第5話

 ……ピピピピッピピピピッピピピピッ……


スマホにセットした目覚ましアプリが鳴り続けている。ワタシはスマホのホームボタンを押し、画面に現れたスヌーズの文字を選択して、掛け布団を頭から被った。

 「やっぱり夢か……」

黄緑色のカバーを被せた枕元に置いたスマホを布団の中から手探りで掴み取り、〝あと3分33秒〟と表示されたスヌーズを取り消してワタシは上半身を起こした。

 ベッドの隣にある勉強机、白い本棚に収められた漫画の単行本と雑誌、窓の桟に置かれたクマのぬいぐるみ……夢で見たシックでお洒落な部屋とかけ離れた現実に、ワタシは少しガッカリする。

 どこからが夢だったんだろう? 図書館に行ったのも、タケオに会ったのも、丘の上で黒猫と話したのも全部夢だったのかな……

 「それにしてもリアルな夢だったな」

ワタシはベッドから出て、勉強机の上に置かれた村上龍の『イビサ』を見た。夢じゃない。図書館からどう帰ったかは覚えてないけど、あの龍口研新の部屋が夢だったんだ。良かった、夢で。あんなの龍口研新なんかじゃないわ。少女の手足を縛るなんて、サイコ野郎の行動だもの。

 ワタシはパジャマを脱いで、手足に痕が残ってないかさすりながら確かめた。大丈夫、十代の張りと艶豊かなお肌に変わりはないわ。クローゼットからセーラー服を取り出して着替え、教材の詰まった学生鞄に『イビサ』を突っ込んだ。

 一階のリビングに降りると、キッチンでお母さんが朝食を作っていた。

 「おはよう」

 「あら……おはよう、今日は早いのね」

お母さんは、まな板の上のキャベツを刻む音を響かせながらチラリと後ろを振り返った。 「手元見ないと危ないよ」

ワタシはリビングのテレビを付けて、朝の情報番組にチャンネルを合わせた。番組のお天気お姉さんが、全国の今日の天気予報を知らせている。高気圧が列島を覆い、全国的に今日も快晴、暑くなるみたい。それから、今日の運勢一位は「獅子座」。恋愛運は最高で複数の異性から告白されるかも、と。……別に好きでもない人に告られても困るだけだし、複数と付き合うビッチでもないし、今のご時世、同性愛だって普通だし、何なの? この歪んだ価値観は。とても古い時代を生きてきた占い師なのね。そんな人が朝の地上波で堂々と占いできるなんて、やっぱり異常だわ。でも、まあ告られるなら、それなりにおめかしは必要ね。うちの学校は化粧禁止だけど、つけまくらいしていこうかな。ワタシもこの前、ナツキちゃんと一緒につけまエクステやっとくんだった。

 「ミカ、ご飯できたわよ」

 「あ、はーい」

ダイニングテーブルの上に並んだトーストと、スクランブルエッグ、ウィンナーソテーに付け合わせのキャベツ、コップに入ったオレンジジュースを前にワタシは「いただきます」と手を合わせた。


 湯芽町高校は、町の中心部にあって湯芽町中学校、湯芽町小学校と併設している。朝の通学路には色とりどりのランドセルと、マリンブルーを基調にした制服の生徒たちがひしめき、まるで熱帯魚が泳ぎ回る海中を歩いているような気分になる。ワタシはその合間を軽快に、縫うように自転車で走り抜ける。タケオとナツキちゃんが並んで歩いているのを見つけ、ワタシは自転車を降りた。

 「おはよー」

 「あ、ちょうど今お前の話をしてたんだ。噂をすれば、神だな」

 「影だろ。あんたワザと間違えてるでしょ」

 「ミカちゃん、おはよ。大丈夫? 昨日、図書館で倒れたって聞いたけど……」

 「……え? ウソ?」

 「何だよ? 覚えてないのかよ? 帰る間際に田中さんがオレを呼んでさ。お前が二階の床の上で寝てて、呼んでも、叩いてもビクともしないから田中さんとオレで家まで送ったんだぜ。おばさんから聞いてないのか?」

 「う……そんな話、一言も言ってなかった。お母さんらしいと言えば、らしいけど」

 「まあ、熟睡してただけだから病院には行かなかったけど。お菓子と紅茶を田中さんとご馳走になったんだ。お礼に」

 「ったく、お母さんったら! 一言いってくれたらいいのに。ワタシが恥ずかしいんだから」

 「寝る子は速達って言うし、いいじゃん」

 「育つ、な!」

 「ウフフ、あなたたちって夫婦漫才みたいね」

ナツキちゃんが冗談じゃない、冗談を言ったので、ワタシは振り返った。


 「どこが!」


タケオとハモるように返すと、ナツキちゃんは「ほらぁ(笑)」と大笑いした。


 授業中も、ワタシの頭からはずっとあの夢のことが離れなかった。縛られていた手足首は未だに疼くし、噛んだ龍口研新の掌の感触が、まだ歯茎の神経を刺激し続けている。目覚めて数時間経つというのに、こんな夢は初めてだわ……


