第6話

 瞼を開けることができるのか、閉じた瞼をこじ開けるようと容赦なく降り注ぐ光のようなものを僕は瞼の下から感じながら、ゆっくりと瞼を開けた。あまりの眩しさに僕は反射的に右手を眉の上辺りに翳す。どうやらまだ生きているようだ。いや、ここは何処だ? 僕はキッチンで激しい動悸を感じて、倒れ込んで……死んだ? あの世だというのか? いやいや、でもあれは夢だったはず。あ、夢から醒めただけか。良かった。僕は翳していた右手を下げ、辺りを見回した。

 ジリジリと照りつける太陽は、南国を思わせる。その光を遮るものはない。明らかに屋外だ……目の前には、何やら図書館? と併設する美術館がある。全く見覚えのない景色だ。まだ夢の中にいるというのか? そして、何故か僕はスーツ姿で立っている。こんなに暑いのに。「クールビズ」という言葉が、もはや当たり前の時代に僕はどれだけアナーキーだというのだ。とにかく、暑い。建物の中に入ろう。

 僕は不思議と既視感を覚えた。何故だろう、見覚えがあるような気がしたのだ。

 「オックスフォード図書館……」

ロビーらしき場所を抜け、シンメトリーに並ぶ、いくつもの木製の本棚とその一つひとつに付属する机と椅子を目の当たりにして僕は呟いた。以前、図書館の設計を依頼された時に僕が最初に思いついたモデルは、オックスフォード図書館だった。


 「おや、龍口先生? どうされました? セレモニー会場は美術館の方ですよ」


僕はいきなり自分の名前を呼ばれ、身体を硬直させた。ゆっくり、声の主の方を振り返ると、白髪のロイド眼鏡を掛けた、いかにも執事風の老人がにこやかに僕を見ていた。僕は咄嗟に笑顔を返し「あの……」と続ける言葉を探していると、「あ、これは失礼」と老人はおもむろにスーツの内ポケットから名刺を取り出し、僕に差し出した。僕は無意識に自分のスーツの内ポケットを探った。そこには皮製の名刺入れが入っていた。名刺も入っている……僕は名刺を取り出した。


 龍口研新 Kenshin Tatsukutchi

  一級建築士


とシンプルすぎる肩書きが記載されている。僕はKTA(龍口研新建設事務所)主宰だし、多摩美術大学美術学部環境デザイン学科准教授の肩書きがあるはずだが……僕はとりあえず名刺を先に渡し、彼の差し出す名刺を「頂戴いたします」と言って受け取った。


 湯芽町図書館 司書

  田中 辰雄


と名刺には記載されていた。……湯芽町図書館! 何ということだ。夢は続いていた。

 「……田中さん、あの……セレモニーって?」

 「え? あ、失礼。いや、先生の建てられた、この湯芽町図書館と湯芽町現代美術館が開館して早五年が経ちます。その五周年記念セレモニーが、美術館の方で行われます。先生もご出席されると聞いておりましたので」

なるほど。夢の中でも僕は肩書きはないが、名の通った建築家であることに変わりはないようだ……

 「ちょっとからかっただけですよ(笑)。トイレどこでしたっけ?」

 「あ、ロビーに出て右手です」

 「ありがとうございます」

僕は男子トイレの個室に駆け込み、スーツの上着を脱ぎ、ポケットを探った。何やら封筒が入っている。中を確かめると、三つ折りにされた用紙がある。広げると横書きの文字が印刷され、文末に僕の名前があった。どうやら、今日はスピーチまでやらされるらしい。

 「勘弁してくれよ……」

心の声が思わす漏れた。そして、夢の中の僕は何故こんなにやる気満々なのか。これがフロイトの言う所の自我なのか……とにかく夢から覚めれば済む話だ。僕は個室を出て、手洗い場の水で顔を勢い良く洗った。目の前の鏡に映る僕の顔を見る。……覚めない。夢というのは、幻想的で曖昧模糊としていて、歪んだ空間の隙間のような、ハッキリとしない、ゆらゆらとしたサイケデリックなものだと思っていた。だが、鏡に映る僕は確固たるその存在を象徴するように真っ直ぐ僕の目を見ている。僕は何だか、違う自分に支配されてしまうような気がして、鏡から目を逸らした。


