第4話

 なんだ、悪い夢か。やけにリアルな夢だ。噛まれた右手はまだジンジンするし……夢で痛みを感じないなんて、迷信なんだな、ということを考える夢なのか? そもそも夢の中で思考するということは、可能なのか? しかし、ジークムント・フロイトの『夢判断』では、夢は記憶の素材から引き出される、無意識的な願望の統合された物語であり、無意識の自己表現と記されていたはずだ。僕はこんな少女に見覚えはないし、湯芽町なんて聞いたこともない。もしかしたら、街頭でこんな少女を無意識に視覚の隅に捉え、何かアニメで観た架空の町の名前を記憶していたのかもしれない。図書館の設計を依頼されたこともあった。あれは長崎県の三和町だったか? 長崎県立美術館は、確か隈研吾が設計していたはずだ。その後に建築された、長崎市立図書館が「第十三回公共建築賞優秀賞」を受賞してからは、不景気の煽りもあって、大都市以外の地方の公共施設の建設について、高名な建築家に公費を支払うようなことは地元民の反感を買うようになった。結局、僕が図書館を設計する話も有耶無耶になって流れてしまった……

 「ちょっと、聞いてます?」

は! いかん。とにかく、これが夢なら警察に捕まることもない。僕は、もう一度図書館カードを眺めた。湯芽町……ゆめまち? なんて安易なネーミングだ。まるで『トゥルーマンショー』のベニヤ板にベタ塗りされた空の下の世界で生きてるトゥルーマンみたいじゃないか。

 「で? 君が夢から醒めたら、僕は消えて無くなってしまうわけ? 君の夢が君のコントロール下にあると思うのは、大きな過ちだと思うよ。フロイトによれば、夢は無意識の下で……」

 「はい、はいはい。夢なんだから、そんな議論は無意味だと思います。ところで、喉乾いたので、アップルジュースもらえます?」

 「そんな甘ったるい飲料は、うちには無い。何でアップル限定なんだ? まあ、いい。僕も少し頭を整理したい。コーヒーを持ってこよう」

 「ぷっ……あははは」

 「何が可笑しい?」

 「だって、目を覚ますカフェインたっぷりのコーヒーを夢の中で飲もうなんて。何か可笑しくて」

 「だからだよ! 早くこんな悪夢からは醒めたいんだ。君の夢だろ? 早く目覚めろよ」

 「うるさいわね。龍口研新はクールなイメージだったのに……こんな幼気な女の子にムキになって。幻滅だわ、夢だとしても」

僕はベッドルームを出て、下にあるキッチンに向かった。

 「誰だって同じ態度を取るに決まってるだろ」

僕は、電気コンロの上のケトルに入れた水が沸くのを待ちながら呟いた。ドリッパーの上に紙フィルターを乗せ、ミルで挽いた豆をコーヒースプーンで掬い入れる。電気コンロで沸き立った湯が、蒸気でケトルの蓋をカタカタと鳴らす。僕は電気コンロのスイッチを切り、換気扇の下でセブンスターを一本抜き出し、ジッポで火を付けた。僕はセブンスターを咥えた口から思い切り息を吸い込む。タバコの葉っぱを燃やして出た煙が、フィルターを通して僕の肺に侵入する。僕は咥えたセブンスターを、右手の人差し指と中指で掴んだまま口から引き離し、肺に侵入して来た煙を思い切り吐き出して、現れた白煙を眺める。白煙は換気扇に吸い込まれ、夜の街に彷徨い出る。少し冷めたケトルのお湯をゆっくりと三回に分け、豆の上から時計回りにかける。コーヒー豆のエキスがドリッパーの下に開いた小さな穴から、プラスチックのドリッパーの中に落ちてゆく。

 僕はそのコーヒーの雫が落ちる様子を見ながら、再びセブンスターを咥える。


 ……ドクン!


 急に動悸が僕の全身を貫く。激しい頭痛とともに僕はキッチンの床に倒れこんだ。 


 目の前の景色が歪み始め、真夏の夜に隅田川の水面に映る何万の打ち上げられた花火のような画面が僕の角膜を覆い尽くした。

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