閑話:凶刃
「ひ、ひ、ひ、ひぃぃぃぃ!!」
渋谷区、とあるビル間の路地裏にて。
白いスーツ姿の男が、泣き叫びながら地面を這い回っていた。
ガタイの良い肉体を包む、見るからに高級品といったその純白のスーツは、ところどころが血の赤で染まっていた。特に肘から先が綺麗に消失している右腕は、赤を通り越して黒に近い。
「ひ、ひぃ、ひぃ、ひぃ、ひぃ!!」
白スーツは無我夢中で地を這う。震えた唇からはひゅうひゅうと喘息のような呼吸が聞こえ、目と鼻はこれでもかと透明の体液を垂れ流している。表情は端から端まで絶望と恐怖で満ちていた。
これが、この辺り一帯の裏社会で「狂犬」と恐れられた喧嘩師であると言ったなら、一体何人の人間がそれを信じるだろうか。
逃げ惑う白スーツに、一人の男が血の足跡を刻みながら近づく。その途中に転がっていた右腕の切れ端がどちゃっ、と蹴り払われた。
撫で肩気味の長身痩躯がまとうのは、血液が付着しても分からないであろうほど真っ黒な小袖と袴。逆に頭髪は生え際まで真っ白で、その長めの前髪の下には二十歳前後の若者の顔があった。しかし、ビルの間から照らす月光を反射するその眼差しは、飢えた肉食獣のように落ちくぼんで見える。
その男、
「見苦しい。見苦しい。見苦しい。何が「狂犬」「渋谷区一の喧嘩師」だ。笑わせる。最初は粋がっていたクセに、一太刀浴びたらこの体たらく。貴様本当に『武術の都』と呼ばれる東京の男か?あまりにも手応えがなさ過ぎる。些事、些事、些事」
苛立った手つきで、左手の刀を横へ振り払う。コンクリートの壁にぴしゃり、と円弧状の血痕が描かれた。
月光を受けた刀身がヌラリ、と冷たく輝き、闇の中で自己の存在を顕示する。
緩く反り返った刀身の片刃には、雪山の稜線のような美しい刃文が端から端まで通っていた。さらにその刃文の上には、まるで雪山の上空にかかるオーロラを思わせる白い波模様が薄っすらと視認できる。
この波模様は「映り」と呼ばれる地紋で、最高峰の斬れ味を持つ日本刀にしか現れないものだ。刀剣作製技術が最も発達していた鎌倉時代でしか生まれなかった刀と言われており、実質オーパーツと同義。売りに出せば相当な高音が付く事は疑いようもない。
しかしその立派な刀身は、ヒトの脂がたっぷりとこびり付いていた。芸術品としてではなく、人斬り包丁としての役目を果たした証である。
つい先ほど己の右腕を奪った武器の輝きに当てられた瞬間、白スーツはその時の記憶を連想し、恐怖のあまり股間を濡らした。
「た、たたたたた、たの、頼む!許してくれよぉ!!俺、まだ死にたくねぇよぉ!!」
子供のように泣きながら命乞いをしてくる白スーツを、刀哉は蛆を見るような目で
「だ、だいたいあんた、いきなりケンカ売ってきて、お、俺に何か恨みでも、あ、あるのかよぉ!?敵対する組のモンか!?そ、それとも昔俺が無理矢理貢がせて捨てた女の家族かよぉ!?」
「違う」
刀哉はそう断じると、剣尖を満月へ向け、告げた。
「貴様は、餌だ」
「え……餌?」
「そうだ。今の時代、東京には数多の武術の猛者が集まっている。俺の目的はこの刀にその猛者どもの血を吸わせ、それを肥やしに更なる強さを得る事に他ならぬ。東京に来てすでに五人斬り殺しているが、殺せなかった、あるいは返り討ちにあった事も少なくはない。いやはや、流石は東京。一筋縄ではいかないものだな」
まるでバスケの1on1で負けたかのような軽いニュアンスで、己の凶行を語る刀哉。
狂っている。
目の前にいるのは人間ではない。地獄から来た悪鬼だ。そう語られたとしても、今の白スーツはすんなりと信じるだろう。
恐ろしさが度を超え、今度は声すら出なくなった。
「ネット掲示板の情報を頼りにお前という存在にたどり着いたわけだが……やはりネットの情報は玉石混交甚だしいな。餌どころか、飴玉一つにも劣る。もう掲示板はあてにせず、人の口から出る話から探すとしよう」
言うや、刀哉は白スーツの首元を強く睨んだ。
——やめてくれ。頼む。お願いだ。殺さないでくださいお願いしますお願いします。
必死にそう請おうとするが、声が上手く出ない。言葉にならない。
しかし、白スーツの言わんとしている言葉を理解したのだろう。刀哉は無慈悲に告げた。
「安心しろ。貴様の血もキチンと吸わせてやる。無駄にはせん」
次の瞬間、銀閃が音速で駆け抜け、白スーツの首と胴体の繋がりを絶った。
体と魂の繋がりさえも。
——その白スーツの遺体が『連続辻斬り事件』六人目の犠牲者として報道されたのは、その翌朝の事であった。
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