 「ああ! 先生、探しましたよ。式典がもう始まってしまいます。さ、こちらへ」

トイレを出ると、スーツ姿の就活中の大学生のような男が現れて、有無を言わせず、僕を先導した。図書館とは打って変わり、美術館は近未来的なデザインだ。ローマにあるArt Museum Strongoliのような、『サンダーバード』の基地みたいな建物だ。現在はデイヴィッド・ホックニーの企画展を開催している……夢の中でもホックニーは人気なんだな。『A Bigger Splash』じゃないか! カルフォルニアの燦々としたプールサイドの飛び込み板の向こうに、誰かが飛び込んだ瞬間の白い水飛沫が上がっている。その奥にはモダンな邸宅と椰子の木を望む。すごいな、夢の中でもやはり素晴らしいな。

 「先生、こちらからお入り下さい」

パーテーションで仕切られた、会場の裏側にどうやら特設ステージが設けられているらしい。その隙間からパイプ椅子が見えた。ここまで来ると、もう逃げられないな。僕は諦めて、促がされるままにステージに向かった。

 会場では、すでに多くの人間がシャンパングラスを片手に談笑していた。僕は一番近くにあるパイプ椅子に腰掛けた。

 「先生、ご無沙汰しています」

隣りに腰掛けていた、ちょび髭に丸眼鏡でオールバックという、大正ロマンのドラマにでも出てきそうな小柄な男が話しかけてきた。

 「あ、どうも……」

僕は会ったこともない男に軽く会釈をして、早く夢が覚めることを願った。

 「早いものですね、もう五年も経つとは。先生のご活躍、いつも眩しく拝見しております」

 「いえ、そんなに立派なものではないですよ」

僕は早く会話を終わらせる為に謙遜した。誰なんだ、こいつは? 美術館の関係者なんだろうか、湯芽町の役職か……とにかく早く夢から覚めないと。


 「ア、テス、テス。えー、お集まりの皆さま、大変長らくお待たせしました。本日は『湯芽町現代美術館、並びに湯芽町図書館開館五周年記念式典』にお越し頂き、誠にありがとうございます。早速ではございますが、湯芽町現代美術館館長の松永士郎よりご挨拶させて頂きます」


司会の声が会場に響き、僕はひと安心した。と同時に隣りの大正ロマン男が、立ち上がりマイクに向かって行った。……美術館館長だったのか。

 「えー、ご来場の皆さま、本日はお忙しい中、ご来場頂き、誠にありがとうございます。只今、ご紹介に預かりました、湯芽町現代美術館館長、松永士郎であります。この美術館と湯芽町図書館が開館し、こうして盛大に五周年記念式典を開催できますのも、ここに集まって頂いた皆様の御尽力の賜物であります。改めまして、厚く御礼申し上げます。当館ではこの五年間で、のべ八十万人を超える来場者数を記録致しております。現在、ポップアートの巨匠デイヴィッド・ホックニーの企画展を開催中です。彼の代表作であります、『A Bigger Splash』も展示しております。是非、皆さまもお時間ございましたら、一度御覧になってみてはいかがでしょうか。そして、本日は開館時以来、五年ぶりにこの美術館と湯芽町図書館をご設計頂きました、建築家であります、龍口研新さまにお越し頂いております」

松永士郎がそう述べ、僕の方を振り返り、彼の拍手とともに会場にいた人々からも拍手が……。僕は今、この瞬間夢が覚める一縷の望みを捨てきれぬまま、ゆっくり立ち上がり、内ポケットの紙切れを取り出した。促されるままにマイクスタンドの前に立つ。

 「えー、只今ご紹介に預かりました、龍口です。えー、本日はお日柄も良く、この様に沢山の方々にお越し頂き、誠に光栄でございます。この施設がオープンして無事、こうして五周年を迎えられましたのも、偏に皆様と、美術館館長の松永氏、図書館館長の本間計氏はじめ、関係者みなさまのおかげでございます。改めて深く御礼申し上げます。この施設の設計のお話を頂いたときは、まだ駆け出しだった私に、出身地である湯芽町の方々が白羽の矢を立てて下さったことに大変驚きました。同時に建築家として、これ以上ない形で錦を飾れると興奮したことを今でも覚えております……」

 

 僕は自分でも不思議なくらい、スラスラと書いてある文言を読み終え、気付くと盛大な拍手と歓声の中にいた。まるで、夢の中の僕と同化してしまったような奇妙な、しかし心地の良い感覚だった。僕は一礼し、元のパイプ椅子に腰掛けた。隣の松永はにこやかに頷きながら、拍手を続けていた。

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