第11話

「オイ! Hey,wake up! Let's night out.デカケルヨー」

おでこに柔らかな感触と、頬っぺたにひんやりとしたシルクような滑らかな何かが押し当てられた感覚を覚えて、ワタシはとてもいい気分で片目の瞼をゆっくりと少しだけ開いた。完璧なシンメトリーを見せた、二つの今にもこぼれ落ちそうな熟れた果実のように柔らかさを物語るアンジーの胸が視界に入ってきた。アンジーはワタシのおでこにキスをしながら、ほっぺたに両手を当てていた。心臓が飛び出しそうなくらい速い伸縮を繰り返す音が自分の耳にも入ってきた。

 「お、起きてるよ……」

ワタシが起き上がろうと左ひざを立てると、アンジーの全く贅肉のない完璧なくびれの部分に当たり、アンジーは〝Ouch!〟と少し大げさにリアクションしてワタシの身体の上に倒れこんだ。彼女の弾力のある乳房の上で隆起した乳首の感触がワタシの鎖骨辺りから感じられ、ワタシは「……アっ」と今まで発したこともないようなトーンの声を漏らした。アンジーはワタシの両手首をその華奢な身体つきからは想像できないような強い力で抑え、右膝をワタシの太ももの間に立てて、股を開かせた。アンジーは上半身を起こし、手首から手を外して垂れ下がった長いブラウンの前髪を左手で耳の後ろに掛けて、悪戯な笑みを浮かべた。そして、十本の細長い指を使ってワタシの脇腹をくすぐった。

 「あはははは! ちょ、ちょっと止めてよ」

ワタシはアンジーのくびれを掴み、彼女を横にどかそうと試みた。アンジーはベッドの上に立ち上がり、ワタシも彼女の前に立った。彼女は素早くワタシの後ろに回り込み、羽交い絞めにして首元にフレンチキスの嵐を浴びせた。

 〝Hey! What are you doing? It's time to go!〟

突然の男の怒号にワタシは身体をビクつかせた。アンジーはワタシから手を放し、〝I'm coming〟と言って再び私の頭頂部にキスをした。ワタシが振り返ると二人はすでに部屋を出ていた。ワタシも駆け足で彼らの後を追った。


 ホテルを出ると、眩しい太陽はどこかに姿を消し、外は染めたての藍物のような色をした空に金箔を塗したように輝く星が散らばり、太陽がいなくなるのを待っていたように煌々と大きな満月が我が物顔で鎮座していた。アンジーの前を歩く男は、手足が短くてずんぐりむっくりとした体形であるのにも関わらず、異様なほど速いスピードで前に突き進んでいた。ワタシはそのフンコロガシのような男に既視感を感じた。ワタシ、この男を何処かで見たことがある……記憶の淵を探っていると、「ミカ、ドシタ? マリワナキキスギタカ?」とアンジーがワタシに歩調を合わせて顔を覗く。マリファナ? 何? 煙草じゃなかったわけ? ワタシは男から視線を外し、アンジーの顔を見た。彼女はキラースマイルでワタシの疑念や不安を全て吹き飛ばした。好きだーーーーーー!


 フンコロガシの男はワタシたちの存在がまるでないかのように突き進んで、もはやフンコロガシではなく蟻のように小さく見える程に遠ざかっていた。ワタシの手を引いて小走りするアンジーの背中に向かって「どこに向かってるの?」と尋ねた。「パチャ」とアンジーは振り向かずに答えた。「……パチャ」ワタシはその言葉を口に出して繰り返した。フンコロガシの男は、すでにタクシーの助手席に乗り込んでワタシたちを待たせていた。ワタシは何とか男の顔を覗こうとしたが、男はクラッシャー型の帽子を被っていて、俯いたままスマホを弄っていたので、その顔を見ることはできなかった。アンジーがワタシの手を引っ張り、後部座席に乗り込むと、男が「パチャ」と言い、アフロ頭のタクシー運転手が「パチャ」と繰り返し、タクシーを発進させた。


