサー) 新免ムニムニ斎筆達 @ohigemawari

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