 「……(ミカちゃん!)」


 ワタシは、隣から窓際にいるナツキちゃんが小声で呼びかけていることに気付いて、そちらに顔を向けた。ナツキちゃんは人探し指で教壇の方を指していた。

 あゝ、ヤバ。スクール物のアニメとかでよく見る展開だ。ぼーっとしてて、先生に指名されてるのに気付いてなくて、みんなに笑われて先生に怒られて廊下とかに立たされる例のヤツだわ。でも、今の時代、廊下に立たせるのも体罰に当たるはず。大したことないわ、きっと。


 ワタシは顔を真っ直ぐ教壇の方に向けた。理科を教える力久先生が、牛乳瓶の底のような黒縁眼鏡のレンズを通してワタシを見ていた。

 「森、アインシュタインは知っているか?」

 「え? あ、はい。ベロ出してる写真の人ですよね」

 「そう。彼は相対性理論を提唱した天才だ。しかし、その理論が実は間違いかもしれないという有力説が実証されつつある」


 オランダのアムステルダム大学のエリック・ヴァーリンデ教授が、アインシュタインの重力理解は完全に間違っている上、謎の暗黒物質ダークマターも存在しないとする「ヴァーリンデの重力仮説」を提唱した。オランダ・ライデン大学の研究チームが、同理論を実証実験でも裏付けたという。研究チームは、恒星や銀河などが発する光が、途中にある天体などの重力によって曲げられたり、その結果として複数の経路を通過する光が集まるために明るく見えたりする現象「重力レンズ」を観察。そこで得られた、三万個以上の銀河における重力の分布を、「アインシュタインの理論(ダークマターモデル)」と、「ヴァーリンデの重力仮説」から導き出した重力の分布予測と比較したところ、両者ともに観測結果と一致したそうだ。ダークマターモデルは、自由な変数を使っているのに対し、ヴァーリンデ仮説は使っていないという点を考慮すれば、ヴァーリンデ仮説の方が理論としては幾分か優秀だ。重力は宇宙の基礎的な力ではなく、〝創発的な現象〟であるという……

 「……でも、リサ・ランドールの『ダークマターと恐竜絶滅』は」

 「お? リサ・ランドール知ってるのか? 凄いな」

 「しかし、あれはダークマターの存在を前提とした理論だ。ヴァーリンデ仮説では、ダークマターは存在しない。まあ、こんな理論は大学でやることだな、すまん、すまん。俺が言いたいのは、真の天才は全ての事象を当たり前に受け入れない、ということだ。こんなことを教師の俺が言うのも何だが、教室を出たら、教わったことを疑う思考を働かして周りを見て欲しい。それは、テストの点数にはならないが、人生をより豊かにすることは間違いない」

 授業の終了を知らせるチャイムがなり、みんなが起立して礼をすると同時に教室は談笑の声に溢れた。ワタシは立ったまま、力久先生が話していたことを考え、昨日の夢を思い出していた。

 「力久先生、夢の中で意識が時空を超えることはありますか?」

 「ん? おう、早速俺の教えを実践しているのか、偉いな。そうだな……」

クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』という映画がある。この作品では、宇宙の〝ワームホール〟を通じて何光年を移動する描写が出てくる、というかそういう話だ。この〝ワームホール〟は、そもそもアインシュタインがその存在を主張したものなんだが。宇宙空間に莫大なエネルギーによって、一時的に現れたり、消えたりする、ある地点と、ほかの時空を超えた地点を結ぶトンネルができるというんだ。理論上、ここを通れば時間と空間を超えるタイムトラベルも可能という話だ。もちろん実証というか、〝ワームホール〟の存在自体、証明はされていない。それに今は、五次元環状ブラックホールのシュミレーションをスーパーコンピューターで実施したところ、相対性理論で「事象の地平面」に隠されるとされた〝裸の特異点〟がむき出しになり、四次元内に存在してしまうことになる、という結果が出た。つまり、相対性理論が破綻してしまう可能性が出てきたんだ。ただ、「量子重力理論」が完成すればその問題も解決されるとも言われているが。


 しかし夢の話で言えば、カール・グスタフ・ユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地である、「集合的無意識」が存在すると言っている。つまり、人類はみな無意識の奥底で繋がっているということだ。だから、同じ夢を地球の裏側で見ているなんていうことはあり得るし、予知夢なんてのも当然肯定されている。この「集合的無意識」については、ジークムント・フロイトと袂を別つ議論になったんだが……

 「まあ、こんな難しい話してもしょうがないな。どうだ? 質問の答えになったか? というか、まだこの辺はいくつも説があって統一された見解はないんだが」

 「フロイトって、龍口研新が言ってた!」

 「え?」

 「あ、いえ、何でもありません。ありがとうございました!」

ワタシは鞄に教材と『イビサ』を詰め込み、教室を駆け出した。

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