 大きなヤシの木の間に大きく「PACHA」という文字が掲げられたゲートがあり、その手前にホテルのプールに居たような連中が長い列を成していた。フンコロガシの男が列を飛ばして、フンコロガシの男の三倍はある屈強な白人男性と何やら話し込んでる。ワタシとアンジーは少し離れた場所からその様子を見ていた。フンコロガシの男の話を聞きながら、屈強な白人男性はチラチラとこちらを見ている。屈強な白人男性が頷きながら、フンコロガシの男の肩を叩くと、フンコロガシの男は振り向き、ワタシたちに向かって手招きした。その指は、まるで皮を被った東欧のソーセージの様な血色の悪いものだった……ワタシはその指を見た瞬間、フンコロガシの男がワタシがバイトしていた土方さんの喫茶店に訪れるあの男だと分かった。黒いニット帽も紺色のピーコートも着用していないが、ストーンウォッシュのジーンズは履いていたし、何よりあの指の血色の悪さは見間違いようがない。あいつが口を開かなかったのは外人だったからかぁ。てか、何でこんなところに? 何者なわけ? ワタシの混乱をよそにアンジーはワタシの手を引き、東欧ソーセージの男の元に駆け寄った。


 「ごちゃごちゃ考えても仕様がないさ。迷わず行けよ、行けば分かるさ」


 突然、背後から声を掛けられてワタシは後ろを振り返った。赤いスカーフを巻いた、クロスケが右前足を舐めながらワタシたちを見送っている。アンタ……猪木の猫だったのね! アンジーとワタシは東欧ソーセージの男の後に続き、下腹部に響き渡るビートが鳴り響くその建物の中へと入った。


 低音と共に奇妙な電子音、そして時おりサックスの音が鳴り響く空間は、もうこれが夢だとかそういうこと以前に別世界だった。照明も暗くて、ひしめく人々がまるで本当にワタシが知らない世界の生き物のようにクネクネと動いている。何なんですか、これは? 戸惑うワタシの手をしっかりと握ったアンジーの手の感触だけが、ワタシにとって確かなものだった。彼女はこんなに暗くてうるさくて混沌とした世界でも、確かな意志を持った勇者のようにぐんぐんと人混みの中を進んで行く。でも、その先には東欧ソーセージの男がいる……ワタシは微かな不安を抱えながらアンジーの手をしっかり握り返してついて行った。ひしめく人々はよく見ると、その多くが今朝プールサイドで見たような人たちだった。耳元で大声を出しながら話したり、向かい合って踊ったり、こっちが恥ずかしくなるくらいに身体を絡めて口づけしていたり、こんなに暗い中で何故かサングラスをかけたまま一心不乱に踊り続けていたり……

 大きなステージが前方に見えて、その上で真っ赤なランジェリー姿の女性たちが踊っていた。何て破廉恥な! でも、それよりもワタシの視線を釘付けにしたのは、そのステージ上に設けられた高台に鎮座している菩薩のような慈悲に満ち溢れた表情を浮かべたアジア系の女性だった。彼女には四肢が無かった。

 「ねぇ、あの人は……?」

 ワタシは前を行くアンジーに尋ねてみたが、大きな音でワタシの声はかき消されてしまったようで、彼女は気づかずにどんどん前に進んで行く。ワタシは彼女の耳元に顔を近づけて大きな声でもう一度尋ねた。アンジーは歩く速度を緩めず、「MACHIKO、マチコ!」

と叫び返した。

 マチコ……ワタシはその名前をどこかで聞いた覚えがあった。いつだろう? おぼろげな記憶を辿りながら、ワタシはマチコと呼ばれる彼女の顔を眺めた。ふと、彼女がこちらに目をやりワタシたちの目線がぶつかった。彼女はニッコリと笑った。そして、唇を動かしてワタシに何かを語りかけているように見えた。ワタシは必死にその言葉を読み取ろうとしたがアンジーがワタシの手を強く引き、彼女はワタシの視界から消えてしまった。

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